雨雲の日々
ざらざらざら、かっ、かつ、かつん。
そんな音がした。
何か固いものが滑り落ちて、それらがぶつかり合ったような音。
こぼした、また何かを、先生が。
先生、どこですか、先生。
感覚がふわふわとして、足取りが覚束ない。
これは床がおかしいのか、それとも自分がおかしいのか。
「どうしたの?」
ああ、いた、先生はすぐ目の前に居たじゃないか。
ここは、先生の家の台所、なのだろうか。
とてもよく似ているようで、少し違うような別の空間に居る、奇妙な感覚だ。
少し古い型のダイニングテーブル。角が丸い、優しい形の食卓。
上に散らばっているこれらは何だろう。
艶々としていたり、透き通っていたりする、色とりどりの輝きたち。
すっと視界に先生の指が差し込まれる。
「こぼしちゃったんだ」
ささくれの目立つ2本の指が、1つを掴んだ。
1円玉くらいの大きさの、透明な正八面体。
中には紫色から薄青色へと変わっていくオーロラの色彩が閉じ込められていた。
「先生、それは」
「蛍石 、だよ」
ああ、そうだ、これらは宝石だ。
蛍石が持ち上げられて、先生の口へと運ばれる。
薄く開いた唇に吸い込まれていく、正八面体のオーロラ、いや、蛍石。
ころりと舌で転がされている気配がする。
かち、と歯に当たって小さな音を鳴らした。
その内に右頬へと落ち着き、上下の歯が降りて。
さくり、噛み砕かれた。
「最近のお気に入りなんだ。外はさくさくしているけれど、中はふわっと柔らかい。今日のは葡萄味だったよ」
石はそんなにも軽い音を立てて砕けるのか。
「他にも、お気に入りは色々あるけれど、そうだね…どれが気になる?」
「……この、細かい青色。なんすかこれ」
「これは、青金石 だね。ざらめ状になっているから解りにくかったかな」
一粒、一粒、細かい粒の濃青色が散らばっている。
「濃い青の中に金色が混じっていて、深夜と夜明けの真ん中みたいだと、よく思うんだ」
小さな青い夜を数粒、先生が3本の指で摘まんだ。
「口を開けて」
あ、と、言われた通りに口を開く。
舌の上に青い夜が乗せられた。まだ唾液の絡まっていない飴が、舌に張り付く感触がする。
「それは、舐めてもいいし、噛み砕いてもいい」
助言にしたがって、まず舐めてみた。
想像していたのは、すぐに溶け砕けるような脆さ。
しかし、想像よりも硬さを持っていた粒達は、ひんやりと冷たい。
確かに太陽が沈んでいる。これは夜だ。それほど辛味の強くない、ペパーミントのような味がする。
なかなか溶けない粒を、噛み砕いてみた。
かりっ、パチっ、と小さく何かが弾ける音がした。
パチパチと口の中で弾けているのはなんだろう。
ソーダ水の炭酸が弾ける様に似ている。
「星が砕けるんだよ。最初は驚くけど、音が気持ちよくて楽しいだろう?」
しゅわしゅわ、パチパチ。
小さな音が更に小さくなっていく、小さくなって、音が消えるころには青金石もなくなり、その代わりにほんのりとした甘さだけが口内に残った。
「美味しかった?」
はい、と頷く。
「他も食べる?……うん?」
テーブルの端、ぎりぎりのところに留まっている角張った石をつまみあげて、先生へと差し出す。
透明な紫色をした、これまでよりも少し大きめな石。視界の隅で見つけた。不規則に所々が角張ったこの石は。
「紫水晶 」
「食べてください、先生」
「……この石が好き?」
「正直、普段からの思い入れはありませんが。あんたに食べて欲しい」
「これは君の石だね。誕生石」
「……先生、俺の誕生石とか認識してたんすね」
「……なんだい、その言われようは。いただきます」
5本の指を使って掴まれたその紫は、一口で食べきるには大きい。
そっと、先生はつやりとした石の表面へ口付けた。
これはまるで、接吻のようだと思う、そんな優しい触れ方だった。
そのまま石に軽く歯を立てると、ぱりんと微かな音がする。
丈夫そうな見た目とは裏腹に、薄い氷を割る様な音の中から、とろっと紫水晶が溶け出した。
角張った石が尚更、歪になっていく。
歪んだ箇所からゆっくりと石は溶けて、紫色の雫がぽたぽたと滴り始めた。
先生の指を伝って雫は分岐して、掌、手の甲、手首、腕へと滑り落ちていく。
溶けて零れる石を気にせずに、また歯を立てて、ぱりん、ぱりんと紫水晶が罅割れていく。
唇の端からも、紫の雫が細く流れている。
ひたすらに、先生は崩れていく紫水晶を食べ続けた。
原形がなくなり、掌には紫色の、砕けた欠片が散らかっている。紫色の雫の痕がうっすらと先生の手から腕にかけて残っている。
それらをちゅうっと、吸い取った。先生が。最後の1欠片、1滴まで残すまいと。
「ご馳走様」
瞬きを忘れていたんじゃないだろうか。
ただただ時間を忘れて、先生が食べる姿を見逃さないように。
それはどんな味がしたのだろう。
「不味くはなかったですか」
「……これは良くないかもしれない。あんまり食べすぎると、これしか食べられなくなりそうだから」
先生が照れたように、困ったように笑う。
ああ、確かに良くないかもしれない。その顔を見たいあまり、俺は他の宝石を食べつくしてしまいそうだから。
「……先生のは、無いんですか?」
鮮やかな黄緑色を、卓上に探すが、見当たらない。
「僕の……ああ、今日は、品切れかな。食べたかった?」
「そりゃあ、もう」
「……なら、次に来た時は、とって置いてあげる」
「次……」
先生、次は、あるんですか?
***
ざらざらざら、かっ、かつ、かつん。
そんな音がして、出雲の目が覚めた。
何か固いものが滑り落ちて、それらがぶつかり合ったような音。
どうやら、左雨の家でうたた寝をしていたらしい。
畳の上で横になり、座布団が枕替わりになっている。
ゆっくりと鮮明になる意識で起き上がり、出雲は捉えた音の方へと向かう。
木の床を踏む足音に気が付いて、食卓の前に立つ左雨が振り向いた。
「おはよう」
「ございます……。どのくらい寝てました?」
「30分くらいだよ。まだ寝てても良かったのに」
「そういう訳には。……ところで、何してたんすか、この惨状は」
惨状、というには大袈裟だが。
食卓の上に大量に、台所の床にはちらほらと、何かが散らばっていた。
白み掛かった透明な結晶の小粒が、そこらじゅうに。
「……水晶?」
「……氷砂糖だよ?」
「…………ですよね」
夢のせいか、おかしな発言をした。
「これを使って、色々作ろうと思って」
氷砂糖以外にも、卓上には、いくつか果物が置いてある。
中でも目についたのは、鮮やかな、黄緑色の。
「……マスカット」
出雲は思わず、宝石の名前を呟きそうになったが、それを堪えた。
「うん、白ワインと、氷砂糖と、マスカットと葡萄で。君が好きだって言ってた、サングリア」
「で、準備中にドジったんですね」
「うん……取りあえず、食卓に零したのなら使えるから、それで」
苦笑しながら、左雨が氷砂糖を拾い集める。出雲もそれを手伝う。
「……確かに、宝石みたいだね」
「え?」
「君が氷砂糖を、水晶と言ったから、確かになぁと思って」
左雨は一粒、氷砂糖を自分の口に運んだ。
カロッ、と歯に当たる音がした。
出雲は、夢の光景を思い出して、なんとも言えない気分になり、少しだけ目を逸らした。
逸らした先には、鮮やかな、黄緑色──左雨の誕生石とよく似ている、マスカット。
出雲は一粒、果実を摘み取り、自分の口に運んだ。
夢で味わえなかった橄欖石 は、こんな感じだったのかなと思いながら。
そんな音がした。
何か固いものが滑り落ちて、それらがぶつかり合ったような音。
こぼした、また何かを、先生が。
先生、どこですか、先生。
感覚がふわふわとして、足取りが覚束ない。
これは床がおかしいのか、それとも自分がおかしいのか。
「どうしたの?」
ああ、いた、先生はすぐ目の前に居たじゃないか。
ここは、先生の家の台所、なのだろうか。
とてもよく似ているようで、少し違うような別の空間に居る、奇妙な感覚だ。
少し古い型のダイニングテーブル。角が丸い、優しい形の食卓。
上に散らばっているこれらは何だろう。
艶々としていたり、透き通っていたりする、色とりどりの輝きたち。
すっと視界に先生の指が差し込まれる。
「こぼしちゃったんだ」
ささくれの目立つ2本の指が、1つを掴んだ。
1円玉くらいの大きさの、透明な正八面体。
中には紫色から薄青色へと変わっていくオーロラの色彩が閉じ込められていた。
「先生、それは」
「
ああ、そうだ、これらは宝石だ。
蛍石が持ち上げられて、先生の口へと運ばれる。
薄く開いた唇に吸い込まれていく、正八面体のオーロラ、いや、蛍石。
ころりと舌で転がされている気配がする。
かち、と歯に当たって小さな音を鳴らした。
その内に右頬へと落ち着き、上下の歯が降りて。
さくり、噛み砕かれた。
「最近のお気に入りなんだ。外はさくさくしているけれど、中はふわっと柔らかい。今日のは葡萄味だったよ」
石はそんなにも軽い音を立てて砕けるのか。
「他にも、お気に入りは色々あるけれど、そうだね…どれが気になる?」
「……この、細かい青色。なんすかこれ」
「これは、
一粒、一粒、細かい粒の濃青色が散らばっている。
「濃い青の中に金色が混じっていて、深夜と夜明けの真ん中みたいだと、よく思うんだ」
小さな青い夜を数粒、先生が3本の指で摘まんだ。
「口を開けて」
あ、と、言われた通りに口を開く。
舌の上に青い夜が乗せられた。まだ唾液の絡まっていない飴が、舌に張り付く感触がする。
「それは、舐めてもいいし、噛み砕いてもいい」
助言にしたがって、まず舐めてみた。
想像していたのは、すぐに溶け砕けるような脆さ。
しかし、想像よりも硬さを持っていた粒達は、ひんやりと冷たい。
確かに太陽が沈んでいる。これは夜だ。それほど辛味の強くない、ペパーミントのような味がする。
なかなか溶けない粒を、噛み砕いてみた。
かりっ、パチっ、と小さく何かが弾ける音がした。
パチパチと口の中で弾けているのはなんだろう。
ソーダ水の炭酸が弾ける様に似ている。
「星が砕けるんだよ。最初は驚くけど、音が気持ちよくて楽しいだろう?」
しゅわしゅわ、パチパチ。
小さな音が更に小さくなっていく、小さくなって、音が消えるころには青金石もなくなり、その代わりにほんのりとした甘さだけが口内に残った。
「美味しかった?」
はい、と頷く。
「他も食べる?……うん?」
テーブルの端、ぎりぎりのところに留まっている角張った石をつまみあげて、先生へと差し出す。
透明な紫色をした、これまでよりも少し大きめな石。視界の隅で見つけた。不規則に所々が角張ったこの石は。
「
「食べてください、先生」
「……この石が好き?」
「正直、普段からの思い入れはありませんが。あんたに食べて欲しい」
「これは君の石だね。誕生石」
「……先生、俺の誕生石とか認識してたんすね」
「……なんだい、その言われようは。いただきます」
5本の指を使って掴まれたその紫は、一口で食べきるには大きい。
そっと、先生はつやりとした石の表面へ口付けた。
これはまるで、接吻のようだと思う、そんな優しい触れ方だった。
そのまま石に軽く歯を立てると、ぱりんと微かな音がする。
丈夫そうな見た目とは裏腹に、薄い氷を割る様な音の中から、とろっと紫水晶が溶け出した。
角張った石が尚更、歪になっていく。
歪んだ箇所からゆっくりと石は溶けて、紫色の雫がぽたぽたと滴り始めた。
先生の指を伝って雫は分岐して、掌、手の甲、手首、腕へと滑り落ちていく。
溶けて零れる石を気にせずに、また歯を立てて、ぱりん、ぱりんと紫水晶が罅割れていく。
唇の端からも、紫の雫が細く流れている。
ひたすらに、先生は崩れていく紫水晶を食べ続けた。
原形がなくなり、掌には紫色の、砕けた欠片が散らかっている。紫色の雫の痕がうっすらと先生の手から腕にかけて残っている。
それらをちゅうっと、吸い取った。先生が。最後の1欠片、1滴まで残すまいと。
「ご馳走様」
瞬きを忘れていたんじゃないだろうか。
ただただ時間を忘れて、先生が食べる姿を見逃さないように。
それはどんな味がしたのだろう。
「不味くはなかったですか」
「……これは良くないかもしれない。あんまり食べすぎると、これしか食べられなくなりそうだから」
先生が照れたように、困ったように笑う。
ああ、確かに良くないかもしれない。その顔を見たいあまり、俺は他の宝石を食べつくしてしまいそうだから。
「……先生のは、無いんですか?」
鮮やかな黄緑色を、卓上に探すが、見当たらない。
「僕の……ああ、今日は、品切れかな。食べたかった?」
「そりゃあ、もう」
「……なら、次に来た時は、とって置いてあげる」
「次……」
先生、次は、あるんですか?
***
ざらざらざら、かっ、かつ、かつん。
そんな音がして、出雲の目が覚めた。
何か固いものが滑り落ちて、それらがぶつかり合ったような音。
どうやら、左雨の家でうたた寝をしていたらしい。
畳の上で横になり、座布団が枕替わりになっている。
ゆっくりと鮮明になる意識で起き上がり、出雲は捉えた音の方へと向かう。
木の床を踏む足音に気が付いて、食卓の前に立つ左雨が振り向いた。
「おはよう」
「ございます……。どのくらい寝てました?」
「30分くらいだよ。まだ寝てても良かったのに」
「そういう訳には。……ところで、何してたんすか、この惨状は」
惨状、というには大袈裟だが。
食卓の上に大量に、台所の床にはちらほらと、何かが散らばっていた。
白み掛かった透明な結晶の小粒が、そこらじゅうに。
「……水晶?」
「……氷砂糖だよ?」
「…………ですよね」
夢のせいか、おかしな発言をした。
「これを使って、色々作ろうと思って」
氷砂糖以外にも、卓上には、いくつか果物が置いてある。
中でも目についたのは、鮮やかな、黄緑色の。
「……マスカット」
出雲は思わず、宝石の名前を呟きそうになったが、それを堪えた。
「うん、白ワインと、氷砂糖と、マスカットと葡萄で。君が好きだって言ってた、サングリア」
「で、準備中にドジったんですね」
「うん……取りあえず、食卓に零したのなら使えるから、それで」
苦笑しながら、左雨が氷砂糖を拾い集める。出雲もそれを手伝う。
「……確かに、宝石みたいだね」
「え?」
「君が氷砂糖を、水晶と言ったから、確かになぁと思って」
左雨は一粒、氷砂糖を自分の口に運んだ。
カロッ、と歯に当たる音がした。
出雲は、夢の光景を思い出して、なんとも言えない気分になり、少しだけ目を逸らした。
逸らした先には、鮮やかな、黄緑色──左雨の誕生石とよく似ている、マスカット。
出雲は一粒、果実を摘み取り、自分の口に運んだ。
夢で味わえなかった
