雨雲の日々
百貨店に訪れる客の数は、平日休日の区別なく多いものである。
しかし休日は特に人が多い。
更に言えば、百貨店の地下──所謂"デパ地下"と呼ばれる階層は歩きにくい。
洋菓子や和菓子、食料品のショーケースや棚に囲まれた通路が人で埋まっている。
自分はこういう混雑に慣れているが先生は大丈夫だろうかと、先を歩いていた出雲は後ろを振り返る。
案の定、出雲と左雨の距離はだいぶ離れてしまっている。
この数十秒の間に人に流されてしまったのか。
左雨は頻繁に人にぶつかりそうになっては、ぎこちなく微笑みを浮かべて「すみません」と謝っている。
謝罪の合間に、店員に菓子類の試食を勧められる。「え、あ、ありがとうございます」と勧められるがままに左雨はそれらを受け取っていた。
その様子を心配そうに、同時に、可笑しそうに眺めていた出雲が、左雨を迎えに行く。
「先生、大丈夫ですか」
「あ、うん。ごめんね遅れて」
「いえ、気にしないでください……どれか持ちます?」
その場で食べて、つまようじやスプーンをすぐに返すという行為に慣れていないのか。それとも人に流されてしまったからか。
左雨の右手には、小さなプラスチックスプーンで掬われたチーズケーキが1つ。
左手にはクッキー1枚とつまようじに刺さったチョコレートを種類違いで2つ、持ち辛そうに持っている。
「じゃあ、君が好きなもの」
選んだ物を君にあげるよという意図が声の調子に乗っかっていた。
「……なら」
出雲はチョコレートを一つ選んだ。
チーズケーキとクッキーは1種類しかないが、チョコレートなら片方が左雨に残るから良いだろう。
「……クッキーかケーキも食べない?」
「いいんすか?」
「うん。3つも独り占めするのは、どうかなぁと思って」
試食1つでそこまで考えなくてもいいだろうにと出雲は思ったが。
左雨のそういう所が嫌いではないので、素直にクッキーを受け取った。
***
──先月、出雲が持ってきてくれた大福が美味しかった。
人の多い場所が苦手な左雨が、百貨店に訪れた発端はそんな理由だった。
余程その時の大福が気に入ったのか、珍しく「また食べてみたい」と左雨は出雲に話した。
話を聞いた出雲は最初、ならば次の休日にでも買って左雨の家に持って行こうかと考えた。
だが、すぐに考えを改める。
最近、左雨は外に連れ出される事を──恐らくは喜んでいるように思う。
少しずつではあるが、混雑している場にも抵抗が無くなってきている。
主観でしかないが、出雲の目にはそう見えた。
だから、提案したのだ。大福を売っている百貨店に行ってみないかと。
「デパートなんて本当に久しぶりだったから、少し驚いたよ」
左雨が人の多さに苦笑しながら、進み辛そうに出雲すぐ後ろを歩く。
「何か月……いえ、何年ぶりです?」
「うーん、2年……もう少し短いかな……祖父母が元気だった頃に、荷物持ちで時々ね」
「へえ……っと、すみません、失礼」
出雲は他の人間を器用に避けながら歩く。先導しているおかげで、左雨は随分と歩きやすくなった。
人が密集している通路を抜けて、少し開けた空間に出た。エスカレーター前だ。
近くの柱には、階層の案内図が表示されている。
「先生、大福屋が丁度、この右の通路なんすけど……今すぐ行きます?」
案内図を2人で眺めながら、出雲は目的地を指さす。
一拍ほど、左雨には考える間があったが。
「色々、見て回ってからでもいい?」
普段と変わらない左雨の穏やかな眼差しの奥に、出雲は好奇心の光を見た。
***
左雨の興味が赴くままに進んでいるため、必然的に和菓子屋が集まっている通路を歩く。
種類が豊富な饅頭、カステラ、羊羹、最中や色とりどりの和三盆や金平糖。
静かに、けれども緩んだ目で眺めつつ左雨は進む。
時折、店員による営業トークに捕まっては、それを真面目に聞いている。
下手をすれば勧められるがままに和菓子を購入してしまいそうになる左雨に、キリの良い所で「他も見てから決めませんか」と出雲が助け舟を出す。
人の多い、賑やな空気を楽しみながら。
「バレンタイン期間限定、抹茶味の生チョコレートのご試食です。いかがでしょうか?」
ハキハキとした女性店員の声と共に、つまようじに刺さったチョコを渡される。
チョコを受け取った左雨が、はい、とそのまま出雲に渡す。
どうも、と受け取った出雲の様子を見た店員が、追加のチョコを左雨に渡している。
先程の様に、つまようじを捨てそびれるまま人に流されることは無かった。
とても美味しいです、と店員に感想を言いながら、左雨は使用済みのつまようじを回収箱に入れた。
出雲も続いて、ありがとうございます、と回収箱に入れた。
「そういえば、バレンタインの時期だったね」
だからチョコレート売り場が賑わっていたんだ、とのんびり話す。
「この期間だけの特別出店も多いですから、まあ繁盛しますよね」
別の百貨店の催事場では、フロア全体を使って様々な店舗のチョコレートを売っているらしい。
「折角だし、僕も何か買おうかな」
「自宅用に?」
「うん、帰ったら一緒に食べない?」
チョコレートを。一瞬だけ、それは「何チョコ」と呼ばれるものなのだろうと。
本当に一瞬だけ出雲は考えたが。
「いいすね。ならお茶も買いますか、すぐそこに売ってますし。確かもう家に無いでしょう」
濃厚な茶葉の香りに誘われ、まあ名前なんて付けなくてもいいだろうと思った。
自分達にとっては普段となんら変わらない、美味い茶請け菓子なのだから。
どのチョコレートが良いだろう、とデパ地下全体を歩き回り、気になるものを探した。
最終的には、当初の目的であった大福屋の限定商品。抹茶チョコ大福とほうじ茶チョコ大福を左雨が購入した。
お茶の方は、緑茶と玄米茶の葉を出雲が購入した。
支払いなら此方がすると左雨が言っていたが、共に食べる茶菓子を買ってくれたのだからこれくらいは、と断った。
少しだけ戸惑いながらも微笑みを浮かべ、左雨はありがとうと言った。
***
帰り際。
左雨が「少し待っていて」と出雲に言い残すと、パン屋のスペースへと早歩きで入って行く。
どうしたのだろう、朝食用のパンでも欲しかったのだろうかと思いつつも、言われた通りに出雲は人の邪魔にならない場所で待っていた。
5分もしない内に左雨は戻って来た。小さなビニール袋を片手に。
「お待たせ」
「いえ……先生、何を」
買ったんすか?と言う前に、出雲の前に袋が差し出される。
ビニールの中には小さな紙袋が入っていた。
「チョコ味のミニクロワッサン……なんだけど、良かったら」
出雲は僅かに驚いて、数回、瞬きをする。
「え、いや、頂きますけど……これは」
「うーん……今日の、というよりは……日頃の、お礼?」
たまには、こういう形でもいいかなと思ってと、はにかむような苦笑を浮かべて左雨が語る。
自分の好物。チョコレート味。
数秒、瞬きもせずに紙袋を見つめていた出雲だったが。
「……ありがとう、ございます」
照れたように微笑みながら、左雨からのプレゼントを受け取った。
これは「何チョコ」と言われるものなのだろう。言うならば感謝チョコだろうか。
けれどもこれは、特別扱いで間違いないんだろう。
出雲は自分でも意外なほど、喜びを感じていた。
──この礼に、来月。今度はこちらから先生を驚かせてみよう。
しかし休日は特に人が多い。
更に言えば、百貨店の地下──所謂"デパ地下"と呼ばれる階層は歩きにくい。
洋菓子や和菓子、食料品のショーケースや棚に囲まれた通路が人で埋まっている。
自分はこういう混雑に慣れているが先生は大丈夫だろうかと、先を歩いていた出雲は後ろを振り返る。
案の定、出雲と左雨の距離はだいぶ離れてしまっている。
この数十秒の間に人に流されてしまったのか。
左雨は頻繁に人にぶつかりそうになっては、ぎこちなく微笑みを浮かべて「すみません」と謝っている。
謝罪の合間に、店員に菓子類の試食を勧められる。「え、あ、ありがとうございます」と勧められるがままに左雨はそれらを受け取っていた。
その様子を心配そうに、同時に、可笑しそうに眺めていた出雲が、左雨を迎えに行く。
「先生、大丈夫ですか」
「あ、うん。ごめんね遅れて」
「いえ、気にしないでください……どれか持ちます?」
その場で食べて、つまようじやスプーンをすぐに返すという行為に慣れていないのか。それとも人に流されてしまったからか。
左雨の右手には、小さなプラスチックスプーンで掬われたチーズケーキが1つ。
左手にはクッキー1枚とつまようじに刺さったチョコレートを種類違いで2つ、持ち辛そうに持っている。
「じゃあ、君が好きなもの」
選んだ物を君にあげるよという意図が声の調子に乗っかっていた。
「……なら」
出雲はチョコレートを一つ選んだ。
チーズケーキとクッキーは1種類しかないが、チョコレートなら片方が左雨に残るから良いだろう。
「……クッキーかケーキも食べない?」
「いいんすか?」
「うん。3つも独り占めするのは、どうかなぁと思って」
試食1つでそこまで考えなくてもいいだろうにと出雲は思ったが。
左雨のそういう所が嫌いではないので、素直にクッキーを受け取った。
***
──先月、出雲が持ってきてくれた大福が美味しかった。
人の多い場所が苦手な左雨が、百貨店に訪れた発端はそんな理由だった。
余程その時の大福が気に入ったのか、珍しく「また食べてみたい」と左雨は出雲に話した。
話を聞いた出雲は最初、ならば次の休日にでも買って左雨の家に持って行こうかと考えた。
だが、すぐに考えを改める。
最近、左雨は外に連れ出される事を──恐らくは喜んでいるように思う。
少しずつではあるが、混雑している場にも抵抗が無くなってきている。
主観でしかないが、出雲の目にはそう見えた。
だから、提案したのだ。大福を売っている百貨店に行ってみないかと。
「デパートなんて本当に久しぶりだったから、少し驚いたよ」
左雨が人の多さに苦笑しながら、進み辛そうに出雲すぐ後ろを歩く。
「何か月……いえ、何年ぶりです?」
「うーん、2年……もう少し短いかな……祖父母が元気だった頃に、荷物持ちで時々ね」
「へえ……っと、すみません、失礼」
出雲は他の人間を器用に避けながら歩く。先導しているおかげで、左雨は随分と歩きやすくなった。
人が密集している通路を抜けて、少し開けた空間に出た。エスカレーター前だ。
近くの柱には、階層の案内図が表示されている。
「先生、大福屋が丁度、この右の通路なんすけど……今すぐ行きます?」
案内図を2人で眺めながら、出雲は目的地を指さす。
一拍ほど、左雨には考える間があったが。
「色々、見て回ってからでもいい?」
普段と変わらない左雨の穏やかな眼差しの奥に、出雲は好奇心の光を見た。
***
左雨の興味が赴くままに進んでいるため、必然的に和菓子屋が集まっている通路を歩く。
種類が豊富な饅頭、カステラ、羊羹、最中や色とりどりの和三盆や金平糖。
静かに、けれども緩んだ目で眺めつつ左雨は進む。
時折、店員による営業トークに捕まっては、それを真面目に聞いている。
下手をすれば勧められるがままに和菓子を購入してしまいそうになる左雨に、キリの良い所で「他も見てから決めませんか」と出雲が助け舟を出す。
人の多い、賑やな空気を楽しみながら。
「バレンタイン期間限定、抹茶味の生チョコレートのご試食です。いかがでしょうか?」
ハキハキとした女性店員の声と共に、つまようじに刺さったチョコを渡される。
チョコを受け取った左雨が、はい、とそのまま出雲に渡す。
どうも、と受け取った出雲の様子を見た店員が、追加のチョコを左雨に渡している。
先程の様に、つまようじを捨てそびれるまま人に流されることは無かった。
とても美味しいです、と店員に感想を言いながら、左雨は使用済みのつまようじを回収箱に入れた。
出雲も続いて、ありがとうございます、と回収箱に入れた。
「そういえば、バレンタインの時期だったね」
だからチョコレート売り場が賑わっていたんだ、とのんびり話す。
「この期間だけの特別出店も多いですから、まあ繁盛しますよね」
別の百貨店の催事場では、フロア全体を使って様々な店舗のチョコレートを売っているらしい。
「折角だし、僕も何か買おうかな」
「自宅用に?」
「うん、帰ったら一緒に食べない?」
チョコレートを。一瞬だけ、それは「何チョコ」と呼ばれるものなのだろうと。
本当に一瞬だけ出雲は考えたが。
「いいすね。ならお茶も買いますか、すぐそこに売ってますし。確かもう家に無いでしょう」
濃厚な茶葉の香りに誘われ、まあ名前なんて付けなくてもいいだろうと思った。
自分達にとっては普段となんら変わらない、美味い茶請け菓子なのだから。
どのチョコレートが良いだろう、とデパ地下全体を歩き回り、気になるものを探した。
最終的には、当初の目的であった大福屋の限定商品。抹茶チョコ大福とほうじ茶チョコ大福を左雨が購入した。
お茶の方は、緑茶と玄米茶の葉を出雲が購入した。
支払いなら此方がすると左雨が言っていたが、共に食べる茶菓子を買ってくれたのだからこれくらいは、と断った。
少しだけ戸惑いながらも微笑みを浮かべ、左雨はありがとうと言った。
***
帰り際。
左雨が「少し待っていて」と出雲に言い残すと、パン屋のスペースへと早歩きで入って行く。
どうしたのだろう、朝食用のパンでも欲しかったのだろうかと思いつつも、言われた通りに出雲は人の邪魔にならない場所で待っていた。
5分もしない内に左雨は戻って来た。小さなビニール袋を片手に。
「お待たせ」
「いえ……先生、何を」
買ったんすか?と言う前に、出雲の前に袋が差し出される。
ビニールの中には小さな紙袋が入っていた。
「チョコ味のミニクロワッサン……なんだけど、良かったら」
出雲は僅かに驚いて、数回、瞬きをする。
「え、いや、頂きますけど……これは」
「うーん……今日の、というよりは……日頃の、お礼?」
たまには、こういう形でもいいかなと思ってと、はにかむような苦笑を浮かべて左雨が語る。
自分の好物。チョコレート味。
数秒、瞬きもせずに紙袋を見つめていた出雲だったが。
「……ありがとう、ございます」
照れたように微笑みながら、左雨からのプレゼントを受け取った。
これは「何チョコ」と言われるものなのだろう。言うならば感謝チョコだろうか。
けれどもこれは、特別扱いで間違いないんだろう。
出雲は自分でも意外なほど、喜びを感じていた。
──この礼に、来月。今度はこちらから先生を驚かせてみよう。
