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雨雲の日々

暑苦しい夏の熱気を、風が吹き込むたびに室内から追い出していく。

そのたびに、窓の木枠に取り付けられた、小さなフックに掛かる風鈴が、ちりんと涼しい音を鳴らす。

窓の近くには古き良き、陶器製の豚の置物。中では蚊取り線香が、じりじりと燃えている。

この家には、ずいぶんと夏が詰まっている。そんな事を考えながら、出雲は完成した夕食を台所から運ぶ。

ひんやりとした、平たいガラスの器には、しっかりと冷やされたつゆと素麺が盛られている。

トマトの角切りと紫蘇と茗荷の千切りが乗っかっている、さっぱりとしたものだ。

食卓では、先に左雨が箸とグラスを用意している。冷蔵庫から麦茶入りのピッチャーを取り出してグラスに注ぐ。

席につき、「いただきます」と似たタイミングで2人は手を合わせて、素麺を食べ始めた。

「……美味しい。これなら、結構食べられそう」

元より食の細い左雨は、夏の暑さにより輪をかけて食欲を失くしていた。

3食ゼリー飲料になりかねなさそうな左雨の様子を見た出雲が作った具入り素麺は好評だった。

「それは良かったです。……無理にとは言いませんが、食事を全部抜くのはダメですよ、先生」

「うん、気を付けるよ」

苦笑する左雨を見ていると、彼の祖父母が亡くなった後はどう生きていたのだろうと、出雲は心配になる。

現在、左雨は生きているので、杞憂ではあるのだろうが。

「それと、新聞やチラシをポストに放置するのはどうかと」

「ああ……忘れてた、ありがとう」

「居間の方にまとめてありますから、目を通してくださいね」

素麺を啜りながら、左雨はこくりと首を縦に振った。



2日分の新聞と、スーパーの特売情報を流し見て、それから、夏祭りの告知チラシに目が留まる。

それなりに、大きな規模の縁日の宣伝だ。

特別、人混みの中に行きたいとは思わない左雨が、チラシを手放そうとした時に声が掛かる。

「行ってみますか、それ?締切まで余裕がありますし」

出雲は、帰り支度をしながら、何気なく聞いた。

「……人が多そうだから」

苦笑いを浮かべて、左雨は遠回しに断った。

そこで、祭りについての話題は終わる──ような雰囲気だったのだが。

「……例えば、俺がびしっと浴衣でも着て誘えば、アンタは応えてくれますか」

ぱちり、と、瞬きを数回して、左雨は出雲に向き直る。

これは食い下がられたのだろうか。

どうにも、出雲の態度が平坦すぎて、冗談なのか本気なのかがわかりにくい。

わかりにくいものだから、「なあに、それ」と、左雨は曖昧に笑ってしまう。

話題を流された事について出雲は眉一つ動かさない。

そのまま、「じゃあ、また」と言われ、その日は別れた。

***

曖昧に祭りの話をした日以来、出雲の胸中は後悔という名の靄で覆われていた。

何故、はっきり誘いをかけなかったのか。

冗談めかした、中途半端な態度をとったせいで、左雨は困ったように笑っていた。

もしもあの場で「一緒に行きませんか」と直球で誘っていれば。

きっと、左雨は「行く」というだろう。

例え本心が「行きたくない」と言っていても、出雲が相手なら、言うだろう。

しかし、無理に連れていくような事はしたくなかった。

再開後、飲食店で共に食事をする事も増えたが、それとこれとは違う。

今までは、できる限り人混みの中に連れ出すことは避けていた。

そもそも、祭りに行きたいというのは自分自身の我儘だ。

考えれば考えるほど、自己嫌悪に陥りそうな理由だった。

***

高校時代。

出雲は友人達に誘われ、放課後に夏祭りに行った。

その日に部活は無く、左雨を誘うことは無かった。

部活の有無に関わらず、他人が苦手な先輩を誘う事はしなかっただろうし、それが原因で後ろめたさを感じる事も無かっただろう。

祭りの会場に着いた後は各々が自由に行動した。

数人の友人達は、出雲を含めて自由人な気質で、必ずしも固まって行動はしていなかった。

ある者は別の友人グループを見つけて話に行ったり、ある者は射的に熱中してその場から動かなかったり。

また元通りに纏まって屋台の料理を食べたり、離れたり。

その中で、出雲が一人になる瞬間があった。

友人達とは携帯でいつでも連絡が取れるので、特に誰を探すこともせずに、一人きりで会場をうろついていた。

沢山の人の姿と声が入り混じる空間を、縫うように歩く中。

見つけた後ろ姿に、心底驚いた事を覚えている。

「あの、先輩ですよね?」

「……!君、かぁ」

人混みの中を歩き辛そうに進む背中を呼び止めた。

「こん、ばんは。来てたんすか……」

「……うん、けど、遊びに来たわけじゃない、から」

「えっ、じゃあ何を」

「……道に迷った子を、案内してるだけだよ」

そう苦笑しながら話す左雨の右手は、不自然な握り拳を作っていた。

左雨の隣に小さな子供でも居れば、ちょうど手を繋ぎ合う形になる、そんな握り方だった。

出雲には、左雨が一人で居る様にしか見えない。

「お祭りに、行ってみたかったんだって」

「……」

「神社で、友達が待ってるそうだから……送ったら、帰るよ」

「そう、ですか……」

何か、出雲は言葉を続けようとした。

言いたいことは決まっていて、抵抗もそれほどなかったはずだ。

「あの」

背後から、「出雲!」と名前を呼ばれた。友人の声だ。

振り向くと、いつの間にか友人達は全員揃っていて、出雲を迎えに来たようだ。

左雨は、出雲と友人達に少しだけ柔らかい視線を向けて、逃げるように、僅かに目を逸らした。

「…………じゃあ、また、部活でね」

言葉を続けようとした事は、伝わっていたのだろうか。

普段と変わらないような、ぎこちない微笑みを浮かべて、左雨は去って行く。

追いかける事も出来ないまま、出雲は人混みに紛れる背中を見送り──口にできなかった言葉だけが取り残された。

左雨の姿が寂し気で、「一緒に行きませんか」と、本当は言いたかった。

言えたとしても、あの様子だと恐らく誘いは断られるだろう。

それでも、言えば良かったと後悔した。

***

結局、左雨を祭りに誘いたいのは、自身の後悔の清算をさせて欲しいという、自分勝手な動機なのだ。

このまま、曖昧な空気で当日を迎えてしまうのか。

今からでも電話をして、はっきり誘ってみようか。

誘う動機が不純だと感じるせいで、出雲はどちらも選べない。

思考が堂々巡りするばかりだ。

左雨は時々、「君は強いね」というけれど。

「俺は弱いですよ」と、いつも返す自分の言葉の通りだった。

困ったように、曖昧に笑う左雨を思い出す。

──行ってみますか、それ?締切まで余裕がありますし。

──……人が多そうだから。

「……いや、もう断られてたな」

そうだった。左雨は最初から断っていた。なら、無理に連れ出す事が一番悪い。

ただ行かないにしても、あの日の態度のまま有耶無耶にするのは無責任なので、最終確認の連絡はしておこう。

出雲は携帯を開いて気が付いた、新着メールが届いている。

内容を確認し──理解するまで数秒掛かった。

『此方も、浴衣を着た方がいいですか』

差出人は、左雨だ。

出雲は急いで、電話帳の画面を開いた。

****

──例えば、俺がびしっと浴衣でも着て誘えば、アンタは応えてくれますか。

という、出雲の言葉を受け取ってからの数日。

左雨は執筆の合間で悩んでいた。

あの言葉は、本気だったのか否か。

出雲は冗談を、たまには言うこともあるが。

もしも、本気で言っていたのなら。

誘いを断った上に、食い下がる言葉を受け流すように笑った自分を、彼はどう思っているだろう。

電話でもメールでも、何でもいいから聞いた方がいいのかもしれない。

けれど、もしも、冗談だったら?

『──あれ、冗談なんすよ』

それは何故か、想像したくないと思った。その言葉は聞きたくないなと思った。

最初に遠回しに断ったくせに、自分は酷く我儘だと、左雨は苦笑する。

出雲からの連絡はあの日以来無い。

もしかしたら、前日あたりに来るのかもしれないが。

左雨は、自分の方から動くことにした。

先手を打った──彼が冗談にしてしまわないように。

『此方も、浴衣を着た方がいいですか』

メールの文面はたったの1行。

けれど出雲なら、すぐに理解するだろう。

左雨はあの例え話を、本気と受け取る事にしたのだと。

***

夏祭り当日。

夕空の色で染められた住宅街を、草履を踏締めて歩く。

数年振りに浴衣を着て、懐かしい気分になる。

地面と草履が触れ合う音を楽しみながら、目的地へと到着した。

平屋建ての一軒家。

インターフォンを押す。いつもと変わらない行為なのに、ほんの僅かに緊張した。

「はい」という声と共に玄関の扉が開く。

現れた彼もまた、浴衣を着ている。

「……」

黙って、それでいて嬉しそうに、左雨は言葉を待っている。

「……あの、一緒に行きませんか、祭り」

「……うん、僕で良ければ」

高校時代に取り残された言葉を、ようやく出雲は伝えることが出来た。
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