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雨雲の日々

とある男子高生がいる。

基本的に何も語らず、表情を動かさず、いつも何かしらの本を読んでいた。

その男子高生には噂がある。

幽霊が視えているのではないか、という噂だ。

何も無い場所を見つめたり、独り言をつぶやいていたり、不可解な行動をとったりする彼の事を、大抵の人間は「嘘つき」だと言う。

さらにその中の一部が「頭の可笑しい奴」「精神病」などと言い囃し、嗤っていた。

その嘲笑が耳に届いているにも関わらず、噂の男子高生は無口に表情一つ動かさないまま、本を読んでいる。

怒りも悲しみも見せない彼を、遠巻きに見て、噂をして。

いつしか尾鰭が付いたのか、「あいつに関わると呪われる」、そう言われるようになった。

***

「そういやお前の部活ってさぁ、曰く付きの先輩がいるんだろ?」

「ああ、頭おかしいって。部活の先輩から聞いたことあるけど。怖くない?」

「……下らないこと言ってないで、掃除しろよ。この後バイトあるんだろ」

掃除の手を止めてこちらの心配をしてくる同級生に、呆れたような声を出し、出雲は気だるげな眼を向けた。

特別、不快感も怒りの色も浮かんでいない、普段と変わらない出雲の声音は、その場の空気を円滑に回す。

そうだったと、同級生達は掃除の手を速めた。

噂話など、初めからしていなかったかのように、場の雰囲気が霧散する。

同級生達から離れて、出雲は床の埃を箒で掃く。

──頭のおかしい。嘘つき。呪われる。

左雨の姿が思い浮かぶ。

椅子に座り独りで、本を読む姿。

虚空を、時に心配そうに、時に慈しむような、穏やかな目で眺める姿。

自分と話すときに、時々見せるようになった苦笑い。

浮かんだ瞬間、カツン、と。箒の柄が強く机に当たった。

「……」

早く掃除を終わらせて、部室に行きたい。

***

小さな部室の中、出雲は本を読み、左雨は何か物語を書いていた。

シャープペンシルの芯が、紙の上を滑る音だけが細かく響く。

だが、ぴたりと音が止まる。

「……何かあった?」

左雨が、本に目を落としたままの出雲を見つめる。

「……なんか、変すか。俺」

「うん……ページを捲る音が、あまり聞こえてこないから。それに、静かだし」

「俺は普段、煩いですか」

「いいや、君は静かな方だと思うけど……今日は、いつもより静か」

出雲は本を閉じて、左雨に視線を向けた。

出会った当初は噂の通り、無口で無愛想、何を考えているのかわからない先輩だった。

得体のしれない存在だと、出雲が感じていたのも事実だ。周囲の人間と変わらない。

「……嫌なことでも、あった?」

直接「大丈夫?」とは聞かなかったが、左雨の声には薄らと、心配の音が混じっていた。

「……先輩に対する、噂が」

「噂……ああ。それが、どうかした?」

"噂"と聞いて、思い当たるのだ。きっと、内容だって全て。

それなのに左雨は、不快感を示すでもなく、悲しむような態度を取るでもなく、日常会話の延長のような声を出す。

それが、苦味のように、出雲の中に落ちていく。

「怖いだの、呪われるだの…………下らないですね」

胸の裡から、何かがどろりと落ちる感覚がした。

左雨に対する返答というよりは、独り言を吐き出したに近い。

聞かされた方も困るだろうなと、頭ではわかっていたのに。

左雨が穏やかな目を向けてこちらを案じた瞬間に、湧き上がったのは周囲に対する不快感と怒り。

そんな出雲の様子を見て、左雨はきょとんした顔をした。

じわじわと、出雲の様子がおかしかった原因を理解して──くすくすと、左雨が笑いだす。

「……あはははっ、呪いね、呪いには詳しくないんだけど、ふふっ」

「なんすか、アンタ。こんな話で笑うって」

これほど笑っている左雨を、出雲は初めて見た。

気分の良い話題ではないはずなのに、何故笑うのだろうと納得がいかない。

「ごめん、君を笑ったんじゃなくてさ……なんだろう……多分、君が怒ってくれたから」

「……」

「……なんか、十分だなぁと思って。そう思ったら、笑えちゃって」

無理をしているようには思えない。どこか照れ臭そうな、嬉しそうな笑いだった。

この人は今まで、どんな想いで過ごしてきたのだろうと出雲は思う。

噂話を下らないと、本人の前で吐き出してしまった。

たったそれだけなのに、こんな風に笑うのだ。

「……先輩は」

本当は、それでいいのかと、辛くないのかと、聞きたかったのかもしれない。

だが、聞いた所でどうするというのか。

聞いた所で、自分には、出来ることが思いつかない。

仮に自分が、一人一人に、彼は悪い人間ではないのだと、嘘などついていないのだと、懸命に説明したとして。

噂の払拭も出来なければ、何か現状が変わる事はないだろう。むしろ悪い方向へと進んで行く気さえする。

そんな現実が予想できてしまう自分自身が、出雲は悔しかった。

結局は、会話の軌道を微妙に変えてしまうことしか、出来ないのだ。

「……呪いを知っていても、誰にも使わなさそうですね」

「どうして?」

「そう見えたんで」

「……やっぱり、君は変な人だね」

「変ですか?俺には、そう見えた。十分でしょう」

出雲の気だるげな眼が、左雨を捉えたまま、淡々と告げた。

これまでの関わりから、思った事、感じた事を率直に。

もっと、綺麗で、人の心に残る様な、温かな言葉を、彼に贈る事が出来れば良かったのかもしれない。

思いつくほど、器用ではなかった。

「…………君は」

左雨もまた、言葉を探していた。

「君は」の後に続ける言葉を、いくつか思いつく。つくのだが。

──優しい。気にするな。怒る必要がない。ありがとう。

どれも選べなかった。胸の裡に溜まる感情は、あまりにも散らかっていて。

言葉を探る代わりに、鞄のポケットを探った。

目当ての物を取り出して確認する。良かった、割れていない。

「……ねえ。これ、あげる」

手のひらサイズのビニール袋の中には、こんがりとした小麦色のクローバーが入っていた。

「四葉のクッキー?」

「多分、親戚の人がくれたんだと思うけど、家にあったから。……君にあげるよ」

「はあ、どうも……ありがとうございます」

左雨の意図が出雲には上手くつかめなかった。

これでも食べて、早く機嫌を直せと言われているのかもしれない。

「僕は……呪いよりは祝いの方が好きだよ」

「……そりゃあ、その方がいいでしょう。平和ですし」

「うん。君がそれを知っていてくれるだけで、いいよ」

「……」

出雲は複雑そうな表情を浮かべたまま、息をつき、クッキーの入ったビニールを破いた。

心優しい、変わり者の後輩がくれる言葉や態度。

──そのお礼に、クローバーの祝福をあげる。
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