純白の桜
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
俺は桜が怖い。
だが、今年も目黒川の桜は美しかった。
ほとんど白に近い淡い桃色は、その柔らかい花弁をほころばせたそばから風に吹かれて散っていく。春の幻のようなほんの刹那のその栄華は、毎年俺を不安にさせる。
桜は、あまりにも切ない。散りゆく運命だと分かっていながら、今年もまた健気に無数の花を咲かせるのだから。
桜は、あまりにも冷たい。その美しさを讃え、口説き落とそうと口を開いた時には既にもういなくなってしまっているのだから。
桜は、あまりにも美しい。俺の愛する美しいひとですら花吹雪の向こうに霞んでしまうのだから。
「やましょ、桜見に行こ」
仕事が終わり事務所を出ようとしていた俺に、あんずはそう声をかけた。俺は練習着やシューズの入った鞄の重みを右肩に感じながら、すこし考える。
正直嫌だった。
それでも俺は、にこにこと笑って俺を見ている恋人の誘いを無下にできずに小さく頷いたのだ。
「いいよ」
夜の目黒川沿いは、多くの人で騒々しかった。
下からライトアップされた夜桜は、日中の陽光下とはまた別の色彩を見せる。
上品だが禍々しく官能的な濃いピンク。
「綺麗だね。やっぱ四季があるっていいなぁ」
俺の隣を歩きながら、あんずは斜め上に手を伸ばす。その指が、何の躊躇いもなくこちらに向かって垂れ下がる桜の枝に触れる。
毎年生まれ変わる桜は穢れを知らない。だからほんの少しでもひとの汚れに触れてしまった桜たちはきっとその毒に侵されて、自身の穢れに耐えきれず散っていくのだと、俺は密かにそう思っている。
俺は絶対に桜に触れない。近付きたくもない。
俺が汚れていると、明確に突き付けられるのを恐れているから。俺に触れられた桜は遅かれ早かれみな散ってしまうと分かっているから。
でも、あんずはなんの迷いもなく桜に触れた。そしてその枝はただ揺れるだけで、淡い小さな花々は健気に咲いていた。
桜は、散らなかった。
「…あの」
黙ってあんずの横を歩いていると、背後から若い女の声がした。振り返る前からファンだと分かっていた。
「THE RAMPAGEの山本彰吾さんと白峰あんずさんですよね。大ファンなんです、握手してください」
女の肩が桜の枝にぶつかる。ぶわりと花びらが舞い上がる。でも女はそれに一切構うことなく、上ずった笑顔であんずの方へと手を差し出した。
あぁ、嫌だな。
そんな汚い手で触られたら、きっとあんずはその毒に耐えられずに死んでしまう。
だから俺は咄嗟に女へと伸びていくあんずの手を掴んで、人混みの中をずんずん歩きだした。逃げ出したと言ってもいい。
「あ、え、山彰?」
「…こっち。ここは人が多すぎる」
あんずの手を引っ張りながら人混みを抜けて、俺たちはライトアップの灯りもない静かな場所に来た。すぐ側では1本の桜の木が満開の花を咲かせている。
周囲に誰もいないことを確認して、俺はほっと息をついた。
「山彰?どうしたの急に?」
「……あんず」
俺よりも小さくて柔らかいその手をぎゅっと握る。指を絡めて、あんずの焦げ茶色の瞳を見つめる。
「キス、してもいい?」
あんずは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに小さく笑ってくれた。
「何、今日は変だよ山彰。桜酔い?」
「…そうかもしんないな」
あんずの背中を桜の木の幹に押し付けてそっと唇を重ねる。いつもと変わらない、温かくてふわふわとした感触。角度を変えながら触れるだけのキスを、何度も何度も繰り返す。そのうち俺たちの間をはらりと桜の花びらが舞って、俺のくちびるとあんずのくちびるで挟んでしまう。
あんずは唇にくっついた小さな花びらを嬉しそうに俺に見せてきた。
「ん!」
「あは、綺麗にくっついたじゃん」
俺が指を伸ばして取るよりも先に、あんずはその花びらをぱくりと食べてしまった。
味を確かめるかのように数度咀嚼して、口の端をぺろりと舐める。
「んー…無味」
「当たり前だろ」
「ふふ、さくらんぼの味するかと思ったんだけどなぁ」
「…桜は綺麗だから。なんの穢れも知らなくて、だから味はしなくて当然なんだよ」
はらはらと花弁が舞い散る夜空を見上げる。
「穢れてしまった花から散っていく」
あんずは木の幹にもたれたまま、黙って俺を見ている。その顔はいつもと変わらず完璧に整っていて、まっすぐな眼をしている。
俺はあんずの瞳に恋をしたのだ。なによりも美しくて透き通った、その瞳に。
俺たちの間を、1枚の花びらがはらはらと落ちていく。
「…だから俺、本当は桜を見るの、嫌だった。怖いから。あまりにも綺麗すぎるから」
桜は生まれ変わる。無数の花弁と共に穢れを捨てて、何度も、何度も。
また純白のさくら色に。
「あんずを穢したのは俺なんだって、嫌でも分かってしまうから」
桜が舞う。何枚も何枚も、はらはらと舞い落ちる。
あんずが触れている桜の木から。
あんずは笑っていた。いつものように、しあわせをいっぱいに集めた瞳をきらきらさせて、笑っていた。ステージの上で2人肩を組んだ時に見せるあの瞳で、こちらを見ていた。
「私は穢れてなんかないよ、山彰。私はただ、山彰に染まっただけ。私の意思で、そうしたの」
「ごめんな、あんず」
「ごめんね彰吾」
桜舞い散る中、俺はただその場に立っている。
あんずに今すぐ触れたいのに、でも触れてしまったら終わりだと分かっているから。
ただ、あんずのさくら色の笑顔を見ていることしかできない。
「私は、弱かったなぁ」
ただ、あんずがその場にゆっくりと倒れていく様を見ていることしかできない。
桜が降り注ぐ。俺の色に染まってしまった、愛しいひとの上に。
この桜はまた来年も咲く。一切の穢れもなく、ほんの刹那に咲き誇る。そしてまた穢れてしまった自らを清めるように散っていく。そうやって、何百回も生まれ変わってきたのだろう。
でも人は、穢れたらそれで終わりだ。
でも来年の春は、俺の隣にあんずはいない。
俺はもう、桜を見ることはない。
「ごめんなあんず」
桜は全て散った。春が、終わってしまった。
「俺やっぱり、桜が怖いよ」
桜は、あまりにも優しい。
俺の恋人を、穢れた俺の元から連れて去っていってくれたのだから。
だが、今年も目黒川の桜は美しかった。
ほとんど白に近い淡い桃色は、その柔らかい花弁をほころばせたそばから風に吹かれて散っていく。春の幻のようなほんの刹那のその栄華は、毎年俺を不安にさせる。
桜は、あまりにも切ない。散りゆく運命だと分かっていながら、今年もまた健気に無数の花を咲かせるのだから。
桜は、あまりにも冷たい。その美しさを讃え、口説き落とそうと口を開いた時には既にもういなくなってしまっているのだから。
桜は、あまりにも美しい。俺の愛する美しいひとですら花吹雪の向こうに霞んでしまうのだから。
「やましょ、桜見に行こ」
仕事が終わり事務所を出ようとしていた俺に、あんずはそう声をかけた。俺は練習着やシューズの入った鞄の重みを右肩に感じながら、すこし考える。
正直嫌だった。
それでも俺は、にこにこと笑って俺を見ている恋人の誘いを無下にできずに小さく頷いたのだ。
「いいよ」
夜の目黒川沿いは、多くの人で騒々しかった。
下からライトアップされた夜桜は、日中の陽光下とはまた別の色彩を見せる。
上品だが禍々しく官能的な濃いピンク。
「綺麗だね。やっぱ四季があるっていいなぁ」
俺の隣を歩きながら、あんずは斜め上に手を伸ばす。その指が、何の躊躇いもなくこちらに向かって垂れ下がる桜の枝に触れる。
毎年生まれ変わる桜は穢れを知らない。だからほんの少しでもひとの汚れに触れてしまった桜たちはきっとその毒に侵されて、自身の穢れに耐えきれず散っていくのだと、俺は密かにそう思っている。
俺は絶対に桜に触れない。近付きたくもない。
俺が汚れていると、明確に突き付けられるのを恐れているから。俺に触れられた桜は遅かれ早かれみな散ってしまうと分かっているから。
でも、あんずはなんの迷いもなく桜に触れた。そしてその枝はただ揺れるだけで、淡い小さな花々は健気に咲いていた。
桜は、散らなかった。
「…あの」
黙ってあんずの横を歩いていると、背後から若い女の声がした。振り返る前からファンだと分かっていた。
「THE RAMPAGEの山本彰吾さんと白峰あんずさんですよね。大ファンなんです、握手してください」
女の肩が桜の枝にぶつかる。ぶわりと花びらが舞い上がる。でも女はそれに一切構うことなく、上ずった笑顔であんずの方へと手を差し出した。
あぁ、嫌だな。
そんな汚い手で触られたら、きっとあんずはその毒に耐えられずに死んでしまう。
だから俺は咄嗟に女へと伸びていくあんずの手を掴んで、人混みの中をずんずん歩きだした。逃げ出したと言ってもいい。
「あ、え、山彰?」
「…こっち。ここは人が多すぎる」
あんずの手を引っ張りながら人混みを抜けて、俺たちはライトアップの灯りもない静かな場所に来た。すぐ側では1本の桜の木が満開の花を咲かせている。
周囲に誰もいないことを確認して、俺はほっと息をついた。
「山彰?どうしたの急に?」
「……あんず」
俺よりも小さくて柔らかいその手をぎゅっと握る。指を絡めて、あんずの焦げ茶色の瞳を見つめる。
「キス、してもいい?」
あんずは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに小さく笑ってくれた。
「何、今日は変だよ山彰。桜酔い?」
「…そうかもしんないな」
あんずの背中を桜の木の幹に押し付けてそっと唇を重ねる。いつもと変わらない、温かくてふわふわとした感触。角度を変えながら触れるだけのキスを、何度も何度も繰り返す。そのうち俺たちの間をはらりと桜の花びらが舞って、俺のくちびるとあんずのくちびるで挟んでしまう。
あんずは唇にくっついた小さな花びらを嬉しそうに俺に見せてきた。
「ん!」
「あは、綺麗にくっついたじゃん」
俺が指を伸ばして取るよりも先に、あんずはその花びらをぱくりと食べてしまった。
味を確かめるかのように数度咀嚼して、口の端をぺろりと舐める。
「んー…無味」
「当たり前だろ」
「ふふ、さくらんぼの味するかと思ったんだけどなぁ」
「…桜は綺麗だから。なんの穢れも知らなくて、だから味はしなくて当然なんだよ」
はらはらと花弁が舞い散る夜空を見上げる。
「穢れてしまった花から散っていく」
あんずは木の幹にもたれたまま、黙って俺を見ている。その顔はいつもと変わらず完璧に整っていて、まっすぐな眼をしている。
俺はあんずの瞳に恋をしたのだ。なによりも美しくて透き通った、その瞳に。
俺たちの間を、1枚の花びらがはらはらと落ちていく。
「…だから俺、本当は桜を見るの、嫌だった。怖いから。あまりにも綺麗すぎるから」
桜は生まれ変わる。無数の花弁と共に穢れを捨てて、何度も、何度も。
また純白のさくら色に。
「あんずを穢したのは俺なんだって、嫌でも分かってしまうから」
桜が舞う。何枚も何枚も、はらはらと舞い落ちる。
あんずが触れている桜の木から。
あんずは笑っていた。いつものように、しあわせをいっぱいに集めた瞳をきらきらさせて、笑っていた。ステージの上で2人肩を組んだ時に見せるあの瞳で、こちらを見ていた。
「私は穢れてなんかないよ、山彰。私はただ、山彰に染まっただけ。私の意思で、そうしたの」
「ごめんな、あんず」
「ごめんね彰吾」
桜舞い散る中、俺はただその場に立っている。
あんずに今すぐ触れたいのに、でも触れてしまったら終わりだと分かっているから。
ただ、あんずのさくら色の笑顔を見ていることしかできない。
「私は、弱かったなぁ」
ただ、あんずがその場にゆっくりと倒れていく様を見ていることしかできない。
桜が降り注ぐ。俺の色に染まってしまった、愛しいひとの上に。
この桜はまた来年も咲く。一切の穢れもなく、ほんの刹那に咲き誇る。そしてまた穢れてしまった自らを清めるように散っていく。そうやって、何百回も生まれ変わってきたのだろう。
でも人は、穢れたらそれで終わりだ。
でも来年の春は、俺の隣にあんずはいない。
俺はもう、桜を見ることはない。
「ごめんなあんず」
桜は全て散った。春が、終わってしまった。
「俺やっぱり、桜が怖いよ」
桜は、あまりにも優しい。
俺の恋人を、穢れた俺の元から連れて去っていってくれたのだから。
1/1ページ