長編と同じ夢主を想定しています
【おすすめ】短編集
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冷たい人の香りがした。
薄暗い石造りの廊下をすれ違った黒の長髪、ともすれば少女に見紛いそうなほどの美形は教団の誇るエクソシスト様だった。名前を神田ユウというまだ二十歳にも満たない少年で、周りからは畏敬を込めた眼差しを向けられていた。その類まれなる強さと、冷酷さのために。
強いことは良いことだ。この組織で命の価値が一等高い方々が強くあらせられることは何事にも代えがたい僥倖だ。そのために我々があり、彼らのために命を散らしていくものがいる。仕方がないといえば残酷だが、それが黒の教団でのどうしようもない摂理だ。
だとしても彼の態度はあまりに冷酷がすぎた。散っていった探索部隊の死を悼みもせず素知らぬ顔で鍛錬に向かい、悲しみに暮れる声を耳障りだと言ってのける。情に欠けた造形のいいだけの人形だなんて、良く言った罵り文句だと思う。
彼からこの香りがするのは稀だ。任務のため団服を着ているときはまずしない。鍛錬着のときも同上。完全なる休日に、気まぐれのように甘い香りを纏っていることがあるだけ。ひやりとした冬の朝を思わせる清かな花にムスクの混じった男物の香水。私の脳内にはこの香りと少年の姿が結びついて刻まれてしまった。いつ何時でも仏頂面の彼が。対戦相手を罵りながら伸していく彼が。訃報を聞き流す彼が。人の涙を無視した彼が。すべてが結びついて、冷たい人の香りになった。
気まぐれに香りが漂ってくる度に自分の甘さを叱責されているような気持ちになった。彼のように受け流して素知らぬフリをすれば良いのに、態々自ら傷つきに行ってる馬鹿野郎だと罵られた気分だった。当然だがかのエクソシスト様は私のような木っ端の事務員の事など認識すらしていないだろう。だからこれは、彼に幻想を抱いているだけの話だ。だのに私は勝手に怯えて、あろうことか万年筆を落としたことにすら気が付かなかったらしい。
手に馴染んでいない道具は使いにくいったらありゃしない。書き心地が違うだけで書類の進みが二割五分は遅くなっている。同僚には探しに行けと提案されたが、どこで落としたのか検討も付かないのだ。それならば出の悪いペン先に苛立っていたほうがマシだろう。捜索ならば業務を終えた後でと分厚いファイルを持ち上げた時、窓口に黒のポニーテールが見えた。ゾッとするほど美しい人形のような造形で眉間に皺を寄せている。ノックもなしに小窓が開けられ、冷たい人の香りがした。
「おい、万年筆 …テメエのだろ!」
最初は私に声をかけたのだと気付かなかった。声を荒げた少年の睨みつける先に私がいて、そこでようやく事態を把握した。怖気のようななにかに突き動かされ窓口へと駆け寄る。
「す、すいません お手を煩わせてしまって… ありがとうございます!」
「テメエので間違いねえんだな」
「はい、よかった… どこで落としたのかわからなくって」
「……廊下ですれ違ったときにビクついて落としてたぜ」
「えっ、 あ それは、大変な失礼を…」
「全くだ 毎度のように怯えやがって」
見透かされていた。いや、それ以前に覚えられていた?しかも不愉快だろうに態々万年筆まで届けるというのか?あの冷血と名高いこの少年が?
混乱で返す言葉が見当たらない私を置いて、彼は舌打ちとともに去っていった。揺れる髪から甘い香りを零して。
彼から甘い香りがすると知ったのはいつだったか。
教団に職を得て間もない頃、廊下の窓から中庭を見下ろす美少年を見た。ハイティーンに足を踏み入れたくらいの何も定まりきらないような年頃の少年だった。窓の先、庭の花を眺めるその眼差しにドキリとした。憂いとも、憧憬ともとれる瞳の色をしていた。愚かしくも見蕩れてしまった私を横目に彼が去っていった時、この甘い香りがしたのだ。
それから彼の名前と逸話を知って、甘い香りは冷たい香りに塗り替わった。それでもこの香りがする度に胸が締め付けられ、あの日の横顔を思い出す。少年と言うにはあまりに大人びた切なげに愛しいものを見つめるような眼差しを、あの瞬間の凪いだ表情を忘れられずにいる。
だから、これは冷たい人の香りでいいのだ。彼の目線の先にいる誰かにこんな木っ端の恋はかなわない。今日のことだって、香水と同じく彼の気まぐれに過ぎないのだろう。甘く優しい香りなんて幻想に留めておけばいい。
返してもらった万年筆はよく手に馴染む。いつも以上に書き心地の良いペン先は二割増しで仕事を早く進めてくれていた。我ながら単純だ。冷たい人の気まぐれでこうも心が揺さぶられている。もし彼に本当に叱責されでもしたら息が止まってしまうのでは無いかと思えるほどだ。せめて現実にならないように、もう二度と彼に物を届けさせないよう、毎度のごとく彼の顔に心臓を跳ねさせないように気をつけなくてはならない。たとえその全てが怯えによるものでなかったとしても。
薄暗い石造りの廊下をすれ違った黒の長髪、ともすれば少女に見紛いそうなほどの美形は教団の誇るエクソシスト様だった。名前を神田ユウというまだ二十歳にも満たない少年で、周りからは畏敬を込めた眼差しを向けられていた。その類まれなる強さと、冷酷さのために。
強いことは良いことだ。この組織で命の価値が一等高い方々が強くあらせられることは何事にも代えがたい僥倖だ。そのために我々があり、彼らのために命を散らしていくものがいる。仕方がないといえば残酷だが、それが黒の教団でのどうしようもない摂理だ。
だとしても彼の態度はあまりに冷酷がすぎた。散っていった探索部隊の死を悼みもせず素知らぬ顔で鍛錬に向かい、悲しみに暮れる声を耳障りだと言ってのける。情に欠けた造形のいいだけの人形だなんて、良く言った罵り文句だと思う。
彼からこの香りがするのは稀だ。任務のため団服を着ているときはまずしない。鍛錬着のときも同上。完全なる休日に、気まぐれのように甘い香りを纏っていることがあるだけ。ひやりとした冬の朝を思わせる清かな花にムスクの混じった男物の香水。私の脳内にはこの香りと少年の姿が結びついて刻まれてしまった。いつ何時でも仏頂面の彼が。対戦相手を罵りながら伸していく彼が。訃報を聞き流す彼が。人の涙を無視した彼が。すべてが結びついて、冷たい人の香りになった。
気まぐれに香りが漂ってくる度に自分の甘さを叱責されているような気持ちになった。彼のように受け流して素知らぬフリをすれば良いのに、態々自ら傷つきに行ってる馬鹿野郎だと罵られた気分だった。当然だがかのエクソシスト様は私のような木っ端の事務員の事など認識すらしていないだろう。だからこれは、彼に幻想を抱いているだけの話だ。だのに私は勝手に怯えて、あろうことか万年筆を落としたことにすら気が付かなかったらしい。
手に馴染んでいない道具は使いにくいったらありゃしない。書き心地が違うだけで書類の進みが二割五分は遅くなっている。同僚には探しに行けと提案されたが、どこで落としたのか検討も付かないのだ。それならば出の悪いペン先に苛立っていたほうがマシだろう。捜索ならば業務を終えた後でと分厚いファイルを持ち上げた時、窓口に黒のポニーテールが見えた。ゾッとするほど美しい人形のような造形で眉間に皺を寄せている。ノックもなしに小窓が開けられ、冷たい人の香りがした。
「おい、万年筆 …テメエのだろ!」
最初は私に声をかけたのだと気付かなかった。声を荒げた少年の睨みつける先に私がいて、そこでようやく事態を把握した。怖気のようななにかに突き動かされ窓口へと駆け寄る。
「す、すいません お手を煩わせてしまって… ありがとうございます!」
「テメエので間違いねえんだな」
「はい、よかった… どこで落としたのかわからなくって」
「……廊下ですれ違ったときにビクついて落としてたぜ」
「えっ、 あ それは、大変な失礼を…」
「全くだ 毎度のように怯えやがって」
見透かされていた。いや、それ以前に覚えられていた?しかも不愉快だろうに態々万年筆まで届けるというのか?あの冷血と名高いこの少年が?
混乱で返す言葉が見当たらない私を置いて、彼は舌打ちとともに去っていった。揺れる髪から甘い香りを零して。
彼から甘い香りがすると知ったのはいつだったか。
教団に職を得て間もない頃、廊下の窓から中庭を見下ろす美少年を見た。ハイティーンに足を踏み入れたくらいの何も定まりきらないような年頃の少年だった。窓の先、庭の花を眺めるその眼差しにドキリとした。憂いとも、憧憬ともとれる瞳の色をしていた。愚かしくも見蕩れてしまった私を横目に彼が去っていった時、この甘い香りがしたのだ。
それから彼の名前と逸話を知って、甘い香りは冷たい香りに塗り替わった。それでもこの香りがする度に胸が締め付けられ、あの日の横顔を思い出す。少年と言うにはあまりに大人びた切なげに愛しいものを見つめるような眼差しを、あの瞬間の凪いだ表情を忘れられずにいる。
だから、これは冷たい人の香りでいいのだ。彼の目線の先にいる誰かにこんな木っ端の恋はかなわない。今日のことだって、香水と同じく彼の気まぐれに過ぎないのだろう。甘く優しい香りなんて幻想に留めておけばいい。
返してもらった万年筆はよく手に馴染む。いつも以上に書き心地の良いペン先は二割増しで仕事を早く進めてくれていた。我ながら単純だ。冷たい人の気まぐれでこうも心が揺さぶられている。もし彼に本当に叱責されでもしたら息が止まってしまうのでは無いかと思えるほどだ。せめて現実にならないように、もう二度と彼に物を届けさせないよう、毎度のごとく彼の顔に心臓を跳ねさせないように気をつけなくてはならない。たとえその全てが怯えによるものでなかったとしても。