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ハワード・リンクは困っていた。
丁寧に手順を踏まえて送り届けられたお茶会の招待状、エクソシストの一人である麻倉純からのそれには相談に乗ってほしいと記されていた。二月の初めの、凍えるような寒さの昼過ぎだった。
この時期の相談はリンクにとって珍しいことではない。少ないとはいえ確かに存在する浮いた話や、最近では義理だ友だとその幅が広がりつつあるお菓子作りの祭典と化したイベント。教団一の菓子作り名人であるルベリエに薫陶を受けた一番弟子ともあれば、レシピを教えてくれだの、味見をしてくれだの声をかけられるものだ。例年は仕事に障りのない程度に対応してきた。が、今回のようなパターンはさすがに想定していない。
最前線で死闘を繰り広げる立場のエクソシストの、それもカップルの惚気を聞く時間などない。と、言いたいところが断れない手順で招待状が届いてしまった。そも、エクソシストにそんな色恋沙汰をやっている余裕があるのかと問いたくなるが、その余裕こそが現状が善なる方向に向かっている証だとすれば強く咎められもしない。
よって、ハワード・リンクは呼び出された茶会の席に大人しく座らざるをえなかった。
用意された紅茶からは燻香が漂ってくる。リンクは純がカップに口をつけた返しに、持参したバノフィーパイを食んだ。それでようやく彼女もパイにフォークをいれる。初対面のときからそうであるように、彼女に染み付いた仕草らしい。
「…やっぱり、監査官殿の作るパイは絶品だわ」
「ありがとうございます」
うっとりしたような表情で純がパイを褒める。それに当然だとばかりに礼を返しリンクもカップに口をつけた。ともすれば癖の強すぎる燻香に苦めに仕上げたタフィーがよく合う。自惚れる出来栄えのパイにマリアージュする上等な紅茶、ここで終わってしまえれば実に有意義な、有難い茶会であったろうがそうは問屋が卸さない。
続けて紅茶に口をつけ、半ば仕事モードに入ったリンクが切り出した。
「それで、相談と言うのは?」
「…バレンタインの、お菓子のことなんだけど」
まったく予想通りである。目の前に座る彼女のことをある程度知っていなければ、いじらしいとか、可愛らしいとか思えてしまいそうな表情で紡がれた言葉は、他の相談者と同じく菓子作りについてだった。
「まず、ですが こういったご相談ならルベリエ長官にしてはいかがですか 私よりずっと知見を深くお持ちです ……それに、貴方ならご自身のレシピの一つや二つお持ちでしょう」
「まず、ルベリエ卿に相談するのは癪だわ」
「癪」
「そうよ、嫌味と余計なお節介が降り掛かってくるに決まってる」
「……」
さしものリンクとて否定は出来なかった。妙に生き生きとした様子で嫌がらせじみた世話を焼く長官の姿をありありと想像できる。それも長官の素晴らしい一面だと思うが、彼女にしてみれば厄介なことこの上ないのだろう。
純は続けてリンクに反論を行う。
「レシピもね、あるのよ ほら彼、甘いお菓子は好まないでしょ? だから、蕎麦の実入りのチーズクッキーをね」
紅茶とともに供された彼女が用意した菓子、小振りなバトン状のクッキーに純が口をつける。食べても良いという合図だと受け取って、リンクも手を伸ばした。
サクサクと小気味良い歯触り、焼かれたチーズの塩味が小麦本来の甘さを引き立てている。煎られた蕎麦の実は香ばしく風味の強いチーズと引き立て合い、食感も良いアクセントになっている。そして紅茶との相性ときたら、言うことが無いほどだった。
「これは…!良い、とても美味しいですね」
「…でしょう?元は胡桃入りのレシピだったのを、ちょっと試行錯誤してね」
「なるほどなるほど」
甘いものを好まず蕎麦好きのあの男のために趣向を凝らした一品だとリンクは理解する。そして思った。これ以上何を求めようと?
このクッキーは絶品だ。リンクもなんとかレシピを聞き出して、ルベリエ長官に振る舞いたいほどだ。
「これで良いのではないですか? ワインなんかに合いそうですし、一緒に…」
「そう、それが問題なのよ」
「ワインが、ですか」
「ワインが、ね」
「作ってるうちにね、ユウだけじゃなくて その、他の皆にも食べてもらいたいなって思っちゃって」
「はあ」
「ワインの、おつまみに良さそうな味でしょう? そう思うと、クロスの顔が浮かんじゃって」
「なるほど、浮気のようだと」
「浮気じゃないのよ!」
「存じております」
つまるところ、麻倉純の主張はこうだ。作ってる途中に他の男の顔が浮かぶような菓子でなく、彼の、神田ユウだけのことを思って作った菓子を作りたいと。リンクには砂糖じゃ利かないほどの甘い甘い惚気のように聞こえるが、彼女は至って真剣な様子で何を作るか迷っているらしい。
「…それで、私に相談したと」
「そういうわけ 私の持ち合わせているレシピってどれもこれも甘党好みのものばかりで… ねえ、彼でも食べてくれそうなチョコレート菓子のレシピ、ご存知じゃない?」
「……無いわけでは、ありませんが」
「チーズクッキーのレシピ、胡桃のやつも一緒に、試行錯誤中のメモ書きもつけて渡すわ 交換でいかがかしら」
そしてリンクは頷いた。レシピの交換の手筈を整えながら二杯目を注がれたカップに手を付ける。バノフィーパイの甘みと、クッキーの塩味を交互に楽しみながら、その後は穏やかな茶会であった。
・・・
いざ来たる二月十四日の夜、神田ユウは純の部屋に呼び出されていた。と、言うより先に部屋で待っておけと指示を受けていた。
いくら神田でも今日のこの日に彼女の部屋に招かれる意味は重々理解している。妙に教団の空気が浮ついているのもそのためだろう。つい昨年まではその浮つき具合と内容により興味がないと突っぱねていた行事ではあるが、今年は僅かながらに期待してしまっていた。惜しむらくは彼女が任務に出かけていることだが、もうじき帰ると連絡が入っている。
合鍵で純の部屋を開けて暖房をつける。彼女お手製の魔道具らしいそれは一見するとランプに見えた。本来バーナーのあるべき場所に魔石をはめ、カサを戻すと俄に部屋が暖まりだす。いつ見ても理解不能の原理で動くそれを定位置に吊り下げて、彼も自らの定位置、ソファの中央に座り込んだ。
机の上に小箱が置いてある。シガレットケースを模したそれの中身は既に知っていた。純が任務に出かける前に教団の面々に配り歩いていた、いわゆる義理チョコとかいう代物だ。彼女の友人である女連中や、兄やら師匠やらのついででかなり多くの男共に配られていたらしいが、それに嫉妬するほど愛に飢えている神田ではない。彼女から貰えたことに酷く舞い上がっていた一部の連中の顔を覚えて、一睨みしておくに留めておいた。今のところは。
ソファに腰を落ち着けて半刻もしないうちにドアノブが回された。
「ただいま、ユウ 待った?」
「いや、たいして待ってねえ 怪我は」
「ありません」
よほど寒かったのか鼻と耳の先を赤く染めた純が帰ってきた。いつも通りの安否確認もそこそこに、彼女はコートを脱いでハンガーに吊るす。
「…寒かったのか」
「かなりね、外で結構待たされちゃって」
「風呂行ってこいよ、風邪引かれても面倒だ」
「ユウは?」
「済ませてきた」
純を大浴場へ送り出し、また帰りを待つ間に神田はこの後のことを考える。バレンタインにこれと言って理想を抱いていたわけではない。そもそもこの行事の定番とも言える甘味が得意ではないのだ。かといって恋仲となった純から何もアクションがなければ妙にムカつくだろうなと、その程度の期待はしていた。
俺は彼女から何を貰えるのだろうか。特段何が欲しいわけでもない。ただ、何かが欲しかった。そう考えて出来た空虚を彼女に埋めさせたかった、埋めて欲しいと思った。酷く醜悪なエゴを押し付けようとしているのは解っているが、それが許される関係であると甘えていた。
「ぽかぽかだわ」
「…おかえり、こっち来い」
「ん」
半乾きの髪で帰ってきた純を隣に座らせてタオルで髪を乾かしてやる。こうして彼女の世話を焼くのも慣れたものだ。こうする度にタオルに包まれた頭が酷く小さく、脆いように思えた。加減を間違えば砕け散りそうな壊れ物のようだった。そう思うぶん指に込める力を弱めて手を動かしているのに、それでも彼女は乱暴だと文句を言ってくる。仕返しにガシガシとタオルを動かして、それこそ乱暴に拭い終いに頭を軽く叩けば満足そうに唇を尖らせるのだ。どうしてこれでご機嫌この上なくなるのかなど、神田にはさっぱり理解できない。ただ、恋人の機嫌が良いならそれでいいと穏やかでほの甘い空気を甘受していた。
「晩酌をしたいのだけど、付き合って?」
仕上げにと温風で髪を乾かしきった純が小首を傾げて神田に尋ねる。今一度ねだらなくとも今夜の神田は彼女に付き合う気しかないのだが、こうして甘えるように見つめられると愛おしくてしょうがない。期待が高まり喉が鳴るのを誤魔化すように肯定を返した。
ちょっと待っててね、と彼女がソファを立って簡易的な流しに向かう。硝子棚から揃いのグラスと小麦色のスピリッツ、ブルーのリボンで綴じられた小箱を盆に載せて戻ってきた。
「飲み方は?」
「…いつもの、少しだけ水をいれるやつ」
用意されたウイスキーは以前神田が香りが好きだと言ったものだ。随分前に一緒に空にした覚えがあるから、今日のために新たに仕入れたらしい。グラスに注がれたウイスキーと同量の水が混ぜられる。それだけで喉を焼くスピリッツの強さが和らいで、口当たりが柔らかく香りが開くように感じられるのだ。
神田としては酒の飲み方如何はどうでもいいものだった。前に香りが好きだと言った時に純がこの飲み方を勧めてきて、それ以来彼女と飲むときはこう飲むのが定番になっている。同じものを、同じ飲み方で飲めるというのも大きな要因だった。
二つのグラスに酒を満たして、純が隣に座る神田へ膝を向けた。どちらからともなくグラスを交わし一口飲み下す。花とカラメルの香りが鼻腔をくすぐる。飲み口は香りから想像されるほど甘くはない。甘やかな空気だけを残して喉を滑り落ち、その余韻が長く続いた。
一息ついて純が小箱を手にする。リボンを整えるように撫でてそれを神田に差し出した。
「…ユウ、バレンタインのチョコレートなんだけど 受け取ってくれる?」
「受け取らない選択肢があんのかよ」
いつもの調子で皮肉を言いながら神田はその小箱を受け取った。するりとリボンを解いて箱を開けると、オーバル型のチョコレートが八つ几帳面に並べられている。
さて、神田は甘いものが得意ではない。チョコレートだって自ら進んで食べるようなことは今までも、今後も絶対無いと言える。だがこれは、目の前の深い青に彩られたチョコは別だった。愛し君が手ずから作ったものなのだ。厭う筈などあろうものか。舌に合わないと予想がついても、口にするのが甲斐性というものだ。
なんてことを考えながら、出来栄えの良い青の粒を眺め甘味への忌避感を顔に滲ますまいと覚悟を決めているうちに、純が口を開いた。
「あのね、これは言い訳…みたいなものなのだけれど」
まずい。食べるのを嫌がっているわけではないのだが、いつまでも手にしないのでは勘違いされるのも宜なるかな。と、そんな神田の微妙な焦りを他所に彼女は言葉を続けた。
「最初は甘くない、蕎麦とチーズのクッキーを作ろうと思っていたの お酒にも合うだろうから一緒に晩酌出来たら良いなって」
「…それか」
純の目線は机に置かれたままのシガレットケースじみた箱に注がれていた。どうもその中身が彼女の言うクッキーらしい。
「作っているうちに、クロスや兄さんにも食べて貰いたくなっちゃって… ユウの為に作り始めたはずなのに」
「ああ」
「…なんだかね、それがとっても貴方に不誠実な気がしてしまって」
「……そうなのか?」
「私の気分の問題なのだわ …それで、エゴだと解っているのだけど、チョコレートも渡したくなった、と、言うわけです」
純は謝意を滲ませながら言葉を紡ぐが、神田にはその必要性が全くもって理解できなかった。そもこの行事がエゴイズムの押し付け合いに過ぎないことは前提として、それでも彼女から何かが欲しいと希った自分のそれと同等以上のそれが向けられている事実が、彼女に甘えられているという事実がゾクゾクするほど神田を満たしていた。
「は、馬鹿なやつ」
神田がチョコレートを一粒つまみ上げて鼻で笑う。
「ば、馬鹿ではないわ!」
「お前が俺に作ったんなら、それで構わない」
それに、そんだけ考えてんなら下手なもんは寄越さねえだろ。と、皮肉も忘れずにくっつけて神田はチョコに齧りついた。パキリと苦みの強い外衣が割れて、口内にトロリとした甘い液が流れてくる。ほのかに酸味をもつそれは、ウイスキーに似た花の香りがする蜂蜜の味がする。
神田は蜜を零さないように飲み込んで、様子を伺っていた純に口付けた。未だ彼女の口に残るウイスキーの余韻が流れ込んでくる。カカオの苦みと、蜂蜜の甘酸っぱさと花の香は悪くない組み合わせだと思えた。
「…甘いな」
純から口を離しグラスを煽れば、彼女に似合う花の香をまとった辛口の酒が口に残る甘さを洗い流す。蕩けそうな余韻は単体で飲み下したときには存在し得なかったもので。彼女の狙いがこれであったことは明白だった。
「……どう、だった?」
彼の悪戯の衝撃からようやく戻ってきた彼女が問いかける。
「合う ほら」
また一つチョコをつまみ上げた神田の指が、純の口へ運ばれる。唇で受け取って飲み込めば、その瞳がうっとりと細められた。何も言わないままにグラスを手にして口をつけた時の、その幸せそうなことといったら。花が咲くようだとは正しくこれと言わんばかり。
「我ながらいい出来だわ」
「中に入ってんのは蜂蜜か?」
「林檎のね 甘さが控えめで、酸味もあって、何よりこのウイスキーに合うでしょう?」
「似たような匂いだ」
「解ってるじゃない そうだ、クッキーも食べて?」
開けられたシガレットケースの中にはレース紙に包まれた棒状のクッキーが収められていた。神田は一つ摘んで齧り付く。塩味の効いた歯ざわりの良い生地に、蕎麦の香りがした。
「……こっちのが好きだ」
「でしょうね」
神田が思ったことをそのまま口に出せば、知っていたと純が笑う。ソファの上で身を寄せ合い酒を酌み交わす穏やかな時間は、神田が再びチョコレートを口にしてその甘さを二人で共有するに至るまで続いたという。
番外編「お菓子を巡るエゴイズム」 おしまい
(長官、麻倉嬢からこちらが届いています)
(…彼女から贈り物とは、珍しいこともあったものですな)
某日、某所の出来事である。ハワード・リンクは純からレシピとともに受け取った小包をルベリエ長官に差し出していた。
(バレンタインの試作品だそうです)
(ほほう、クッキーですか ですが何故私に?)
(私を介して知恵を拝借した礼だと)
あれだけ癪だなんだと悪態をついていたのに義理堅いものだとリンクは思う。これもいわゆる義理チョコ(チョコではないが)の一環とも言えよう。
(では、ありがたくいただこう)
(紅茶の準備をしてきます)
部屋を後にするリンクの背を見送って、ルベリエは小包に同封されたメッセージカードを開いた。定型文の感謝と持って回った小言と共に添えられていたのは、長官が聞き出したくて止まなくなるであろうレシピが既に監視官に伝えられているという事実であった。
丁寧に手順を踏まえて送り届けられたお茶会の招待状、エクソシストの一人である麻倉純からのそれには相談に乗ってほしいと記されていた。二月の初めの、凍えるような寒さの昼過ぎだった。
この時期の相談はリンクにとって珍しいことではない。少ないとはいえ確かに存在する浮いた話や、最近では義理だ友だとその幅が広がりつつあるお菓子作りの祭典と化したイベント。教団一の菓子作り名人であるルベリエに薫陶を受けた一番弟子ともあれば、レシピを教えてくれだの、味見をしてくれだの声をかけられるものだ。例年は仕事に障りのない程度に対応してきた。が、今回のようなパターンはさすがに想定していない。
最前線で死闘を繰り広げる立場のエクソシストの、それもカップルの惚気を聞く時間などない。と、言いたいところが断れない手順で招待状が届いてしまった。そも、エクソシストにそんな色恋沙汰をやっている余裕があるのかと問いたくなるが、その余裕こそが現状が善なる方向に向かっている証だとすれば強く咎められもしない。
よって、ハワード・リンクは呼び出された茶会の席に大人しく座らざるをえなかった。
用意された紅茶からは燻香が漂ってくる。リンクは純がカップに口をつけた返しに、持参したバノフィーパイを食んだ。それでようやく彼女もパイにフォークをいれる。初対面のときからそうであるように、彼女に染み付いた仕草らしい。
「…やっぱり、監査官殿の作るパイは絶品だわ」
「ありがとうございます」
うっとりしたような表情で純がパイを褒める。それに当然だとばかりに礼を返しリンクもカップに口をつけた。ともすれば癖の強すぎる燻香に苦めに仕上げたタフィーがよく合う。自惚れる出来栄えのパイにマリアージュする上等な紅茶、ここで終わってしまえれば実に有意義な、有難い茶会であったろうがそうは問屋が卸さない。
続けて紅茶に口をつけ、半ば仕事モードに入ったリンクが切り出した。
「それで、相談と言うのは?」
「…バレンタインの、お菓子のことなんだけど」
まったく予想通りである。目の前に座る彼女のことをある程度知っていなければ、いじらしいとか、可愛らしいとか思えてしまいそうな表情で紡がれた言葉は、他の相談者と同じく菓子作りについてだった。
「まず、ですが こういったご相談ならルベリエ長官にしてはいかがですか 私よりずっと知見を深くお持ちです ……それに、貴方ならご自身のレシピの一つや二つお持ちでしょう」
「まず、ルベリエ卿に相談するのは癪だわ」
「癪」
「そうよ、嫌味と余計なお節介が降り掛かってくるに決まってる」
「……」
さしものリンクとて否定は出来なかった。妙に生き生きとした様子で嫌がらせじみた世話を焼く長官の姿をありありと想像できる。それも長官の素晴らしい一面だと思うが、彼女にしてみれば厄介なことこの上ないのだろう。
純は続けてリンクに反論を行う。
「レシピもね、あるのよ ほら彼、甘いお菓子は好まないでしょ? だから、蕎麦の実入りのチーズクッキーをね」
紅茶とともに供された彼女が用意した菓子、小振りなバトン状のクッキーに純が口をつける。食べても良いという合図だと受け取って、リンクも手を伸ばした。
サクサクと小気味良い歯触り、焼かれたチーズの塩味が小麦本来の甘さを引き立てている。煎られた蕎麦の実は香ばしく風味の強いチーズと引き立て合い、食感も良いアクセントになっている。そして紅茶との相性ときたら、言うことが無いほどだった。
「これは…!良い、とても美味しいですね」
「…でしょう?元は胡桃入りのレシピだったのを、ちょっと試行錯誤してね」
「なるほどなるほど」
甘いものを好まず蕎麦好きのあの男のために趣向を凝らした一品だとリンクは理解する。そして思った。これ以上何を求めようと?
このクッキーは絶品だ。リンクもなんとかレシピを聞き出して、ルベリエ長官に振る舞いたいほどだ。
「これで良いのではないですか? ワインなんかに合いそうですし、一緒に…」
「そう、それが問題なのよ」
「ワインが、ですか」
「ワインが、ね」
「作ってるうちにね、ユウだけじゃなくて その、他の皆にも食べてもらいたいなって思っちゃって」
「はあ」
「ワインの、おつまみに良さそうな味でしょう? そう思うと、クロスの顔が浮かんじゃって」
「なるほど、浮気のようだと」
「浮気じゃないのよ!」
「存じております」
つまるところ、麻倉純の主張はこうだ。作ってる途中に他の男の顔が浮かぶような菓子でなく、彼の、神田ユウだけのことを思って作った菓子を作りたいと。リンクには砂糖じゃ利かないほどの甘い甘い惚気のように聞こえるが、彼女は至って真剣な様子で何を作るか迷っているらしい。
「…それで、私に相談したと」
「そういうわけ 私の持ち合わせているレシピってどれもこれも甘党好みのものばかりで… ねえ、彼でも食べてくれそうなチョコレート菓子のレシピ、ご存知じゃない?」
「……無いわけでは、ありませんが」
「チーズクッキーのレシピ、胡桃のやつも一緒に、試行錯誤中のメモ書きもつけて渡すわ 交換でいかがかしら」
そしてリンクは頷いた。レシピの交換の手筈を整えながら二杯目を注がれたカップに手を付ける。バノフィーパイの甘みと、クッキーの塩味を交互に楽しみながら、その後は穏やかな茶会であった。
・・・
いざ来たる二月十四日の夜、神田ユウは純の部屋に呼び出されていた。と、言うより先に部屋で待っておけと指示を受けていた。
いくら神田でも今日のこの日に彼女の部屋に招かれる意味は重々理解している。妙に教団の空気が浮ついているのもそのためだろう。つい昨年まではその浮つき具合と内容により興味がないと突っぱねていた行事ではあるが、今年は僅かながらに期待してしまっていた。惜しむらくは彼女が任務に出かけていることだが、もうじき帰ると連絡が入っている。
合鍵で純の部屋を開けて暖房をつける。彼女お手製の魔道具らしいそれは一見するとランプに見えた。本来バーナーのあるべき場所に魔石をはめ、カサを戻すと俄に部屋が暖まりだす。いつ見ても理解不能の原理で動くそれを定位置に吊り下げて、彼も自らの定位置、ソファの中央に座り込んだ。
机の上に小箱が置いてある。シガレットケースを模したそれの中身は既に知っていた。純が任務に出かける前に教団の面々に配り歩いていた、いわゆる義理チョコとかいう代物だ。彼女の友人である女連中や、兄やら師匠やらのついででかなり多くの男共に配られていたらしいが、それに嫉妬するほど愛に飢えている神田ではない。彼女から貰えたことに酷く舞い上がっていた一部の連中の顔を覚えて、一睨みしておくに留めておいた。今のところは。
ソファに腰を落ち着けて半刻もしないうちにドアノブが回された。
「ただいま、ユウ 待った?」
「いや、たいして待ってねえ 怪我は」
「ありません」
よほど寒かったのか鼻と耳の先を赤く染めた純が帰ってきた。いつも通りの安否確認もそこそこに、彼女はコートを脱いでハンガーに吊るす。
「…寒かったのか」
「かなりね、外で結構待たされちゃって」
「風呂行ってこいよ、風邪引かれても面倒だ」
「ユウは?」
「済ませてきた」
純を大浴場へ送り出し、また帰りを待つ間に神田はこの後のことを考える。バレンタインにこれと言って理想を抱いていたわけではない。そもそもこの行事の定番とも言える甘味が得意ではないのだ。かといって恋仲となった純から何もアクションがなければ妙にムカつくだろうなと、その程度の期待はしていた。
俺は彼女から何を貰えるのだろうか。特段何が欲しいわけでもない。ただ、何かが欲しかった。そう考えて出来た空虚を彼女に埋めさせたかった、埋めて欲しいと思った。酷く醜悪なエゴを押し付けようとしているのは解っているが、それが許される関係であると甘えていた。
「ぽかぽかだわ」
「…おかえり、こっち来い」
「ん」
半乾きの髪で帰ってきた純を隣に座らせてタオルで髪を乾かしてやる。こうして彼女の世話を焼くのも慣れたものだ。こうする度にタオルに包まれた頭が酷く小さく、脆いように思えた。加減を間違えば砕け散りそうな壊れ物のようだった。そう思うぶん指に込める力を弱めて手を動かしているのに、それでも彼女は乱暴だと文句を言ってくる。仕返しにガシガシとタオルを動かして、それこそ乱暴に拭い終いに頭を軽く叩けば満足そうに唇を尖らせるのだ。どうしてこれでご機嫌この上なくなるのかなど、神田にはさっぱり理解できない。ただ、恋人の機嫌が良いならそれでいいと穏やかでほの甘い空気を甘受していた。
「晩酌をしたいのだけど、付き合って?」
仕上げにと温風で髪を乾かしきった純が小首を傾げて神田に尋ねる。今一度ねだらなくとも今夜の神田は彼女に付き合う気しかないのだが、こうして甘えるように見つめられると愛おしくてしょうがない。期待が高まり喉が鳴るのを誤魔化すように肯定を返した。
ちょっと待っててね、と彼女がソファを立って簡易的な流しに向かう。硝子棚から揃いのグラスと小麦色のスピリッツ、ブルーのリボンで綴じられた小箱を盆に載せて戻ってきた。
「飲み方は?」
「…いつもの、少しだけ水をいれるやつ」
用意されたウイスキーは以前神田が香りが好きだと言ったものだ。随分前に一緒に空にした覚えがあるから、今日のために新たに仕入れたらしい。グラスに注がれたウイスキーと同量の水が混ぜられる。それだけで喉を焼くスピリッツの強さが和らいで、口当たりが柔らかく香りが開くように感じられるのだ。
神田としては酒の飲み方如何はどうでもいいものだった。前に香りが好きだと言った時に純がこの飲み方を勧めてきて、それ以来彼女と飲むときはこう飲むのが定番になっている。同じものを、同じ飲み方で飲めるというのも大きな要因だった。
二つのグラスに酒を満たして、純が隣に座る神田へ膝を向けた。どちらからともなくグラスを交わし一口飲み下す。花とカラメルの香りが鼻腔をくすぐる。飲み口は香りから想像されるほど甘くはない。甘やかな空気だけを残して喉を滑り落ち、その余韻が長く続いた。
一息ついて純が小箱を手にする。リボンを整えるように撫でてそれを神田に差し出した。
「…ユウ、バレンタインのチョコレートなんだけど 受け取ってくれる?」
「受け取らない選択肢があんのかよ」
いつもの調子で皮肉を言いながら神田はその小箱を受け取った。するりとリボンを解いて箱を開けると、オーバル型のチョコレートが八つ几帳面に並べられている。
さて、神田は甘いものが得意ではない。チョコレートだって自ら進んで食べるようなことは今までも、今後も絶対無いと言える。だがこれは、目の前の深い青に彩られたチョコは別だった。愛し君が手ずから作ったものなのだ。厭う筈などあろうものか。舌に合わないと予想がついても、口にするのが甲斐性というものだ。
なんてことを考えながら、出来栄えの良い青の粒を眺め甘味への忌避感を顔に滲ますまいと覚悟を決めているうちに、純が口を開いた。
「あのね、これは言い訳…みたいなものなのだけれど」
まずい。食べるのを嫌がっているわけではないのだが、いつまでも手にしないのでは勘違いされるのも宜なるかな。と、そんな神田の微妙な焦りを他所に彼女は言葉を続けた。
「最初は甘くない、蕎麦とチーズのクッキーを作ろうと思っていたの お酒にも合うだろうから一緒に晩酌出来たら良いなって」
「…それか」
純の目線は机に置かれたままのシガレットケースじみた箱に注がれていた。どうもその中身が彼女の言うクッキーらしい。
「作っているうちに、クロスや兄さんにも食べて貰いたくなっちゃって… ユウの為に作り始めたはずなのに」
「ああ」
「…なんだかね、それがとっても貴方に不誠実な気がしてしまって」
「……そうなのか?」
「私の気分の問題なのだわ …それで、エゴだと解っているのだけど、チョコレートも渡したくなった、と、言うわけです」
純は謝意を滲ませながら言葉を紡ぐが、神田にはその必要性が全くもって理解できなかった。そもこの行事がエゴイズムの押し付け合いに過ぎないことは前提として、それでも彼女から何かが欲しいと希った自分のそれと同等以上のそれが向けられている事実が、彼女に甘えられているという事実がゾクゾクするほど神田を満たしていた。
「は、馬鹿なやつ」
神田がチョコレートを一粒つまみ上げて鼻で笑う。
「ば、馬鹿ではないわ!」
「お前が俺に作ったんなら、それで構わない」
それに、そんだけ考えてんなら下手なもんは寄越さねえだろ。と、皮肉も忘れずにくっつけて神田はチョコに齧りついた。パキリと苦みの強い外衣が割れて、口内にトロリとした甘い液が流れてくる。ほのかに酸味をもつそれは、ウイスキーに似た花の香りがする蜂蜜の味がする。
神田は蜜を零さないように飲み込んで、様子を伺っていた純に口付けた。未だ彼女の口に残るウイスキーの余韻が流れ込んでくる。カカオの苦みと、蜂蜜の甘酸っぱさと花の香は悪くない組み合わせだと思えた。
「…甘いな」
純から口を離しグラスを煽れば、彼女に似合う花の香をまとった辛口の酒が口に残る甘さを洗い流す。蕩けそうな余韻は単体で飲み下したときには存在し得なかったもので。彼女の狙いがこれであったことは明白だった。
「……どう、だった?」
彼の悪戯の衝撃からようやく戻ってきた彼女が問いかける。
「合う ほら」
また一つチョコをつまみ上げた神田の指が、純の口へ運ばれる。唇で受け取って飲み込めば、その瞳がうっとりと細められた。何も言わないままにグラスを手にして口をつけた時の、その幸せそうなことといったら。花が咲くようだとは正しくこれと言わんばかり。
「我ながらいい出来だわ」
「中に入ってんのは蜂蜜か?」
「林檎のね 甘さが控えめで、酸味もあって、何よりこのウイスキーに合うでしょう?」
「似たような匂いだ」
「解ってるじゃない そうだ、クッキーも食べて?」
開けられたシガレットケースの中にはレース紙に包まれた棒状のクッキーが収められていた。神田は一つ摘んで齧り付く。塩味の効いた歯ざわりの良い生地に、蕎麦の香りがした。
「……こっちのが好きだ」
「でしょうね」
神田が思ったことをそのまま口に出せば、知っていたと純が笑う。ソファの上で身を寄せ合い酒を酌み交わす穏やかな時間は、神田が再びチョコレートを口にしてその甘さを二人で共有するに至るまで続いたという。
番外編「お菓子を巡るエゴイズム」 おしまい
(長官、麻倉嬢からこちらが届いています)
(…彼女から贈り物とは、珍しいこともあったものですな)
某日、某所の出来事である。ハワード・リンクは純からレシピとともに受け取った小包をルベリエ長官に差し出していた。
(バレンタインの試作品だそうです)
(ほほう、クッキーですか ですが何故私に?)
(私を介して知恵を拝借した礼だと)
あれだけ癪だなんだと悪態をついていたのに義理堅いものだとリンクは思う。これもいわゆる義理チョコ(チョコではないが)の一環とも言えよう。
(では、ありがたくいただこう)
(紅茶の準備をしてきます)
部屋を後にするリンクの背を見送って、ルベリエは小包に同封されたメッセージカードを開いた。定型文の感謝と持って回った小言と共に添えられていたのは、長官が聞き出したくて止まなくなるであろうレシピが既に監視官に伝えられているという事実であった。
