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雨雲の日々


たまには自分で台所の掃除でもしようかと思い立ち、左雨は重い腰を上げて台所に来てはみた。

だが普段やらない事をいきなりやろうとして、成功するほど器用ではない。

そもそも、左雨自身の炊事能力に反して、台所には物が多い。

そのあたりの事情は、家事が好きだった左雨の祖母の趣味や性格が関係している。

特別広いとも、狭いともいえない、四角いレトロな台所。

ガスコンロやシンクの下の収納スペースの扉を開く。

わかってはいたが、やはり物が多い。

大、中、小、さまざまな大きさの鍋やフライパン。

ボウルにしても、ガラス、ステンレス製の2種類。

ザルとフタがセットになっている、カラフルなボウル。

洋菓子を作るときに必要な、金属でできた型のようなもの。

これらがあれば、スポンジケーキやパウンドケーキ、マフィンやマドレーヌも作れるだろう。

元々はジャムやはちみつが入っていた、空のガラス瓶が数種類。

注ぎ口の太いヤカンと細いヤカン。

電子式じゃない、古い型の秤。

形以外の違いが判らない包丁が数本。

霧吹き、雑巾、布巾、スポンジ、洗剤が数個。など。

祖母が遺していった道具達を見て、よくこんなに集めたなぁと、妙に感心する。

同時に、ほとんど自分はこの道具達を活用しきれていない為、祖母に申し訳ない気持ちになる、こともある。

それでも、祖父母が亡くなった当時よりは使われている。

自身の編集担当である、変わり者の後輩の手によって。

そういえば、普段は必要最低限の箇所しか使わない為、自分で台所をまじまじと見ることがほとんどない。

まだ何か、知らないものが隠れているかもしれない。

左雨は、自分の好奇心に嘘をつけず、掃除の事もすっかり忘れて、そこらじゅうの戸棚にちょっかいをかけ始めた。

そして、普段はあまり使っていない戸棚の奥。

あまり大きくない、ハンドルが付いた手挽き用のコーヒーミルを見つけた。

懐かしい、と思った。

記憶はおぼろげだが、昔、幼かったころに数回だけ見たことがある。

珈琲が好きだった祖父が、ミルのハンドルを回していた。

がりがり、がりがり。

何か黒いものを削る音、コーヒー豆だと教わって、自分も少しだけ回させてもらった。

がりがり、がりがり。

ほんの少し抵抗感がある金属のハンドル。木製の取っ手を、一生懸命回していくと、コーヒーの香りがした。

その時は、苦そうなにおいがする、と、顔を顰めた。

それから、それから。

覚えているのはそこまでだった。

コーヒーを飲まない人間なせいか、左雨はそこまでしか覚えていない。

ああ、でも1つだけ覚えていた。

こんな苦そうなものが美味しいのかと、しかめっ面で聞いた自分に対して。

大人になればわかる。

面白そうに、祖父にも祖母にも、そんなことを言われた気がする。

もう20も後半で、自分は十分、大人だろうか?

子供の頃ではわからなかったことが、今なら、何かわかるのだろうか。


使われなくなった、止まったままのコーヒーミルのハンドルを、動かしてみた。

からから、からから。

中身のない、がらんどうな音がした。

からから、からから。

この音を彼が聴いたら、どう思うだろうか?

使われないのは勿体ないと思うだろうか。

ふと、後輩がミルのハンドルを回す姿を想像してみた。

仕事に打ち込む時の、あの真剣な表情で、丁寧に、あの指で。

それは憎たらしいくらい似合う気がした。

──そうだ、それに、彼はよく珈琲を飲むから、だから……。

ああ、思い出した。


休日、左雨は縁側に腰掛けて、後輩を待つ。

背にした居間のテーブルには、祖父母の遺したコーヒーミルと、昨日買ってきたばかりのコーヒー豆とフィルターがあった。

何が良いのか、何を選べばいいのかは解らないまま、その日のオススメを買ってきた。

後輩がミルのハンドルを回す姿は、学生時代の想像通り、憎たらしいくらい似合うのだろうと思いながら。

そして、珈琲を飲んだ後、まったく進まなかった掃除の続きを、2人でするのだろうと思いながら。

***

「これ、どうしたんすか」

卓上のコーヒーミルを見て、出雲が意外さを交じえた声を上げる。

左雨は基本的に珈琲を飲まない。

味の好き嫌い以前に、積極的に飲もうとすることが無い人間だった。

その事を知っているからこそ、卓上の物品を左雨が所持していたことが、出雲には意外に思えた。

「昔、祖父が時々使ってた物なんだけど。自分は珈琲飲まないからねぇ。使っていなかったんだ」

出雲がからからと、ハンドルを軽く回す。

問題なく動き、壊れた箇所は見当たらない。

「勿体ない」

予想から外れない、率直な出雲の反応に、左雨が苦笑する。

「だろうね。台所から掘り当てたんだよ」

「はあ、なんでまた」

「たまたま、偶然。折角だから使ってみようと思って」

豆もフィルターも買ってみたんだと、のんびりと語る。

「先生は飲まないのにですか」

「普段はね。でも、飲みたくなったんだ」

ようはちょっとした気まぐれ、好奇心、興味。

誰にでもある、小さな冒険心。気分が向いた。

「そんなもんですか」

「そんなもんです。けど、買ったはいいけど淹れ方はよくわからなくてね」

「調べれば淹れれますよ」

「知識と実践が、結びつくとは限らないよ」

この言い方というか、態度というのは、左雨が後ろ向きだとか、新しいことに怖気づくだとか、そういうことではない。

4分の1は怠惰で、残りは──。

「……つまり、俺に淹れてくれと」

「うん、頼むよ。君ならできる」

「……」

これっぽっちも悪びれずに、頼られてしまった。

信頼や気軽さが内包された甘えを、突き返す気になれない出雲が、黙ってコーヒーミルを持って台所へと向かう。

後ろから、フィルターと豆を持った左雨が追いかけた。

***

高校時代。

倉庫のような役割を持った小さな空き教室、たった2人だけの文芸部。

部室の中、先輩と後輩だった頃に交わした会話を思い出す。

「君は……珈琲が好きなのかい?」

読んでいる本に目を落としたまま、無愛想で無口な先輩が突然聞いてきた。

「え、なんで……いや、まあ、好きです」

何か個人的な事を聞かれたのは初めてで、気だるげな顔をした真面目な後輩は、少しだけ面食らって答えてしまう。

「よく飲んでる。ブラックの」

「そう、ですね。缶ならこれです」

真っ黒な缶を片手で軽く持ち上げる。

それを左雨は見てもいないが、出雲は雰囲気で伝わっているだろうと、特に気にもしていない。

「ブラックだけ?」

「甘い珈琲は、あまり。苦い珈琲と甘いもんの組み合わせが好きで」

「……へぇ」

部室に常備している駄菓子のほかに、今日はどら焼きを持ってきている。

恐らく左雨の好物なのだろうと、出雲が選んだものだった。

珈琲と和菓子の組み合わせも、意外と合うのだと出雲は話したが、左雨の反応は鈍かった。

珈琲に興味が無いか苦手かのどちらかだろう。

「ああ、でも、これも美味いですけど。ミルで豆を挽いた、淹れたての珈琲が一番ですね」

「そうなんだ」

「ええ、個人的な意見としては」

「ふーん。……自分でやるの?」

「たまに」

「へぇ……」

相変わらず、左雨はこちらの方を見向きもしない。いつもの事だ。

それよりも、ここまで興味を示されたのは、この時が初めてだ。

出雲と左雨は、1つ1つ、短い言葉を交わし合う。

「ああ、すみません。そろそろ帰ります。用事があって」

「そう」

「では、失礼します」

「……」


また明日、の言葉すら交わしていなかった頃の話。

がりがり、がりがり。

懐かしい記憶を、コーヒーミルで豆を挽く音を聴きながら、思い出していた。

***

「苦いね」

猫の模様が描かれたコーヒーカップに口を付け、左雨は硬い微笑みを浮かべた。

出雲が淹れた珈琲を飲んだ感想は、面白味の無いものだった。

わかりきっている事実を、ぽんと投げたような。

珈琲を飲み慣れていない人間からすれば、大半の感想はこんなものだろう。

出雲は特に反応を気にすることなく、自分で淹れた珈琲を飲み込む。

「そりゃあ、珈琲ですから」

「うん、でも、美味しいんだと思う」

「微妙な評価ですね」

「そりゃあ、珈琲飲まない人間ですから」

楽しそうな苦笑を浮かべて、左雨は珈琲を啜る。

「……大丈夫、美味いですよこれ」

出雲は学生時代から、趣味で珈琲を淹れ続けている。

プロというほどではないが、味の良し悪しくらいの判断はつく。

人に出せる程度の珈琲にはなっているはずだ。

「君が言うなら、間違いない。豆を挽いた淹れたての珈琲、だからね」

「……」

懐かしい記憶の中、確か、そう言ったのは自分だと、出雲は気が付く。

それはただの、過去の日の1場面だ。

覚えていたのか。

よく、覚えていたものだ。お互いに。

過去の日の、あの短い会話を、先輩はどう受け取っていたのだろう。

「……次は先輩が淹れてくださいよ」

出雲は左雨を先輩と呼んだ。

先生ではなく、あえて先輩と。

「……美味しくないよ、きっと」

「俺は飲みたいんです」

「そう……」

高校時代の時のような、会話を流すような左雨の短い返事。

その微笑みは、柔らかい。

***

初めて出雲が淹れた珈琲を飲んだ日から、1週間後。

「覚えてたんすか」

「自分が飲みたかっただけだよ」

花柄の、カラフルなコーヒーカップに注がれた、淹れたての珈琲。

不器用なりに左雨が淹れた珈琲は、決して美味とはいえないだろうが。

「火傷、しませんでした?」

「してません」

「よかった。……いただきます」

「どうぞ」

味の良し悪しなど、大切ではない。

出雲は、左雨が淹れた珈琲が飲みたかった。

きっと、相手もそう思ったから、自分にコーヒーミルの存在を教えたのだろう。

左雨も出雲も、お互いの珈琲が飲んでみたかった。

ただ、それだけ。

過去に踏み込み切れなかった事の続きを、今、しているのだ。
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