雨雲の日々
少年が諦めたのは、とある梅雨の日だった。
周囲の人間に、自分の捉える世界を信じてもらえないまま、17年と少し生きた。
いつからか、笑顔も忘れ、言葉を口にする事も減り続け、それでも生きた。
それでも生きて──大きなきっかけは無かったのかもしれないが。
この日、少年は諦めた。
自分の未来を見つめる事も、口にできない言葉を書き連ねる事も、周囲に歩み寄る事も。
そんな少年を、人の世界からは外れた世界に住んでいる、不思議な存在が憐れんだ。
大雨の中、はぐれた仲間を一緒になって探してくれた、傘を貸してくれた少年を、この世界から連れ出してあげようと思った。
だから、不思議な存在は孤独な少年に手を差し伸べたのだ。
その手を、少年はとった。
優しく握りしめた手の輪郭を、雨粒が暈かしていく。
手にとどまらず、腕も、脚も、髪も、顔も、全身が、雨粒が当たる度にぼやけていく。
悲しいとも怖いとも思っていないはずなのに、何故か一筋だけ涙が流れた。
そして、とある梅雨の日。
少年──左雨柳は全てを諦めて、雨に溶けることを選んだ。
***
***
ぱしゃん、ぱしゃり、と、水を跳ね上げる音が妙に大きく響く。
秋の曇天から落ちる雨は冷たい。
息を切らせて走る子供の体温を奪うように、容赦なく降り続いている。
走っているせいで、空色の傘が揺れ、身体に雨粒が当たり、白い煙のような霧が視界を邪魔をしていた。
暗い茶髪が雨で額に張り付く。
どうして、と思いながら、少年は走り続ける。
小学校を出てから今まで、帰り道を、いつも通りに歩いていたはずなのに。
寄り道をすることなく、一人で、真っ直ぐに歩いていた。
それなのに、いつの間にか周りの景色は変わっていた。
世界に、何もない。
この辺りにあるはずの、パン屋も、クリーニング屋も、小さな犬を飼っている一軒家も何もなく、ただ真っ白い霧の世界が広がっている。
全部、白い霧が消してしまったかのように想えて、怖かった。
少年は一人で居ることが多かったが、本当に、本当に独りで取り残されてしまったように思えて、ただただ怖かった。
白くて、何も無くて、独りで、寒くて──泣くのは大嫌いなのに、泣きだしてしまいそうで。
「君は、もしかして迷子かな?大丈夫?」
突然、雨水の音以外が聞こえて、少年の心臓は大きく鳴った。
声に驚いて振り向くと、眼鏡をかけた男の人が立っている。
ぼさついた栗毛に、柔らかい目元。
透明な雨合羽を纏い、その下に黒い服が透けて見えた。
これは、自分よりももっと年上の、中学生や高校生の人が着る制服だ。
手には、ファンタジーに出てきそうなランタンを持っていた。
ランタンの中では何が燃えているのか、青い光を放っている。
「……お兄さん、だれですか?」
いきなり現れた人間への不安と、独りではなかった安心が入り混じり、少年の声は震えていた。
問いかけに、「お兄さん」と呼ばれた男──左雨が困ったように笑うと、少年と目線を合わせるように屈んだ。
「僕は……雨かな」
「アメ、さん?」
「名前では、無いんだけどね」
「……よくわからないです。お兄さんの名前は」
「わからなくてもいいんだ。ここで、僕の名前は必要ないし、君の名前も必要ない」
話す内容は理解出来ない。僅かに突き放すような言葉だ。けれど、優しくて柔らかい声だった。
「さあ、帰ろう」
「……ここは、どこですか?帰り道、あるんですか?」
何も見えないのにと、不安げな視線を少年が左雨に向ける。
「大丈夫、大丈夫。帰り道はちゃんとあるよ。君は迷い込んだだけなんだから」
「……っ!」
少年は言葉に反応する前に、左雨の肩越しを見つめて引き攣ったような顔をした。
「どうか、した?やっぱり不安、だよね……」
「だれか、誰かあっちにいる……」
少年の目線を追いかけて振り向くと、遠く、霧の中に黒い影が2つ見えた。
ぼんやりと、青い光も一緒に見える。
「ああ、彼らは……大丈夫、危険じゃないよ。元の世界に帰ってるだけだから」
少年を安心させるように、左雨はゆったりと穏やかに語った。
「ここって、夢の中ですか?」
「いや、うーん……」
少しだけ答え方に迷い、ぽつぽつと話を始める。
「君が居る世界と、別の世界の狭間……ええと、隙間だよ」
「別、世界の隙間……」
「僕は、ここで案内人をしているんだ。……雨の日にしか世界は繋がらないんだけど、ごめんね。
今日は誰かが、君の世界への出入り口を閉じ忘れたみたいで」
少年は、ただただ話を聞くしかなかった。
幻想のような話を、否定することも受け入れる事も出来ないまま。
「そういう日は時々、そこから人が迷い込むんだ。けど、元の世界まで送るのも僕の役目だから、ええと……」
左雨はあまり会話が得意ではない。
それでも、少年の不安を取り除こうと、言葉を紡いだ。
「必ず君を家まで帰すから、大丈夫だよ。ついてきて、くれるかな?」
「……」
こくりと、少年が頷いた。
それは安心したのではなく、縋れる存在が目の前にしか居ないからだと、左雨は思ったが。
「ありがとう、じゃあ、準備をするから」
微笑んで、少年に向き合った。
***
左雨は手にしているランタンの蓋を外す。
そして、青く燃えている光、ランタンの中へと進もうとした手を──少年が慌てて掴んだ。
「あ、熱いの、怪我、しますから!」
どうやら、火傷を心配してくれたらしい。
「ふふ、ありがとう。けど、僕は大丈夫。……見ててね」
「……はい」
未だに心配そうな目を向けてくるが、少年は手を放した。
左雨の白い手が、ランタンから青い光を取り出す。
手のひらの上で、少しづつ光が弱まっていく。
「……わっ、宝石だ」
完全に光が消えて、現れたのは、深い青色の宝石だった。
「うん、進むためには青い石が必要で……これはラピスラズリ」
「ラピス、ラズリ」
「君の世界にもこの石はあるんだよ。……それで、この石を変える」
手のひらの青い宝石を、左雨が握りしめる。
握り拳の隙間から、パチパチと、火花ではない、別の光が散る。
淡い黄色の、温かい光が。
「帰る為には、黄色い石が必要なんだ」
光が消えて手を開くと、透明な黄色い石が現れた。
「これはヘリオドール。……あはは、怖かったかな」
じっと、宝石と左雨の手を凝視したままの少年を、怖がらせてしまったのかと思い、声をかける。
「すごい。すごい、お兄さん、魔法使いだ……!」
「……ええと」
左雨の予想とは裏腹に、少年は無邪気にこちらを称えてきた。
どこか表情を押し込めているように思えた少年が、初めて見せる、輝きに満ちた目だ。
「怖くなかった、凄く綺麗で、手品じゃなくて本物の魔法です、本で読んだ光の魔法使いみたいで……す」
興奮気味に語り、徐々に勢いが弱まる。最後には、興奮したことを恥じるような、消え入りそうな声になった。
「ごめんなさい……」
「どうして謝るの?」
「……うるさくしたから」
「……」
言葉を、我慢する姿には覚えがある。
我慢しなくてもいいような言葉すら、自身の中へと押し込む少年の姿は──左雨と似ていた。
「人を……人を傷つけるような言葉じゃないのに、消してしまうのは勿体ないよ」
「……」
「少なくとも僕は……君に喜んでもらえて、光を綺麗だと言ってもらえて嬉しかった」
左雨がランタンの中にヘリオドールを落とすと、かこん、と硬い音が響いた。
「……本当に?」
「本当に。褒められたのは、久々だから」
蓋を閉じてしばらく待つと、徐々に宝石の光が増していく。
先程とは違う、輝いた黄色い炎、黄色い光。
「よし、お待たせ。行こうか、足を滑らせないように気を付けてね」
左雨が、空いている左手を少年に差し出した。片手にはランタンを持っている。
「……あ、りがとうございます」
「うん」
少年は、空いている右手で左雨の手を握り返した。片手には傘を持っている。
ぱしゃん、ぱしゃんと、帰り始めた2人分の足音が鳴る。
真っ白い霧と雨の世界。白い地面に、白い波紋が広がる。
しっかりと繋いだ手が冷たいと、少年は感じた。
この秋の雨で冷えたのか、それともこのお兄さんの体温なのか、解らない。
「……お兄さんは、傘を持ってないんですか?」
「うん、雨合羽があるし……もう、自分は雨みたいなものだから。濡れても平気なんだよ」
強がっているようには見えない、本当に、何でもないような表情を浮かべている。
「でも、手が冷たい、から。寒いのは、良くないです。風邪をひきます」
せめて少しでも温められないだろうかと、少年が握る手に力を込めた。
──暖かい、子供の体温。小さな手のひら。心配してくる言葉。
左雨は、久しぶりに人間の体温を感じた気がした。
「…………君は、優しいね」
その左雨の声を、表情を、形容する為の言葉も手段も少年は持っていなかった。
ただ、酷く胸が苦しくなるような感覚だけが確かだった。
「お、お兄さんは役目……が終わったら、家に帰るんでしょう?」
案内人は役目だと言っていた。きっと、大人が言う仕事のようなものなのだろうと、少年は思っている。
どんなに遅くなっても、仕事が終われば人は家に帰るのだから。
何故、そんなことを確認するように聞いたのか、少年自身にも理由は解らないが。
「……いいや、ここに居るよ」
半ば、こう解答をされる予感があった。
──このお兄さんはずっと独りなんだと、少年は何となく気が付いた。
「えっと、一緒、に。お兄さんも、帰りませんか!?」
共に帰ってどうするかなどは考えていない、子供から咄嗟に飛び出た心だった。
「…………ごめんね、ありがとう。でも、僕の居場所はもう、此処なんだ」
「……」
少年の歩幅が次第に小さくなり、俯いたまま立ち止まる。
出入り口まで、あと僅かだった。
立ち止まった少年に、困ったような、けれど、慈しむような目を向けて、左雨は屈む。
目線を合わせて、不安げで、何もできない自分を悔しがるような少年の表情と向き合う。
「そんなに心配そうな顔をしないで。ここに居る事を選んだのは僕だから」
「……でも、寂しそうだから」
一人が寂しい、という気持ちは、少年にはよくわかる。
大人は、寂しいと感じないのだろうか。
『君は、優しいね』と、そう言った時のお兄さんの声や顔は、寂しくない人のものなのだろうか。
「……」
左雨は、何も答えなかった。
「さあ、ここまで来たら、後は真っ直ぐ進むだけだよ」
「お兄さん」
「いきなさい。君の世界は、そっち側だ」
左雨の声は出会った瞬間から変わらず、穏やかで、優しい。
それでも、もうこれ以上の歩み寄りを許さないという意思を感じる声だ。
少年は、子供は、何も言えなくなってしまう。けれど。
「……お兄さん、お兄さんに俺の傘、あげる」
これは多分、小さな意地と勇気だ。
子供用の、空色の傘を左雨に差し出す。
身体が雨にさらされて、少年の雨合羽を濡らしていく。
「……」
「やっぱり、濡れたら寒いですよ」
綺麗な空色の傘。
持ち手に張られた、名前のラベルシールはボロボロで、何年も使っていることが覗えた。
「……君の宝物は受け取れないよ。大切にしているんだね」
どうして、大人は色んなことがわかるのだろうと、少年は悔しさと尊敬を覚える。
「僕は、君が寒い思いをする方が悲しい」
「……」
傘は受け取っては貰えなかった。
悲しいような、寂しいような、傘を手放さずにすんで良かったと思うような、左雨の優しさが嬉しいような。
色んな気持ちが少年の中で混ざり合う。
どうしても、少年は左雨に対して「何か」をしてあげたかった。
考えて、悩んで、ふと思いついた。
背負っていたランドセルから、何かを取り外す。
「じゃあ、これ、貰ってお兄さん!」
これでは、雨から守ってあげることもできないけれど。
「……こんなに綺麗なのに、此処に置いて行ったら、戻ってこないよ」
「いいです、いいんです。お兄さんにあげます」
少年が渡したそれは、キーホルダーだ。
金色のメダルに2匹のイルカの絵が彫られている、水族館の記念メダル。
数年前に1度だけ行けた時に、母が買ってくれた。
お守りのように、ランドセルに付けていた。
──大切だけれど、大切な物だから、お兄さんにあげたかった。
「……ありがとう。……大事にするね」
左雨は受け取る事にした。
本当はこのメダルだって宝物なのだろうと、少年の表情を見て気が付いている。
けれど、優しい気持ちを無下にすることもしたくなかった。
「……お兄さん、ありがとう、ございました。俺、いつかまた来ます、約束しますから……!」
名残惜しむような顔をして、少年は左雨に手を振る。
左雨は手を振り返し、こちらを気にしながらも遠ざかる少年の姿を見送った。
「さようなら。……君の行く道が、輝きに満ちていますように」
きっと少年は、いつの日か、今日の事を忘れてしまうだろう。
自分も同様に、夢の様に。雨が上がるように。霧が晴れるように。
それでいい。振り返ることは無い。
ただあの少年は、前を向いて歩いていてほしい。
***
***
人間の世界を外れてから、どのくらいの年月が経ったのだろう。
数えることをしていないので、解らない。
名前も必要ない世界で過ごしているから、本名も忘れてしまった。
姿が変わる事も無く、過去を思い返すことも、次第になくなっていった。
しかし、1つだけおぼろげに覚えていることがある。
ずっと昔、この世界に迷い込んだ少年。
あの子に、イルカが彫られたメダルのキーホルダーを貰った。
姿も声も、やり取りの記憶も薄れているが、これは大切な物だ。
錆びても、輝きを失っても。
お守りのように、制服の胸ポケットに入れていた。
雨の世界の案内人は、今日もランタンを片手に彷徨い続ける。
いつも通り、何も変わる事は無いと思っていたのだ。
「……?」
突然、空気が揺らぐ。
これは世界の出入り口が開いた時に感じる揺らぎだ。
誰かが行き来するために開けたのだろうか。
ぱしゃんと、どこかで重めの足音が響く。これは大人のものだ。
音は1人分。案内人の分の音がしない。もしかしたら、珍しく誰か迷い込んでしまったのかもしれない。
音の方へと歩く。
白い世界で、足音だけが、ぱしゃん、ぱしゃりと、雨音に負けず大きく響く。
音に近づく。いつしか2人分の音になるが、相手の姿が視えない。今日は霧が濃いようだ。
「──お兄さん」
突然、背後から声が掛かり、驚いて振り向いた。
立っていたのは、黒いスーツを着た、暗い茶髪の成人男性だ。
片手で傘を差して、空いた手にも閉じた傘を持っていた。
何故か、彼が言う「お兄さん」の響きが酷く懐かく。
「……あの、話したい事は沢山あるんですが、濡れたまま、寒いのはよくありませんから」
彼に差し出された傘の下、何故だか自然と、涙がこぼれた。
周囲の人間に、自分の捉える世界を信じてもらえないまま、17年と少し生きた。
いつからか、笑顔も忘れ、言葉を口にする事も減り続け、それでも生きた。
それでも生きて──大きなきっかけは無かったのかもしれないが。
この日、少年は諦めた。
自分の未来を見つめる事も、口にできない言葉を書き連ねる事も、周囲に歩み寄る事も。
そんな少年を、人の世界からは外れた世界に住んでいる、不思議な存在が憐れんだ。
大雨の中、はぐれた仲間を一緒になって探してくれた、傘を貸してくれた少年を、この世界から連れ出してあげようと思った。
だから、不思議な存在は孤独な少年に手を差し伸べたのだ。
その手を、少年はとった。
優しく握りしめた手の輪郭を、雨粒が暈かしていく。
手にとどまらず、腕も、脚も、髪も、顔も、全身が、雨粒が当たる度にぼやけていく。
悲しいとも怖いとも思っていないはずなのに、何故か一筋だけ涙が流れた。
そして、とある梅雨の日。
少年──左雨柳は全てを諦めて、雨に溶けることを選んだ。
***
***
ぱしゃん、ぱしゃり、と、水を跳ね上げる音が妙に大きく響く。
秋の曇天から落ちる雨は冷たい。
息を切らせて走る子供の体温を奪うように、容赦なく降り続いている。
走っているせいで、空色の傘が揺れ、身体に雨粒が当たり、白い煙のような霧が視界を邪魔をしていた。
暗い茶髪が雨で額に張り付く。
どうして、と思いながら、少年は走り続ける。
小学校を出てから今まで、帰り道を、いつも通りに歩いていたはずなのに。
寄り道をすることなく、一人で、真っ直ぐに歩いていた。
それなのに、いつの間にか周りの景色は変わっていた。
世界に、何もない。
この辺りにあるはずの、パン屋も、クリーニング屋も、小さな犬を飼っている一軒家も何もなく、ただ真っ白い霧の世界が広がっている。
全部、白い霧が消してしまったかのように想えて、怖かった。
少年は一人で居ることが多かったが、本当に、本当に独りで取り残されてしまったように思えて、ただただ怖かった。
白くて、何も無くて、独りで、寒くて──泣くのは大嫌いなのに、泣きだしてしまいそうで。
「君は、もしかして迷子かな?大丈夫?」
突然、雨水の音以外が聞こえて、少年の心臓は大きく鳴った。
声に驚いて振り向くと、眼鏡をかけた男の人が立っている。
ぼさついた栗毛に、柔らかい目元。
透明な雨合羽を纏い、その下に黒い服が透けて見えた。
これは、自分よりももっと年上の、中学生や高校生の人が着る制服だ。
手には、ファンタジーに出てきそうなランタンを持っていた。
ランタンの中では何が燃えているのか、青い光を放っている。
「……お兄さん、だれですか?」
いきなり現れた人間への不安と、独りではなかった安心が入り混じり、少年の声は震えていた。
問いかけに、「お兄さん」と呼ばれた男──左雨が困ったように笑うと、少年と目線を合わせるように屈んだ。
「僕は……雨かな」
「アメ、さん?」
「名前では、無いんだけどね」
「……よくわからないです。お兄さんの名前は」
「わからなくてもいいんだ。ここで、僕の名前は必要ないし、君の名前も必要ない」
話す内容は理解出来ない。僅かに突き放すような言葉だ。けれど、優しくて柔らかい声だった。
「さあ、帰ろう」
「……ここは、どこですか?帰り道、あるんですか?」
何も見えないのにと、不安げな視線を少年が左雨に向ける。
「大丈夫、大丈夫。帰り道はちゃんとあるよ。君は迷い込んだだけなんだから」
「……っ!」
少年は言葉に反応する前に、左雨の肩越しを見つめて引き攣ったような顔をした。
「どうか、した?やっぱり不安、だよね……」
「だれか、誰かあっちにいる……」
少年の目線を追いかけて振り向くと、遠く、霧の中に黒い影が2つ見えた。
ぼんやりと、青い光も一緒に見える。
「ああ、彼らは……大丈夫、危険じゃないよ。元の世界に帰ってるだけだから」
少年を安心させるように、左雨はゆったりと穏やかに語った。
「ここって、夢の中ですか?」
「いや、うーん……」
少しだけ答え方に迷い、ぽつぽつと話を始める。
「君が居る世界と、別の世界の狭間……ええと、隙間だよ」
「別、世界の隙間……」
「僕は、ここで案内人をしているんだ。……雨の日にしか世界は繋がらないんだけど、ごめんね。
今日は誰かが、君の世界への出入り口を閉じ忘れたみたいで」
少年は、ただただ話を聞くしかなかった。
幻想のような話を、否定することも受け入れる事も出来ないまま。
「そういう日は時々、そこから人が迷い込むんだ。けど、元の世界まで送るのも僕の役目だから、ええと……」
左雨はあまり会話が得意ではない。
それでも、少年の不安を取り除こうと、言葉を紡いだ。
「必ず君を家まで帰すから、大丈夫だよ。ついてきて、くれるかな?」
「……」
こくりと、少年が頷いた。
それは安心したのではなく、縋れる存在が目の前にしか居ないからだと、左雨は思ったが。
「ありがとう、じゃあ、準備をするから」
微笑んで、少年に向き合った。
***
左雨は手にしているランタンの蓋を外す。
そして、青く燃えている光、ランタンの中へと進もうとした手を──少年が慌てて掴んだ。
「あ、熱いの、怪我、しますから!」
どうやら、火傷を心配してくれたらしい。
「ふふ、ありがとう。けど、僕は大丈夫。……見ててね」
「……はい」
未だに心配そうな目を向けてくるが、少年は手を放した。
左雨の白い手が、ランタンから青い光を取り出す。
手のひらの上で、少しづつ光が弱まっていく。
「……わっ、宝石だ」
完全に光が消えて、現れたのは、深い青色の宝石だった。
「うん、進むためには青い石が必要で……これはラピスラズリ」
「ラピス、ラズリ」
「君の世界にもこの石はあるんだよ。……それで、この石を変える」
手のひらの青い宝石を、左雨が握りしめる。
握り拳の隙間から、パチパチと、火花ではない、別の光が散る。
淡い黄色の、温かい光が。
「帰る為には、黄色い石が必要なんだ」
光が消えて手を開くと、透明な黄色い石が現れた。
「これはヘリオドール。……あはは、怖かったかな」
じっと、宝石と左雨の手を凝視したままの少年を、怖がらせてしまったのかと思い、声をかける。
「すごい。すごい、お兄さん、魔法使いだ……!」
「……ええと」
左雨の予想とは裏腹に、少年は無邪気にこちらを称えてきた。
どこか表情を押し込めているように思えた少年が、初めて見せる、輝きに満ちた目だ。
「怖くなかった、凄く綺麗で、手品じゃなくて本物の魔法です、本で読んだ光の魔法使いみたいで……す」
興奮気味に語り、徐々に勢いが弱まる。最後には、興奮したことを恥じるような、消え入りそうな声になった。
「ごめんなさい……」
「どうして謝るの?」
「……うるさくしたから」
「……」
言葉を、我慢する姿には覚えがある。
我慢しなくてもいいような言葉すら、自身の中へと押し込む少年の姿は──左雨と似ていた。
「人を……人を傷つけるような言葉じゃないのに、消してしまうのは勿体ないよ」
「……」
「少なくとも僕は……君に喜んでもらえて、光を綺麗だと言ってもらえて嬉しかった」
左雨がランタンの中にヘリオドールを落とすと、かこん、と硬い音が響いた。
「……本当に?」
「本当に。褒められたのは、久々だから」
蓋を閉じてしばらく待つと、徐々に宝石の光が増していく。
先程とは違う、輝いた黄色い炎、黄色い光。
「よし、お待たせ。行こうか、足を滑らせないように気を付けてね」
左雨が、空いている左手を少年に差し出した。片手にはランタンを持っている。
「……あ、りがとうございます」
「うん」
少年は、空いている右手で左雨の手を握り返した。片手には傘を持っている。
ぱしゃん、ぱしゃんと、帰り始めた2人分の足音が鳴る。
真っ白い霧と雨の世界。白い地面に、白い波紋が広がる。
しっかりと繋いだ手が冷たいと、少年は感じた。
この秋の雨で冷えたのか、それともこのお兄さんの体温なのか、解らない。
「……お兄さんは、傘を持ってないんですか?」
「うん、雨合羽があるし……もう、自分は雨みたいなものだから。濡れても平気なんだよ」
強がっているようには見えない、本当に、何でもないような表情を浮かべている。
「でも、手が冷たい、から。寒いのは、良くないです。風邪をひきます」
せめて少しでも温められないだろうかと、少年が握る手に力を込めた。
──暖かい、子供の体温。小さな手のひら。心配してくる言葉。
左雨は、久しぶりに人間の体温を感じた気がした。
「…………君は、優しいね」
その左雨の声を、表情を、形容する為の言葉も手段も少年は持っていなかった。
ただ、酷く胸が苦しくなるような感覚だけが確かだった。
「お、お兄さんは役目……が終わったら、家に帰るんでしょう?」
案内人は役目だと言っていた。きっと、大人が言う仕事のようなものなのだろうと、少年は思っている。
どんなに遅くなっても、仕事が終われば人は家に帰るのだから。
何故、そんなことを確認するように聞いたのか、少年自身にも理由は解らないが。
「……いいや、ここに居るよ」
半ば、こう解答をされる予感があった。
──このお兄さんはずっと独りなんだと、少年は何となく気が付いた。
「えっと、一緒、に。お兄さんも、帰りませんか!?」
共に帰ってどうするかなどは考えていない、子供から咄嗟に飛び出た心だった。
「…………ごめんね、ありがとう。でも、僕の居場所はもう、此処なんだ」
「……」
少年の歩幅が次第に小さくなり、俯いたまま立ち止まる。
出入り口まで、あと僅かだった。
立ち止まった少年に、困ったような、けれど、慈しむような目を向けて、左雨は屈む。
目線を合わせて、不安げで、何もできない自分を悔しがるような少年の表情と向き合う。
「そんなに心配そうな顔をしないで。ここに居る事を選んだのは僕だから」
「……でも、寂しそうだから」
一人が寂しい、という気持ちは、少年にはよくわかる。
大人は、寂しいと感じないのだろうか。
『君は、優しいね』と、そう言った時のお兄さんの声や顔は、寂しくない人のものなのだろうか。
「……」
左雨は、何も答えなかった。
「さあ、ここまで来たら、後は真っ直ぐ進むだけだよ」
「お兄さん」
「いきなさい。君の世界は、そっち側だ」
左雨の声は出会った瞬間から変わらず、穏やかで、優しい。
それでも、もうこれ以上の歩み寄りを許さないという意思を感じる声だ。
少年は、子供は、何も言えなくなってしまう。けれど。
「……お兄さん、お兄さんに俺の傘、あげる」
これは多分、小さな意地と勇気だ。
子供用の、空色の傘を左雨に差し出す。
身体が雨にさらされて、少年の雨合羽を濡らしていく。
「……」
「やっぱり、濡れたら寒いですよ」
綺麗な空色の傘。
持ち手に張られた、名前のラベルシールはボロボロで、何年も使っていることが覗えた。
「……君の宝物は受け取れないよ。大切にしているんだね」
どうして、大人は色んなことがわかるのだろうと、少年は悔しさと尊敬を覚える。
「僕は、君が寒い思いをする方が悲しい」
「……」
傘は受け取っては貰えなかった。
悲しいような、寂しいような、傘を手放さずにすんで良かったと思うような、左雨の優しさが嬉しいような。
色んな気持ちが少年の中で混ざり合う。
どうしても、少年は左雨に対して「何か」をしてあげたかった。
考えて、悩んで、ふと思いついた。
背負っていたランドセルから、何かを取り外す。
「じゃあ、これ、貰ってお兄さん!」
これでは、雨から守ってあげることもできないけれど。
「……こんなに綺麗なのに、此処に置いて行ったら、戻ってこないよ」
「いいです、いいんです。お兄さんにあげます」
少年が渡したそれは、キーホルダーだ。
金色のメダルに2匹のイルカの絵が彫られている、水族館の記念メダル。
数年前に1度だけ行けた時に、母が買ってくれた。
お守りのように、ランドセルに付けていた。
──大切だけれど、大切な物だから、お兄さんにあげたかった。
「……ありがとう。……大事にするね」
左雨は受け取る事にした。
本当はこのメダルだって宝物なのだろうと、少年の表情を見て気が付いている。
けれど、優しい気持ちを無下にすることもしたくなかった。
「……お兄さん、ありがとう、ございました。俺、いつかまた来ます、約束しますから……!」
名残惜しむような顔をして、少年は左雨に手を振る。
左雨は手を振り返し、こちらを気にしながらも遠ざかる少年の姿を見送った。
「さようなら。……君の行く道が、輝きに満ちていますように」
きっと少年は、いつの日か、今日の事を忘れてしまうだろう。
自分も同様に、夢の様に。雨が上がるように。霧が晴れるように。
それでいい。振り返ることは無い。
ただあの少年は、前を向いて歩いていてほしい。
***
***
人間の世界を外れてから、どのくらいの年月が経ったのだろう。
数えることをしていないので、解らない。
名前も必要ない世界で過ごしているから、本名も忘れてしまった。
姿が変わる事も無く、過去を思い返すことも、次第になくなっていった。
しかし、1つだけおぼろげに覚えていることがある。
ずっと昔、この世界に迷い込んだ少年。
あの子に、イルカが彫られたメダルのキーホルダーを貰った。
姿も声も、やり取りの記憶も薄れているが、これは大切な物だ。
錆びても、輝きを失っても。
お守りのように、制服の胸ポケットに入れていた。
雨の世界の案内人は、今日もランタンを片手に彷徨い続ける。
いつも通り、何も変わる事は無いと思っていたのだ。
「……?」
突然、空気が揺らぐ。
これは世界の出入り口が開いた時に感じる揺らぎだ。
誰かが行き来するために開けたのだろうか。
ぱしゃんと、どこかで重めの足音が響く。これは大人のものだ。
音は1人分。案内人の分の音がしない。もしかしたら、珍しく誰か迷い込んでしまったのかもしれない。
音の方へと歩く。
白い世界で、足音だけが、ぱしゃん、ぱしゃりと、雨音に負けず大きく響く。
音に近づく。いつしか2人分の音になるが、相手の姿が視えない。今日は霧が濃いようだ。
「──お兄さん」
突然、背後から声が掛かり、驚いて振り向いた。
立っていたのは、黒いスーツを着た、暗い茶髪の成人男性だ。
片手で傘を差して、空いた手にも閉じた傘を持っていた。
何故か、彼が言う「お兄さん」の響きが酷く懐かく。
「……あの、話したい事は沢山あるんですが、濡れたまま、寒いのはよくありませんから」
彼に差し出された傘の下、何故だか自然と、涙がこぼれた。
