雨雲の日々
:Filter:
例えば、他人が捉えている世界を自分が知るとき。
それはフィルターに通されていると。
ペーパーフィルターを使ってコーヒーを落としている時に、ふと思う。
人間は、一人ひとり違うから。違う世界を持っているから。
一人の人間を通した世界に、同じものは無いのだと。
コーヒーとの違いがあるとすれば、必ずしも不純物を取り除く訳ではないということ。
人というフィルターに通された世界は、澄みもすれば濁りもする。
個々の違いは面白く、それぞれの差を悪とするつもりはないのが前提で。
──俺は、柳さんを通した世界を好んだ。
彼だけが視えている世界を、彼の文章を通してわけてもらう。
彼というフィルターに通されて、世界が文章に変わる。
自分の言葉が、彼を通して、形になる。
彼は、少なくとも悪意という名のフィルターを使わない。
大切に、繊細に──まるで宝物のように扱うのだ。
だから、気恥ずかしさ以上に、心地好さを感じるのだろう。
彼と世界を共有する行為が、たまらなく。
:彼の食卓 side雨:
いつからだろう。食事の時間が苦手になったのは。
少なくとも、小学生時代の給食の時間に楽しい思い出が無いので、多分そのあたりから。
自分の世界はオカシイのだと、周囲の口や目が語り始めて。
話したいことを、話せなくなった頃。
周りの音は楽しそうだ、喋る声も、食事の音も。でも、自分は上手くその音にまざれない。
両親と食事をするときに、自分は両親が望むような話を出来ないから、申し訳なくて。
ただ、妹は楽しい話をした。
今思えば、それは他愛のない話だ。けれど、両親が喜ぶような話。
おかしくない、普通の人間の。
自分も妹の話を聞くのは好きだった。両親も楽しそうに会話をしていたのだから、そうだろう。
けれど、それでも、やっぱり食事の時間は苦しくて。
食卓に並ぶ母の料理を、出されるままに食べていた。
味わうよりも、早く終わらせたくて、必死に食べていた。
両親も妹も、悪くない、周囲の誰のせいでもない。
独りきりの食卓を望んだ事もある。
でも、それよりも、本当は誰かと──。
:彼の食卓 side雲:
幼い頃、家族が揃う食卓というのは貴重な物だと思っていた。
片親で、夜遅くまで仕事をしていた母親と、共に食事が出来る瞬間は少ない。
子供からみれば大きな食卓に、金と書き置きのメモだけが置いてある。
自分は、よくスーパーに弁当を買いに行った。半額になる時間を狙って。
静まり返った部屋で食べる弁当の味は、それなりに旨かったのだと思う。
話をする相手は居ない食卓。仕方のないことだと、解っていた。
しかし、自分はかわり映えのしない食卓に飽きたのだ。
だから、料理を練習するようになった。
母は貴重な休日の時間を割いて、練習に付き合ってくれた。
短時間でも、包丁の使い方や、火の扱いの基本をきっちりと教え込まれた。
それからは、自分と母、2人分の料理を作るようになった。
図書館から借りる本の中に、子供向けの料理本が増えて。
料理中に軽い怪我も沢山したが、覚える事は楽しかった。
朝、目が覚めて、母の分の皿が綺麗に片付けられている。
食卓の上に、美味しかったよと書かれたメモが置かれているのが嬉しくて。
以前ほど、一人の食卓に寂しさを感じることは無くなった。
:煙草:
煙草を買ったことに、特に深い理由は無い。
大人になれば吸えるものを、試してみたかったから。
吸った感覚を知っていれば、執筆に活かせるだろうから。
何となく、文豪が吸っているイメージがあったから。
身体への危険性を考えて、まあいいかで済ませられたから。
結果として、煙草は美味しくなかったし、病みつきなる事も無かった。
それでも、時々は煙草を吸う。
どんな時に吸うのか。
煙草を余らせていた事をふと思い出したとき。
夜風が気持ちよかった時。
どこか虚しくなった時。
やはり、深い理由は無かった。
最近は、全く煙草に手を付けていない。
偶然居合わせた、変わり者の後輩が、「身体に良くないですよ」と言った時から。
喫煙について、何か言われたのは、それだけ、一度きり。
「やめてください」とは言われなかったのだけれど。
やはり、始めるのにも、終えるのにも、特に深い理由は無かった。
:望むのは:
「おはようございます」の声と共に、部室へと入ってくる、変わり者の後輩。
彼はどういう訳か、たった1人しか居ない文芸部へと入部した。
愛想の無い、無口で評判の悪い人間と共に、本を読む。
こんな自分と一緒に居て、嫌にならないのだろうか。
「先輩はどの話が好きですか。この本の中で」
「……」
返事が遅い自分に対して、時々、彼は話しかけてくる。
こちらが無言の間、無視をされているとは、思ったりしないのだろうか。
彼は気が長いのか、じっと返事を待つ。急かすことも無く。
もしかしたら、5分でも10分でも、1時間でも待つのかもしれない。
「3つ目の、話」
「ああ、いいですよね。俺も好きです、水の描写が綺麗で。先輩はどの辺が好きですか?」
「…………出てくる和菓子が、美味しそうな所、かな」
「……確かに。石衣って食べた事ないんすけど、読んでると食べたくなりましたね」
「……うん」
こんな風に接してくれる彼は、もしかしたら。
人ではないのかもしれないと思った。
自分にしか見えない存在が、学生を真似して、制服を着て、この部室に訪れているのかもしれないと。
──僕は、僕にしか視えない、不思議なもの達が好きだ。
けれど。
この変わり者の後輩が、人間でありますようにと望んでしまうのは、何故だろう。
:境界線:
先輩と話をするたびに、何かを隔てて会話をしていると感じる事は多い。
初対面の瞬間は、壁を感じた。ただの壁ではなくて、冷たい鉄の防壁に想えた。
しばらく共に過ごして、そのイメージは閉め切られた扉に変わった。
先輩に、鉄ほどの冷たさも硬さも無いことを知ったからだ。
すぐ傍に居ながら、声の届く扉越しに会話をした。
目線もかち合わないまま、心を閉ざされている事は確かでも、こちらの話を無視をされる事は無く。
またしばらく、共に過ごして。
目も合わせようとしなかった先輩は、扉の前から移動した。
窓の前に、椅子を置いて座っている。
自分も、窓を隔てた片側の空間に、椅子を置いて座った。
透明なガラスは閉まっていたけれど、以前よりもお互いの声はよく届いたし、表情もよく見えた。
イメージの中、窓ガラスはまだ閉じているけれど。
それでもいいと思った。無理に割る事も、こじ開ける事も、好みじゃない。
窓越しという距離感も、結構楽しいものだけれど。
いつか想像の中の窓が、自然に開く日がくるようにと、望んでいる自分が居る。
例えば、他人が捉えている世界を自分が知るとき。
それはフィルターに通されていると。
ペーパーフィルターを使ってコーヒーを落としている時に、ふと思う。
人間は、一人ひとり違うから。違う世界を持っているから。
一人の人間を通した世界に、同じものは無いのだと。
コーヒーとの違いがあるとすれば、必ずしも不純物を取り除く訳ではないということ。
人というフィルターに通された世界は、澄みもすれば濁りもする。
個々の違いは面白く、それぞれの差を悪とするつもりはないのが前提で。
──俺は、柳さんを通した世界を好んだ。
彼だけが視えている世界を、彼の文章を通してわけてもらう。
彼というフィルターに通されて、世界が文章に変わる。
自分の言葉が、彼を通して、形になる。
彼は、少なくとも悪意という名のフィルターを使わない。
大切に、繊細に──まるで宝物のように扱うのだ。
だから、気恥ずかしさ以上に、心地好さを感じるのだろう。
彼と世界を共有する行為が、たまらなく。
:彼の食卓 side雨:
いつからだろう。食事の時間が苦手になったのは。
少なくとも、小学生時代の給食の時間に楽しい思い出が無いので、多分そのあたりから。
自分の世界はオカシイのだと、周囲の口や目が語り始めて。
話したいことを、話せなくなった頃。
周りの音は楽しそうだ、喋る声も、食事の音も。でも、自分は上手くその音にまざれない。
両親と食事をするときに、自分は両親が望むような話を出来ないから、申し訳なくて。
ただ、妹は楽しい話をした。
今思えば、それは他愛のない話だ。けれど、両親が喜ぶような話。
おかしくない、普通の人間の。
自分も妹の話を聞くのは好きだった。両親も楽しそうに会話をしていたのだから、そうだろう。
けれど、それでも、やっぱり食事の時間は苦しくて。
食卓に並ぶ母の料理を、出されるままに食べていた。
味わうよりも、早く終わらせたくて、必死に食べていた。
両親も妹も、悪くない、周囲の誰のせいでもない。
独りきりの食卓を望んだ事もある。
でも、それよりも、本当は誰かと──。
:彼の食卓 side雲:
幼い頃、家族が揃う食卓というのは貴重な物だと思っていた。
片親で、夜遅くまで仕事をしていた母親と、共に食事が出来る瞬間は少ない。
子供からみれば大きな食卓に、金と書き置きのメモだけが置いてある。
自分は、よくスーパーに弁当を買いに行った。半額になる時間を狙って。
静まり返った部屋で食べる弁当の味は、それなりに旨かったのだと思う。
話をする相手は居ない食卓。仕方のないことだと、解っていた。
しかし、自分はかわり映えのしない食卓に飽きたのだ。
だから、料理を練習するようになった。
母は貴重な休日の時間を割いて、練習に付き合ってくれた。
短時間でも、包丁の使い方や、火の扱いの基本をきっちりと教え込まれた。
それからは、自分と母、2人分の料理を作るようになった。
図書館から借りる本の中に、子供向けの料理本が増えて。
料理中に軽い怪我も沢山したが、覚える事は楽しかった。
朝、目が覚めて、母の分の皿が綺麗に片付けられている。
食卓の上に、美味しかったよと書かれたメモが置かれているのが嬉しくて。
以前ほど、一人の食卓に寂しさを感じることは無くなった。
:煙草:
煙草を買ったことに、特に深い理由は無い。
大人になれば吸えるものを、試してみたかったから。
吸った感覚を知っていれば、執筆に活かせるだろうから。
何となく、文豪が吸っているイメージがあったから。
身体への危険性を考えて、まあいいかで済ませられたから。
結果として、煙草は美味しくなかったし、病みつきなる事も無かった。
それでも、時々は煙草を吸う。
どんな時に吸うのか。
煙草を余らせていた事をふと思い出したとき。
夜風が気持ちよかった時。
どこか虚しくなった時。
やはり、深い理由は無かった。
最近は、全く煙草に手を付けていない。
偶然居合わせた、変わり者の後輩が、「身体に良くないですよ」と言った時から。
喫煙について、何か言われたのは、それだけ、一度きり。
「やめてください」とは言われなかったのだけれど。
やはり、始めるのにも、終えるのにも、特に深い理由は無かった。
:望むのは:
「おはようございます」の声と共に、部室へと入ってくる、変わり者の後輩。
彼はどういう訳か、たった1人しか居ない文芸部へと入部した。
愛想の無い、無口で評判の悪い人間と共に、本を読む。
こんな自分と一緒に居て、嫌にならないのだろうか。
「先輩はどの話が好きですか。この本の中で」
「……」
返事が遅い自分に対して、時々、彼は話しかけてくる。
こちらが無言の間、無視をされているとは、思ったりしないのだろうか。
彼は気が長いのか、じっと返事を待つ。急かすことも無く。
もしかしたら、5分でも10分でも、1時間でも待つのかもしれない。
「3つ目の、話」
「ああ、いいですよね。俺も好きです、水の描写が綺麗で。先輩はどの辺が好きですか?」
「…………出てくる和菓子が、美味しそうな所、かな」
「……確かに。石衣って食べた事ないんすけど、読んでると食べたくなりましたね」
「……うん」
こんな風に接してくれる彼は、もしかしたら。
人ではないのかもしれないと思った。
自分にしか見えない存在が、学生を真似して、制服を着て、この部室に訪れているのかもしれないと。
──僕は、僕にしか視えない、不思議なもの達が好きだ。
けれど。
この変わり者の後輩が、人間でありますようにと望んでしまうのは、何故だろう。
:境界線:
先輩と話をするたびに、何かを隔てて会話をしていると感じる事は多い。
初対面の瞬間は、壁を感じた。ただの壁ではなくて、冷たい鉄の防壁に想えた。
しばらく共に過ごして、そのイメージは閉め切られた扉に変わった。
先輩に、鉄ほどの冷たさも硬さも無いことを知ったからだ。
すぐ傍に居ながら、声の届く扉越しに会話をした。
目線もかち合わないまま、心を閉ざされている事は確かでも、こちらの話を無視をされる事は無く。
またしばらく、共に過ごして。
目も合わせようとしなかった先輩は、扉の前から移動した。
窓の前に、椅子を置いて座っている。
自分も、窓を隔てた片側の空間に、椅子を置いて座った。
透明なガラスは閉まっていたけれど、以前よりもお互いの声はよく届いたし、表情もよく見えた。
イメージの中、窓ガラスはまだ閉じているけれど。
それでもいいと思った。無理に割る事も、こじ開ける事も、好みじゃない。
窓越しという距離感も、結構楽しいものだけれど。
いつか想像の中の窓が、自然に開く日がくるようにと、望んでいる自分が居る。
