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雨雲の日々

少年が諦めたのは、とある梅雨の日だった。

周囲の人間に、自分の捉える世界を信じてもらえないまま、17年と少し生きた。

いつからか、笑顔も忘れ、言葉を口にする事も減り続け、それでも生きた。

それでも生きて──大きなきっかけは無かったのかもしれないが。

この日、少年は諦めた。

自分の未来を見つめる事も、口にできない言葉を書き連ねる事も、周囲に歩み寄る事も。

そんな少年を、人の世界からは外れた世界に住んでいる、不思議な存在が憐れんだ。

大雨の中、はぐれた仲間を一緒になって探してくれた、傘を貸してくれた少年を、この世界から連れ出してあげようと思った。

だから、不思議な存在は孤独な少年に手を差し伸べたのだ。

その手を、少年はとった。

優しく握りしめた手の輪郭を、雨粒が暈かしていく。

手にとどまらず、腕も、脚も、髪も、顔も、全身が、雨粒が当たる度にぼやけていく。

悲しいとも怖いとも思っていないはずなのに、何故か一筋だけ涙が流れた。

そして、とある梅雨の日。

少年──左雨柳は全てを諦めて、雨に溶けることを選んだ。

***

***

ぱしゃん、ぱしゃり、と、水を跳ね上げる音が妙に大きく響く。

秋の曇天から落ちる雨は冷たい。

息を切らせて走る子供の体温を奪うように、容赦なく降り続いている。

走っているせいで、空色の傘が揺れ、身体に雨粒が当たり、白い煙のような霧が視界を邪魔をしていた。

暗い茶髪が雨で額に張り付く。

どうして、と思いながら、少年は走り続ける。

小学校を出てから今まで、帰り道を、いつも通りに歩いていたはずなのに。

寄り道をすることなく、一人で、真っ直ぐに歩いていた。

それなのに、いつの間にか周りの景色は変わっていた。

世界に、何もない。

この辺りにあるはずの、パン屋も、クリーニング屋も、小さな犬を飼っている一軒家も何もなく、ただ真っ白い霧の世界が広がっている。

全部、白い霧が消してしまったかのように想えて、怖かった。

少年は一人で居ることが多かったが、本当に、本当に独りで取り残されてしまったように思えて、ただただ怖かった。

白くて、何も無くて、独りで、寒くて──泣くのは大嫌いなのに、泣きだしてしまいそうで。

「君は、もしかして迷子かな?大丈夫?」

突然、雨水の音以外が聞こえて、少年の心臓は大きく鳴った。

声に驚いて振り向くと、眼鏡をかけた男の人が立っている。

ぼさついた栗毛に、柔らかい目元。

透明な雨合羽を纏い、その下に黒い服が透けて見えた。

これは、自分よりももっと年上の、中学生や高校生の人が着る制服だ。

手には、ファンタジーに出てきそうなランタンを持っていた。

ランタンの中では何が燃えているのか、青い光を放っている。

「……お兄さん、だれですか?」

いきなり現れた人間への不安と、独りではなかった安心が入り混じり、少年の声は震えていた。

問いかけに、「お兄さん」と呼ばれた男──左雨が困ったように笑うと、少年と目線を合わせるように屈んだ。

「僕は……雨かな」

「アメ、さん?」

「名前では、無いんだけどね」

「……よくわからないです。お兄さんの名前は」

「わからなくてもいいんだ。ここで、僕の名前は必要ないし、君の名前も必要ない」

話す内容は理解出来ない。僅かに突き放すような言葉だ。けれど、優しくて柔らかい声だった。

「さあ、帰ろう」

「……ここは、どこですか?帰り道、あるんですか?」

何も見えないのにと、不安げな視線を少年が左雨に向ける。

「大丈夫、大丈夫。帰り道はちゃんとあるよ。君は迷い込んだだけなんだから」

「……っ!」

少年は言葉に反応する前に、左雨の肩越しを見つめて引き攣ったような顔をした。

「どうか、した?やっぱり不安、だよね……」

「だれか、誰かあっちにいる……」

少年の目線を追いかけて振り向くと、遠く、霧の中に黒い影が2つ見えた。

ぼんやりと、青い光も一緒に見える。

「ああ、彼らは……大丈夫、危険じゃないよ。元の世界に帰ってるだけだから」

少年を安心させるように、左雨はゆったりと穏やかに語った。

「ここって、夢の中ですか?」

「いや、うーん……」

少しだけ答え方に迷い、ぽつぽつと話を始める。

「君が居る世界と、別の世界の狭間……ええと、隙間だよ」

「別、世界の隙間……」

「僕は、ここで案内人をしているんだ。……雨の日にしか世界は繋がらないんだけど、ごめんね。
 今日は誰かが、君の世界への出入り口を閉じ忘れたみたいで」

少年は、ただただ話を聞くしかなかった。

幻想のような話を、否定することも受け入れる事も出来ないまま。

「そういう日は時々、そこから人が迷い込むんだ。けど、元の世界まで送るのも僕の役目だから、ええと……」

左雨はあまり会話が得意ではない。

それでも、少年の不安を取り除こうと、言葉を紡いだ。

「必ず君を家まで帰すから、大丈夫だよ。ついてきて、くれるかな?」

「……」

こくりと、少年が頷いた。

それは安心したのではなく、縋れる存在が目の前にしか居ないからだと、左雨は思ったが。

「ありがとう、じゃあ、準備をするから」

微笑んで、少年に向き合った。

***

左雨は手にしているランタンの蓋を外す。

そして、青く燃えている光、ランタンの中へと進もうとした手を──少年が慌てて掴んだ。

「あ、熱いの、怪我、しますから!」

どうやら、火傷を心配してくれたらしい。

「ふふ、ありがとう。けど、僕は大丈夫。……見ててね」

「……はい」

未だに心配そうな目を向けてくるが、少年は手を放した。

左雨の白い手が、ランタンから青い光を取り出す。

手のひらの上で、少しづつ光が弱まっていく。

「……わっ、宝石だ」

完全に光が消えて、現れたのは、深い青色の宝石だった。

「うん、進むためには青い石が必要で……これはラピスラズリ」

「ラピス、ラズリ」

「君の世界にもこの石はあるんだよ。……それで、この石を変える」

手のひらの青い宝石を、左雨が握りしめる。

握り拳の隙間から、パチパチと、火花ではない、別の光が散る。

淡い黄色の、温かい光が。

「帰る為には、黄色い石が必要なんだ」

光が消えて手を開くと、透明な黄色い石が現れた。

「これはヘリオドール。……あはは、怖かったかな」

じっと、宝石と左雨の手を凝視したままの少年を、怖がらせてしまったのかと思い、声をかける。

「すごい。すごい、お兄さん、魔法使いだ……!」

「……ええと」

左雨の予想とは裏腹に、少年は無邪気にこちらを称えてきた。

どこか表情を押し込めているように思えた少年が、初めて見せる、輝きに満ちた目だ。

「怖くなかった、凄く綺麗で、手品じゃなくて本物の魔法です、本で読んだ光の魔法使いみたいで……す」

興奮気味に語り、徐々に勢いが弱まる。最後には、興奮したことを恥じるような、消え入りそうな声になった。

「ごめんなさい……」

「どうして謝るの?」

「……うるさくしたから」

「……」

言葉を、我慢する姿には覚えがある。

我慢しなくてもいいような言葉すら、自身の中へと押し込む少年の姿は──左雨と似ていた。

「人を……人を傷つけるような言葉じゃないのに、消してしまうのは勿体ないよ」

「……」

「少なくとも僕は……君に喜んでもらえて、光を綺麗だと言ってもらえて嬉しかった」

左雨がランタンの中にヘリオドールを落とすと、かこん、と硬い音が響いた。

「……本当に?」

「本当に。褒められたのは、久々だから」

蓋を閉じてしばらく待つと、徐々に宝石の光が増していく。

先程とは違う、輝いた黄色い炎、黄色い光。

「よし、お待たせ。行こうか、足を滑らせないように気を付けてね」

左雨が、空いている左手を少年に差し出した。片手にはランタンを持っている。

「……あ、りがとうございます」

「うん」

少年は、空いている右手で左雨の手を握り返した。片手には傘を持っている。

ぱしゃん、ぱしゃんと、帰り始めた2人分の足音が鳴る。

真っ白い霧と雨の世界。白い地面に、白い波紋が広がる。

しっかりと繋いだ手が冷たいと、少年は感じた。

この秋の雨で冷えたのか、それともこのお兄さんの体温なのか、解らない。

「……お兄さんは、傘を持ってないんですか?」

「うん、雨合羽があるし……もう、自分は雨みたいなものだから。濡れても平気なんだよ」

強がっているようには見えない、本当に、何でもないような表情を浮かべている。

「でも、手が冷たい、から。寒いのは、良くないです。風邪をひきます」

せめて少しでも温められないだろうかと、少年が握る手に力を込めた。

──暖かい、子供の体温。小さな手のひら。心配してくる言葉。

左雨は、久しぶりに人間の体温を感じた気がした。

「…………君は、優しいね」

その左雨の声を、表情を、形容する為の言葉も手段も少年は持っていなかった。

ただ、酷く胸が苦しくなるような感覚だけが確かだった。

「お、お兄さんは役目……が終わったら、家に帰るんでしょう?」

案内人は役目だと言っていた。きっと、大人が言う仕事のようなものなのだろうと、少年は思っている。

どんなに遅くなっても、仕事が終われば人は家に帰るのだから。

何故、そんなことを確認するように聞いたのか、少年自身にも理由は解らないが。

「……いいや、ここに居るよ」

半ば、こう解答をされる予感があった。

──このお兄さんはずっと独りなんだと、少年は何となく気が付いた。

「えっと、一緒、に。お兄さんも、帰りませんか!?」

共に帰ってどうするかなどは考えていない、子供から咄嗟に飛び出た心だった。

「…………ごめんね、ありがとう。でも、僕の居場所はもう、此処なんだ」

「……」

少年の歩幅が次第に小さくなり、俯いたまま立ち止まる。

出入り口まで、あと僅かだった。

立ち止まった少年に、困ったような、けれど、慈しむような目を向けて、左雨は屈む。

目線を合わせて、不安げで、何もできない自分を悔しがるような少年の表情と向き合う。

「そんなに心配そうな顔をしないで。ここに居る事を選んだのは僕だから」

「……でも、寂しそうだから」

一人が寂しい、という気持ちは、少年にはよくわかる。

大人は、寂しいと感じないのだろうか。

『君は、優しいね』と、そう言った時のお兄さんの声や顔は、寂しくない人のものなのだろうか。

「……」

左雨は、何も答えなかった。

「さあ、ここまで来たら、後は真っ直ぐ進むだけだよ」

「お兄さん」

「いきなさい。君の世界は、そっち側だ」

左雨の声は出会った瞬間から変わらず、穏やかで、優しい。

それでも、もうこれ以上の歩み寄りを許さないという意思を感じる声だ。

少年は、子供は、何も言えなくなってしまう。けれど。

「……お兄さん、お兄さんに俺の傘、あげる」

これは多分、小さな意地と勇気だ。

子供用の、空色の傘を左雨に差し出す。

身体が雨にさらされて、少年の雨合羽を濡らしていく。

「……」

「やっぱり、濡れたら寒いですよ」

綺麗な空色の傘。

持ち手に張られた、名前のラベルシールはボロボロで、何年も使っていることが覗えた。

「……君の宝物は受け取れないよ。大切にしているんだね」

どうして、大人は色んなことがわかるのだろうと、少年は悔しさと尊敬を覚える。

「僕は、君が寒い思いをする方が悲しい」

「……」

傘は受け取っては貰えなかった。

悲しいような、寂しいような、傘を手放さずにすんで良かったと思うような、左雨の優しさが嬉しいような。

色んな気持ちが少年の中で混ざり合う。

どうしても、少年は左雨に対して「何か」をしてあげたかった。

考えて、悩んで、ふと思いついた。

背負っていたランドセルから、何かを取り外す。

「じゃあ、これ、貰ってお兄さん!」

これでは、雨から守ってあげることもできないけれど。

「……こんなに綺麗なのに、此処に置いて行ったら、戻ってこないよ」

「いいです、いいんです。お兄さんにあげます」

少年が渡したそれは、キーホルダーだ。

金色のメダルに2匹のイルカの絵が彫られている、水族館の記念メダル。

数年前に1度だけ行けた時に、母が買ってくれた。

お守りのように、ランドセルに付けていた。

──大切だけれど、大切な物だから、お兄さんにあげたかった。

「……ありがとう。……大事にするね」

左雨は受け取る事にした。

本当はこのメダルだって宝物なのだろうと、少年の表情を見て気が付いている。

けれど、優しい気持ちを無下にすることもしたくなかった。

「……お兄さん、ありがとう、ございました。俺、いつかまた来ます、約束しますから……!」

名残惜しむような顔をして、少年は左雨に手を振る。

左雨は手を振り返し、こちらを気にしながらも遠ざかる少年の姿を見送った。

「さようなら。……君の行く道が、輝きに満ちていますように」

きっと少年は、いつの日か、今日の事を忘れてしまうだろう。

自分も同様に、夢の様に。雨が上がるように。霧が晴れるように。

それでいい。振り返ることは無い。

ただあの少年は、前を向いて歩いていてほしい。

***

***

人間の世界を外れてから、どのくらいの年月が経ったのだろう。

数えることをしていないので、解らない。

名前も必要ない世界で過ごしているから、本名も忘れてしまった。

姿が変わる事も無く、過去を思い返すことも、次第になくなっていった。

しかし、1つだけおぼろげに覚えていることがある。

ずっと昔、この世界に迷い込んだ少年。

あの子に、イルカが彫られたメダルのキーホルダーを貰った。

姿も声も、やり取りの記憶も薄れているが、これは大切な物だ。

錆びても、輝きを失っても。

お守りのように、制服の胸ポケットに入れていた。


雨の世界の案内人は、今日もランタンを片手に彷徨い続ける。

いつも通り、何も変わる事は無いと思っていたのだ。

「……?」

突然、空気が揺らぐ。

これは世界の出入り口が開いた時に感じる揺らぎだ。

誰かが行き来するために開けたのだろうか。

ぱしゃんと、どこかで重めの足音が響く。これは大人のものだ。

音は1人分。案内人の分の音がしない。もしかしたら、珍しく誰か迷い込んでしまったのかもしれない。

音の方へと歩く。

白い世界で、足音だけが、ぱしゃん、ぱしゃりと、雨音に負けず大きく響く。

音に近づく。いつしか2人分の音になるが、相手の姿が視えない。今日は霧が濃いようだ。

「──お兄さん」

突然、背後から声が掛かり、驚いて振り向いた。

立っていたのは、黒いスーツを着た、暗い茶髪の成人男性だ。

片手で傘を差して、空いた手にも閉じた傘を持っていた。

何故か、彼が言う「お兄さん」の響きが酷く懐かく。

「……あの、話したい事は沢山あるんですが、濡れたまま、寒いのはよくありませんから」

彼に差し出された傘の下、何故だか自然と、涙がこぼれた。
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