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【第四十四争覇記録:于禁文則】

当時の私は、王朗の言葉を聞かなかった。
後にそれを後悔することになるが、自身の見た“悪夢”は、この『世界』への恐怖(トラウマ)としてこの肉体に刻まれているのだ。

──あんな恐ろしいものの中に、苦痛以外などあるものか。

疑心暗鬼にも似た精神が、冷徹な仮面の下で日に日に蝕んでいく。
王朗は、哀しげな眼で私を見つめていた。

■▫■▫■▫

私の“病”を汲み取ったのは、王朗だけではない。
『世界』の恐怖に心を閉ざした私の様態は曹操様に気に入られるには特に支障はなかったが、ある宴席の帰路 ──呂布軍討伐の頃だったか──私は、久方ぶりにあの悪夢を見た。
目眩にも似た気持ち悪い視界に映される走馬灯の嵐。私が体験しうる、絶望の人生譚。
血の気が失せて、吐きそうになるのを跪いて堪える私に、王朗が言う“大将軍に足る男”の威厳はない。
…暫くして、いつの間にか黒く塗りつぶされた視界の中に、見知った声が聴こえてきた。

目を覚ますと、蹲っていたからだは仰向けにされており、見知った顔が視界に広がる。
そして、私は驚愕に声を上げてしまった。

彼は、混濁した『記憶』の中で私が斬った男。
──昌豨(ショウキ)だ。

夢現に囚われた私は昌豨の霊が襲いにきたのだと這うように離れ、怯えた目をしたが、未だ身体は冷えきっていてそれ以上はうまく動けなかった。
その行動が余計に心配になったのだろう。昌豨の眉は目に見えて垂れ下がり、私の様態を気遣うような言葉を並べた。

「な、なんだよお…そんなに怖がらなくてもいいじゃねえか……。
まあ、確かにお前がこんなに弱ってるとこ見たのはオレが初めてかもな?大丈夫か?あんま無理すんなよ?」
「……昌豨………昌豨が……生きてる…」

当たり前だ。うわ言が零れた頃合で、体は感覚を取り戻し、意識が冷めてくる。
そういえば彼は臧覇の軍勢に加わって呂布軍と同盟関係にあった。それが開放され、公の厚遇を得て軍勢に加わったのではないか。
面目無い失言に、しばし目を瞑る。
昌豨はそんな私の姿に目を瞬かせ、そして、人懐こい笑みを浮かべた。

「なんだあ、悪い夢でも見たのか?ハハッ らしくねえなあ」
「……っ、寝言だ」
「心配しなくても、オレはそう簡単にやられる男じゃないぜ?安心しろよ」

その冗談じみた答えに、いちいち背筋が冷えた。

「……法を犯してでもか?」
「ははあ。相変わらず真面目な奴だぜ。戦に規律とか関係ねえだろ?」
「っ……敵側に、捕虜になったりしたら」
「そんなの、捕まらなければいい。捕まる前に相手の懐に入る。“オレ達”はそうやって生きてきたんだ。命あっての戦だからな。なあに、このオレの腕前を見て赦さない奴なんて、お前ぐらいだよ」

私は、不覚にも泣きそうになった。
彼は知らないのだ。

“私によって”、その武勇が終わることを。
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