雨雲の日々
「ごめんね、腕、もう動かないんだって」
随分、悪趣味な冗談だと、出雲は思う。
いつもと変わらない微笑みで、こちらを見つめる左雨が言い放った言葉。
事故なのか、それとも、別の理由か。
原因は何だっていい、そんなことは問題ではない。
「ごめん」
彼はどうして謝るのだろうと思う。
謝る理由なんてないはずだ。
「辛そうな顔をしてるから」
違う、辛いのは、自分じゃない。
辛いのは、一番、辛いのは。
「ごめんね」
──もう、お話を書けないんだ。
身体にふれる、窓から差し込む陽の暖かさで目を覚ます。
ゆっくりと身体を起こして、半分は眠っている頭が徐々に目の前の景色を捉える。
何一つ、眠る前と変わっていない。
手を動かして、枕元を探る。
指にふれた眼鏡のフレームの感覚に、安心して。
「……夢でよかった」
左雨は、溜息と共に呟いた。
***
酷い夢だ、あまりにも酷い夢を見たと、左雨は思う。
心臓は規則的に脈を打つ。夢を思い出して、早まることはなかった。
手が、指が、腕が動くことに安堵こそしたものの。最初から、飛び起きたり、心臓がばくばくと鳴るようなこともなかった。
カタカタと、キーボードをタイプする音が響く。
パソコンの画面には、左雨から生まれた文章が綴られている。
「……」
だが、上手く集中が続かない。
手は動いているが、意味の無い言葉を打っては、その分バックスペースキーを押した。
『ごめんね』
夢の自分の声を思い出す。
あれは、よくない。
あの場面で終わった事に心底安心した。
言葉を告げた後の、出雲の表情を見る事にならなくて本当に良かった。
だって、想像できてしまう。もしも、本当に自分の腕が動かなくなったら。
──自分は、恐らく。
小説家として機能しなくなった時点で、終わる事を選ぶ。
左雨には自覚がある。
周囲が、どんな言葉をくれたとしても、どんな行動をとったとしても。
たとえ、それをするのが、誰であっても。
自分の人生において小説を書けなくなることは、死んでいるのと同じことだ。
誰かが、生きることを望んだとしても。
終わる事を選ぶ後悔はないだろう。ただ、何かあるとすれば1つだけだ。
──出雲修司。
彼は、傷を負うことになる。
かすり傷では済まない深い傷を──彼の心の何処かに。
そうなってしまうくらい、共に居た。
夢の中の、出雲の表情はもう思い出せない。思い出すことを無意識に拒絶しているのかもしれない。
『もう、お話を書けないんだ』
その時自分は、彼の中の何かを確実に殺してしまうのだろう。
命があっても、2人で1つの死を迎えるのだ。
「……それは、だめだなぁ」
左雨は出雲に、生きてほしい。
出雲の心が、傷も負わず、死も迎える事も無く、彼の人生を最後まで歩んでほしい。
例え、自分がどうなろうとも。
けれど、それはもう不可能なのだ。
互いに過ごす時間を重ねてしまった。
近づきすぎてしまった、心に、居座り続けてしまった、そう自惚れることが出来るほど。
どちらかが傷を負った時、片方が無傷でいられる方法は、無い。
──キーボードの上に置かれた手が、いつの間にか止まっていた事に気が付いた。
「……」
トン、トン、とキーボードを軽く叩く。
適当にではなく、目的を持って指がキーの間を移動する。
押し込んではいないので画面上に文字は現れない。
これでいい。これは、誰にも読ませること無く、墓まで持っていくのだから。
トン、トン、と淀みなく、ゆったりとキーに触れた。
──僕は君に酷い想いを抱いている。君は知らないだろうけど。
もしもいつか、自分が終わる時が来たら。君は悲しむと確信してしまってから。
死が、怖くなくなってしまったんだよ。
僕には生きてる意味があった、価値があった。
その証が此処に居るから。十分、君に幸せにして貰えたから。
死んでもいいと思えたんだ。
けれど、君が傷ついたり、悲しんだりするのは、一番耐え難い。
救いようがないけれど、僕は君が大切だ。
墓まで持っていく告白を綴り終えた。画面上には何の文字も浮かんでいない。
「……絶対に、いわないけどね」
祝福にも呪いにも似ている想いを、左雨は出雲に抱いている。
意味の無い事をした自分に苦笑して、傍に置いてあった携帯電話を手に取った。
なんだか、無性に出雲に会いたくなったので、仕事後に家に寄らないかとメールした。
決して上手くはない珈琲でも、用意しておいてあげよう。
