雨雲の日々
昨日、仕事終わりの出雲が左雨の家に泊まりに来た。
今日は休日で、珍しく、左雨は出雲よりも先に目が覚めた。
外では雨が降っていて、じめじめとした室内の空気に起こされたのかもしれない。
そのすぐ後に、隣で眠っていた出雲が目を覚ました。
ゆっくりと目蓋を開いて、ぼんやりと瞬きをして。
左雨が「おはよう」と声をかけた瞬間に、出雲の瞳が揺れた。
焦燥、のようなものを感じる瞳がこちらを捉えて、何かを言いあぐねるかのように薄く唇が開かれて。
「……おはようございます」と、寝起きの小さなかすれ声をあげた。
***
朝、目が覚めてからというもの。
出雲の機嫌が良くないなと、左雨は感じる。
昨日、寝るまでに、変わった様子は無かった。
普段から真顔に近い、愛想のない表情をしているが。
起床時の様子を始め、どうも、妙に口数が少ない。
朝食を終えた2人は、左雨の自室で新しい文庫本を読んでいた。
ふとした瞬間に、出雲は窓の外の雨空を見つめる。まるで忌々しいものでも見るように。
「……雨、嫌いだったっけ?」
自分の記憶の中で、彼は雨音が嫌いではないと話していたはずだ。
「別に嫌いじゃないですが」
「知ってるよ。今日は、なんだか不機嫌だから」
遠回しにではなく、直球で不機嫌を指摘された出雲が、左雨から僅かに目を逸らす。
次の言葉を考えているのだろう。
「……何かあった?」
だが考える隙は、左雨が持ち去って行った。
出雲が、不機嫌になる事は珍しい。
それに、彼が不機嫌になる理由は、大半が、他人を想う心だったりする。
「大した事じゃないんで」
「なら、君にとっては大した事なんだね」
「……」
左雨の追及に、出雲が黙り込む。
言葉を探している時点で、左雨の指摘は正解だと言っているようなもので、出雲は挽回も出来そうに無かった。
「白状?」
「すればいいんでしょう」
「無理強いはしないよ」
穏やかで、やんわりとしていて、けれど強制力を感じると、出雲は思った。
本人は、本当に強制する気は無いのかもしれないが。
少なくとも、白状しなければ彼を心配させ続けるのだろうし、曝け出すのも一つの手だろう。
本を閉じて、相手へと向き合う。
「……夢を見ました」
ぽつり、ぽつり、湿度の高い空気を伝う声。
雨音が小さく織り込まれた、出雲の言葉を、黙って聞く。
──雨の夢。
まるで霧の中に居るような、深く白い世界に、大雨が降っていた。
大雨のはずなのに、優しい。
音もしなければ、冷たい雰囲気もない、不思議と優しい大雨の中。
遠くで、先生が傘もささずに立っていて。
寒くはなさそうでも、やはり濡れたら寒いだろうと、自分は傘を貸そうとした。
どこにでも売っている、それこそ先生が持っているような、透明なビニール傘を。
「……そしたら、アンタ、溶けるんです」
雨があたる度に、全身がぼやけていく。
先生の表情も、色彩も、輪郭も、何もかも。
滲んで、ぼやけて、溶けていく。
優しい雨と一緒になって、何処かへと消えた。
自分は傘を差しだすことも、駆け寄ることも、声を上げる事も出来ないまま、ただ離れた場所で、それを見ていて。
──俺だけが、雨に溶けずに残された。
「それで目が覚めたら朝から雨でしょう。気分は上がりませんよ……って笑わんで下さい」
「ごめん、ふふ、ごめんね」
左雨は、悪意を持って笑ったつもりはない。
しっかり者の後輩の、子供のような表情を見て、つい笑みが零れてしまった。
「だから言いたくなかったんですよ」
「無理強いはしてないよ」
「口に出さなくても無理強いは出来ます」
案の定笑われてしまった事に、出雲は拗ねたような声色になる。
嫌な夢をみて、不機嫌になるなんて、まるで幼い子供のようだと、わかってはいる。
しかし、出雲は現実で見たことがある。
高校時代の、とある雨の日に。
何もない空間に差し出された左雨の傘が、雨に溶けて消えた。
続けざまに左雨の指先の輪郭が、揺らいで、滲む光景を。
出雲は、必死で左雨の元へと走り、後ろから手を握りしめた。
夢の話など、笑いごとだろう。けれど、出雲にとっては、笑いごとではないのだ。
「ごめんごめん。……もしかして、不安になった?」
ひとしきり、静かにくすくすと笑った後。
左雨は、穏やかに微笑みながらも、真剣に出雲の瞳と向き合った。
言葉では、出雲は何も言わない。
「なった」とも、「なっていない」とも。
「なる」とも、「ならない」とも。
言いたい事は、ちゃんと口にする性質の人間が、何も言わない。
瞳だけが、何かを語り、揺れている。
それだけ、不安になったのだろうか。
自分は、彼の"不安"という感情の起因になるような人間だと、出雲の様子から、左雨は理解だけならできている。
「……僕は溶けないよ」
少しだけ離れていた2人の距離を、左雨が自ら縮める。
出雲のすぐ隣に移動して、座る。
理解はしていても──自分の価値を肯定する、実感や自覚を、左雨はまだ、受け入れられていないが。
出雲を、安心させたかった。
「ほら、溶けてない」
ひらひらと、出雲の眼前で手をかざす。
ごく、自然に。
そこにある形に触れて、確かめる為に、かざされた手に、出雲が自分の手を伸ばし──中途半端な位置で止まる。
「どうしたの?」
「……突然触るのは失礼かと思って」
突然触れた事は、今までにもあったのに。
隣同士で寝ておいて、そこを気にするのか。
突然触る事を気にしているだけなら、許可があれば触れたいのか。
また出雲の機嫌を損ねてしまうかもしれないが、左雨は笑ってしまった。
「あははっ、い、良いよ、触って良いよ」
「……失礼します」
笑われたことについては不服そうにしていたが、許可を得て、左雨の手に触れる。
細くて、体温の低い。温い手だ。
すり、と指と手のひら全てで、撫でるようにすると、骨の硬さを感じる。
指の関節を通過して、出雲の指が滑るように、爪へ到達した。
「……爪。伸びてるんで、切った方がいいです」
「うん、その内に」
「先生」
「……この後にね」
咎めるような出雲の声と共に、指の腹で、爪をなぞられる。
そのまま指を進ませて、掌の上を、人差し指と中指が這うように進む。
「ふふ、くすぐったい」
「……すみません」
自身の手を、されるがままに触れられている。
現実に存在することを、確かめられている。
指と指の間に、出雲の指が入り込む。
ごく軽い力で、握り込まれた。
左雨は、力を抜いたまま、握り返すことはしていない。
「……先生は、」
「うん」
「雨に混じって、消えたいですか」
出雲はじっと、握り込んだ手を見つめたままで。
らしくもない、消え入りそうな声を吐き出した。
左雨は、黙っている。
想像以上に、出雲を不安にさせていた事を自覚したり、笑ってしまった事への反省だったりと、頭の中は忙しかった。
「……」
自分に、彼が触れる。
戸惑い、迷いながらも、最後には必ず触れてくる。
この握り込まれている彼の手が、自分の存在を、望んでくれているようで。
──左雨は、手を握り返す。出雲の手を包み込むように、指を絡めた。
「……消えたかったら、こうしていないよ」
「……」
それからしばらく、2人は手を握り合ったまま、雨音や時計の針が進む音だけを聞いていた。
掌の温度が混じり合って、しっとりと汗が滲み始めた頃。
左雨が、口を開く。
「君が白状したんだから、僕も1つ、しておこうか」
「……無理強いはしませんが」
出雲は本当に、強制するつもりがなさそうだ。
「僕が、話したいと思ったから……君が聞きたくないなら、言わないよ」
どこか、不安になる左雨の言い回しだが。
「なら、してください。白状」
出雲は聞くことを選んだ。聞きたいのだ、彼の話を。
1度、深く呼吸をして、左雨は語り始めた。
「昔……。昔は、よく思ったよ。居なくなりたいと、よく思った」
「……」
ほんの少し、握り込んでくる出雲の手に、力が入る。
それに、申し訳ないような気持ちになって、同時に安心して、左雨は話をすすめた。
「けど、君に会ってからは……まだ此処に居て良かったと、思えることが増えたんだ」
「……」
「うーん、上手く言えないね。また不安にさせたと思うけど、つまり、今は、結構嬉しくて……手を握ってくれてありがとう」
苦笑の混じった微笑みで、左雨は出雲に言葉を贈る。
静かに、口を挟まずに言葉を受け取り、ようやくゆっくりと、出雲が左雨の手を放した。
掌の温もりが消えて、少し、惜しむような心地になる。
「……もう、大丈夫です」
「そう?」
「ええ」
不安は安心に変わったのか、いつも通りの出雲の表情に戻っていた。
真顔に近くて、愛想の無い──けれど、柔らかい眼差しを向けている。
「……俺も、嬉しいすよ。結構」
出雲の言う"嬉しい"の中身は、何だろうと、左雨は思う。
出会えた事か、触れ合えたことか。
それとも、今、一緒に生きていることか。
もし、これら全てを嬉しいと言ってくれているのなら。
それはあまりにも、幸福過ぎる。
「……一緒でよかったよ」
静かな、喜びの滲む声が響く。
──雨の音は、いつの間にか消えていた。
今日は休日で、珍しく、左雨は出雲よりも先に目が覚めた。
外では雨が降っていて、じめじめとした室内の空気に起こされたのかもしれない。
そのすぐ後に、隣で眠っていた出雲が目を覚ました。
ゆっくりと目蓋を開いて、ぼんやりと瞬きをして。
左雨が「おはよう」と声をかけた瞬間に、出雲の瞳が揺れた。
焦燥、のようなものを感じる瞳がこちらを捉えて、何かを言いあぐねるかのように薄く唇が開かれて。
「……おはようございます」と、寝起きの小さなかすれ声をあげた。
***
朝、目が覚めてからというもの。
出雲の機嫌が良くないなと、左雨は感じる。
昨日、寝るまでに、変わった様子は無かった。
普段から真顔に近い、愛想のない表情をしているが。
起床時の様子を始め、どうも、妙に口数が少ない。
朝食を終えた2人は、左雨の自室で新しい文庫本を読んでいた。
ふとした瞬間に、出雲は窓の外の雨空を見つめる。まるで忌々しいものでも見るように。
「……雨、嫌いだったっけ?」
自分の記憶の中で、彼は雨音が嫌いではないと話していたはずだ。
「別に嫌いじゃないですが」
「知ってるよ。今日は、なんだか不機嫌だから」
遠回しにではなく、直球で不機嫌を指摘された出雲が、左雨から僅かに目を逸らす。
次の言葉を考えているのだろう。
「……何かあった?」
だが考える隙は、左雨が持ち去って行った。
出雲が、不機嫌になる事は珍しい。
それに、彼が不機嫌になる理由は、大半が、他人を想う心だったりする。
「大した事じゃないんで」
「なら、君にとっては大した事なんだね」
「……」
左雨の追及に、出雲が黙り込む。
言葉を探している時点で、左雨の指摘は正解だと言っているようなもので、出雲は挽回も出来そうに無かった。
「白状?」
「すればいいんでしょう」
「無理強いはしないよ」
穏やかで、やんわりとしていて、けれど強制力を感じると、出雲は思った。
本人は、本当に強制する気は無いのかもしれないが。
少なくとも、白状しなければ彼を心配させ続けるのだろうし、曝け出すのも一つの手だろう。
本を閉じて、相手へと向き合う。
「……夢を見ました」
ぽつり、ぽつり、湿度の高い空気を伝う声。
雨音が小さく織り込まれた、出雲の言葉を、黙って聞く。
──雨の夢。
まるで霧の中に居るような、深く白い世界に、大雨が降っていた。
大雨のはずなのに、優しい。
音もしなければ、冷たい雰囲気もない、不思議と優しい大雨の中。
遠くで、先生が傘もささずに立っていて。
寒くはなさそうでも、やはり濡れたら寒いだろうと、自分は傘を貸そうとした。
どこにでも売っている、それこそ先生が持っているような、透明なビニール傘を。
「……そしたら、アンタ、溶けるんです」
雨があたる度に、全身がぼやけていく。
先生の表情も、色彩も、輪郭も、何もかも。
滲んで、ぼやけて、溶けていく。
優しい雨と一緒になって、何処かへと消えた。
自分は傘を差しだすことも、駆け寄ることも、声を上げる事も出来ないまま、ただ離れた場所で、それを見ていて。
──俺だけが、雨に溶けずに残された。
「それで目が覚めたら朝から雨でしょう。気分は上がりませんよ……って笑わんで下さい」
「ごめん、ふふ、ごめんね」
左雨は、悪意を持って笑ったつもりはない。
しっかり者の後輩の、子供のような表情を見て、つい笑みが零れてしまった。
「だから言いたくなかったんですよ」
「無理強いはしてないよ」
「口に出さなくても無理強いは出来ます」
案の定笑われてしまった事に、出雲は拗ねたような声色になる。
嫌な夢をみて、不機嫌になるなんて、まるで幼い子供のようだと、わかってはいる。
しかし、出雲は現実で見たことがある。
高校時代の、とある雨の日に。
何もない空間に差し出された左雨の傘が、雨に溶けて消えた。
続けざまに左雨の指先の輪郭が、揺らいで、滲む光景を。
出雲は、必死で左雨の元へと走り、後ろから手を握りしめた。
夢の話など、笑いごとだろう。けれど、出雲にとっては、笑いごとではないのだ。
「ごめんごめん。……もしかして、不安になった?」
ひとしきり、静かにくすくすと笑った後。
左雨は、穏やかに微笑みながらも、真剣に出雲の瞳と向き合った。
言葉では、出雲は何も言わない。
「なった」とも、「なっていない」とも。
「なる」とも、「ならない」とも。
言いたい事は、ちゃんと口にする性質の人間が、何も言わない。
瞳だけが、何かを語り、揺れている。
それだけ、不安になったのだろうか。
自分は、彼の"不安"という感情の起因になるような人間だと、出雲の様子から、左雨は理解だけならできている。
「……僕は溶けないよ」
少しだけ離れていた2人の距離を、左雨が自ら縮める。
出雲のすぐ隣に移動して、座る。
理解はしていても──自分の価値を肯定する、実感や自覚を、左雨はまだ、受け入れられていないが。
出雲を、安心させたかった。
「ほら、溶けてない」
ひらひらと、出雲の眼前で手をかざす。
ごく、自然に。
そこにある形に触れて、確かめる為に、かざされた手に、出雲が自分の手を伸ばし──中途半端な位置で止まる。
「どうしたの?」
「……突然触るのは失礼かと思って」
突然触れた事は、今までにもあったのに。
隣同士で寝ておいて、そこを気にするのか。
突然触る事を気にしているだけなら、許可があれば触れたいのか。
また出雲の機嫌を損ねてしまうかもしれないが、左雨は笑ってしまった。
「あははっ、い、良いよ、触って良いよ」
「……失礼します」
笑われたことについては不服そうにしていたが、許可を得て、左雨の手に触れる。
細くて、体温の低い。温い手だ。
すり、と指と手のひら全てで、撫でるようにすると、骨の硬さを感じる。
指の関節を通過して、出雲の指が滑るように、爪へ到達した。
「……爪。伸びてるんで、切った方がいいです」
「うん、その内に」
「先生」
「……この後にね」
咎めるような出雲の声と共に、指の腹で、爪をなぞられる。
そのまま指を進ませて、掌の上を、人差し指と中指が這うように進む。
「ふふ、くすぐったい」
「……すみません」
自身の手を、されるがままに触れられている。
現実に存在することを、確かめられている。
指と指の間に、出雲の指が入り込む。
ごく軽い力で、握り込まれた。
左雨は、力を抜いたまま、握り返すことはしていない。
「……先生は、」
「うん」
「雨に混じって、消えたいですか」
出雲はじっと、握り込んだ手を見つめたままで。
らしくもない、消え入りそうな声を吐き出した。
左雨は、黙っている。
想像以上に、出雲を不安にさせていた事を自覚したり、笑ってしまった事への反省だったりと、頭の中は忙しかった。
「……」
自分に、彼が触れる。
戸惑い、迷いながらも、最後には必ず触れてくる。
この握り込まれている彼の手が、自分の存在を、望んでくれているようで。
──左雨は、手を握り返す。出雲の手を包み込むように、指を絡めた。
「……消えたかったら、こうしていないよ」
「……」
それからしばらく、2人は手を握り合ったまま、雨音や時計の針が進む音だけを聞いていた。
掌の温度が混じり合って、しっとりと汗が滲み始めた頃。
左雨が、口を開く。
「君が白状したんだから、僕も1つ、しておこうか」
「……無理強いはしませんが」
出雲は本当に、強制するつもりがなさそうだ。
「僕が、話したいと思ったから……君が聞きたくないなら、言わないよ」
どこか、不安になる左雨の言い回しだが。
「なら、してください。白状」
出雲は聞くことを選んだ。聞きたいのだ、彼の話を。
1度、深く呼吸をして、左雨は語り始めた。
「昔……。昔は、よく思ったよ。居なくなりたいと、よく思った」
「……」
ほんの少し、握り込んでくる出雲の手に、力が入る。
それに、申し訳ないような気持ちになって、同時に安心して、左雨は話をすすめた。
「けど、君に会ってからは……まだ此処に居て良かったと、思えることが増えたんだ」
「……」
「うーん、上手く言えないね。また不安にさせたと思うけど、つまり、今は、結構嬉しくて……手を握ってくれてありがとう」
苦笑の混じった微笑みで、左雨は出雲に言葉を贈る。
静かに、口を挟まずに言葉を受け取り、ようやくゆっくりと、出雲が左雨の手を放した。
掌の温もりが消えて、少し、惜しむような心地になる。
「……もう、大丈夫です」
「そう?」
「ええ」
不安は安心に変わったのか、いつも通りの出雲の表情に戻っていた。
真顔に近くて、愛想の無い──けれど、柔らかい眼差しを向けている。
「……俺も、嬉しいすよ。結構」
出雲の言う"嬉しい"の中身は、何だろうと、左雨は思う。
出会えた事か、触れ合えたことか。
それとも、今、一緒に生きていることか。
もし、これら全てを嬉しいと言ってくれているのなら。
それはあまりにも、幸福過ぎる。
「……一緒でよかったよ」
静かな、喜びの滲む声が響く。
──雨の音は、いつの間にか消えていた。
