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雨雲の日々

どら焼き、というと。

文芸部の部室のゴミ箱に捨てられている袋。

横に破かれたビニール袋には、毛筆体で"どら焼き"と、中央に大きく書かれている。

出雲は週に3回の部活動の中、日替わりで3,4種類ほどのデザインバリエーションを見た。

文芸部に所属しているのは3名だが、実質、左雨と出雲の2名だけ。1人は部活存続の数合わせのために、出雲が帰宅部の友人の名前だけ借りている。

そんな現状で、どら焼きの包み紙やビニールを捨てている人間。

九分九厘、左雨先輩だろう。

出雲は勝手に、左雨の好物はどら焼きだと解釈している。

以前、1度だけ、コンビニに売っているどら焼きを買って来て、左雨に渡した事がある。

無表情に、ありがとう、と言って受け取ると、鞄の中にしまっていた。

そういえば、左雨が何かを食べる姿を見たことが無い。

どら焼きに限らず、他の食べ物や飲み物すら。

恐らく、出雲が部室に来る前か、誰も居ない時に食べているのだろう。

──食べている姿をみられるのが、そんなに嫌なのか?

自分は好きに持ち込んで、好きにしている。

菓子類はあまりないが、缶コーヒーなどを持ち込んでいる。

それについて、左雨は何も言わない。

もし、先輩が好きなペースで食べられていないのなら、何となく居心地が悪い。

***

放課後、少し日の落ちた空が、部室の窓に映る。

まだ夕日は昇っていない。

「先輩はどら焼きが好きなんですか?」

左雨と出雲は、互いに無言で読書をしていた。

唐突過ぎる質問に、左雨の方が小さく跳ねる。

ああ、動揺している。

あからさまにではないけれど、よく見ていると、意外とわかりやすい。

「……」

左雨は本のページから目を逸らす。出雲の方も見ない。

うっすらと埃が溜まった、部室の角に視線を逃がした。

出雲はその態度を、無視をされたとは捉えない。

左雨は自分から話すことは殆どない上に無愛想だ。

しかし、出会いから今まで、過ごした短い時間の中で、こちらの質問を無視されたことはなかったからだ。

これは、目を逸らしながらも、何か考えている──のだろう。

「……」

ずいぶん長く感じる、そんなに長くない間を置いて。

「……好きだよ」

どうしてわかったのかと、左雨が目で訴えかけてくる。すぐにまた目を逸らされたが。

「いえ、ごみ箱によく、入っているんで……」

「そう」

左雨の返事は短いが、耳と顔が少しだけ赤い気がする。

人に教えていないことを知られているというのが、気恥ずかしく思うのかもしれない。

これ以上は、左雨側から話を進めることが無さそうだった。

彼は対話を、望んでいないのかもしれない。

もしかしたら、望んでいるのかもしれない。

どちらかなど出雲にはわからない。だから、話をする。

「俺が居ると食べにくいですか」

我ながら、なんて気の回らない言い方だと思うが。

「いや、なんで、その、違う。そんなこと……」

案の定、左雨は狼狽えている。ほとんど図星だったのだろう。

出雲は、自分が器用に人と付き合えるなどと思ったことは無く。

それは左雨も、先輩も同じなのではないかと思った。

自分の周囲の人間というのは、器用に回っていて。

歯車と歯車がかみ合っていて、普段の自分は、それに乗っかっているだけ。

先輩は──乗っかれずにいる人間。

これはただの、一方的な印象だけれど。

そんな器用に回れない人間に、どう自分は乗っかるのか。

いや、その乗り方がわかるほど、器用ではない。

ならもう、考えるな。

「俺は自分の好きにやってます。先輩も、先輩の好きにやってください」

出雲は、気の利かないまま、不器用なまま左雨と接する事を選んだ。

「……僕は、じゅうぶん好きにやっているよ」

「そうですか?先輩、人が居ると食べにくいのかと」

はっきりと、そんな風に言われたり、聞いたりされたことが無かった。

今度はしっかりと長い沈黙の後、左雨が口を開く。

「……食べにくい、けど。……別に、君が悪いわけじゃないん、だよ」

食べにくい訳じゃないと言って、適当に誤魔化して流すこともきっと出来た。

だが、出雲の取繕わない態度に、応えたい気持ちが左雨にはあった。

だから、嘘をつかなかった。

食べにくいことも、出雲が悪い訳ではないことも、本当のことなのだと。

「……そうですか」

出会ってからたったの2か月、その内会うのはたったの週3日。

時々耳にする、左雨に対する噂は、ろくなものではない。

本人も、無口で無愛想で、何を考えているのかわからない。

それでも出雲はわかった。

この人は不器用だ。難儀だ。俺よりもずっと。

「なら、先輩が食べている時は目を閉じますから、好きに食べてください」

我ながら、なんて気の回らない提案だと、出雲は思うが。

「……」

「これから夏になったら喉乾きますよ。飲み物とか」

「……君は、変人だな」

「まあ、たまに変わっていると言われますね」

「だろうね……」


出会ってからたったの2か月。

あまり他人が好きではなかった頃の左雨と、接し方に迷っていた頃の出雲の、何でもない日だった。

***

日が落ちるのが、とても早くなった。

窓の外、夕日の色も消え、濃紺の空の比率が高くなる。

部室の机の上に、未開封のどら焼きが置いてあるようになったのはいつからだったか。

毎回、種類が違う。

「……先輩、何個目ですかそれは」

空いている左手で、4、と指をピンと立てたまま、左雨はどら焼きを頬張っている。

「流石に食べすぎです」

「……んっ。大丈夫」

どら焼きを咀嚼し、飲み込み、全て食べ終えた左雨が自信ありげに言う。

「身体に悪いです」

「若いから」

出雲の苦言をさらりと流して、左雨は5つ目のどら焼きに手を伸ばした。

袋を開けようとする左雨の手をやんわりと掴み、止める手があった。

「身体に悪いです」

手を掴んだまま、同じことを繰り返した出雲を、気を悪くした訳でもない左雨がじっと見て。

「……なら、はい」

「えっ」

どら焼きを、出雲に差し出した。

「……餡子は、嫌い?」

左雨と出雲は互いの好みを把握していない。

まだまだ、知らない事の方が多い。

「いえ、嫌いじゃないですけど」

「そう」

「……えっと、ありがとうございます」

初めて、左雨から貰った。

部室に置いてあるどら焼きを、出雲だって食べてはいたのだ。

好きに食べて良いという、無言の了解のようなものがあったからだ。

初めて、直接、手渡された。それだけの事だが──何だか特別な事に思えた。

「でも食べすぎはダメです」

「はいはい……。ねえ」

「なんです?」

「……ずっと前に、くれたどら焼き。美味しかったよ」

何か月も前の話だったし、今更の話で、それでも出雲は嬉しいと思った。

「……それは、良かったです」

出雲がどら焼きの入ったビニールを破く。

毛筆体の大きな文字が横に裂けた。

艶のある茶色い表面、カステラ生地からは、卵の香りがする。

ぱくりと1口齧ると、ふわふわとした生地と、ほんのりとした蜂蜜の甘み。

こし餡の、滑らかな舌触りを堪能している出雲を、左雨は少し羨ましそうに見ている気がした。

「アンタは4つ食べたでしょう」

「別に羨ましがってないよ」

「……次は俺が買ってきますから、食べすぎないでくださいね」

「わかった、わかった」

無口さや無愛想さが、少し和らいだ頃の左雨と、接し方から変な遠慮が抜けてきた頃の出雲の、何でもない日だった。
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