6月1日。今頃みんなは富山のオーバード・ホールでアップをしている頃か。
一方東京に残る私はというと緊張でどきどきしながらピアノ椅子に座っていた。

｢いつでもどうぞ｣

HIROさんに促され、私はこくりと頷く。
鍵盤に置いた手が微かに震えていた。

チャーン

先生に言われてきたことを思い出しながら丁寧に弾いていく。
スタッカティッシモ、アレグロ、フォルテッシモ。

『前の弾き方の方が好きやな』

ほんの一瞬、呼吸が乱れた。すぐに立て直したけど、HIROさんに気づかれていないだろうか。
10分間弾ききって、しばらくその場で固まる。
HIROさんも私も、一言も発さない。苦しい沈黙。

｢…ありがとう｣

ようやく、HIROさんがそう言った。その言葉からは何の感情も読み取れなくて、私は恐る恐るHIROさんの方を見る。
何かを押し殺したような表情。
次に発した言葉は、私の心を打ちのめした。

｢残念だ。僕がプロデュースしたかったのは、そんなピアノじゃない｣

世界から音が消えたみたいな、そんな感覚。自分が何を言われているのか分からなくて、ただ呆然とHIROさんの言葉を聞いていた。

｢貴重な時間を奪ってしまって悪かった。みさちゃんには引き続き寮母としての仕事を継続してもらいたい｣

どうやって家に帰ったかは覚えていない。気がついたら寮のリビングで、みんなから貰ったピアノの前に立っていた。
たまに翔平が天板の上に寝っ転がっていて、ピアノが痛むと注意をした。この傷は酔った陣さんがぶつかった時のもの。健太くんのお気に入りはピアノの下に潜り込んで私の演奏を聞くこと。最近は陸くんがピアノにハマり出して、連弾してみたり。壱馬は私にぴったりくっついて座るのが好きだった。
私の好きなピアノは、そんなささやかな日常にあるものだった。

｢_______________…う、｣

その場に座り込む。涙が溢れてきた。
鞄からメモで真っ黒になった楽譜を引っ張り出して、ビリビリに破く。それを虚空に向かって投げつける。でも、まだ涙は止まらない。
手当り次第に目に付いたものを床にたたき落とす。その拍子になにか尖ったもので指を切った。血が滲む。
止まらない。止まらない。
私はどうしたかったのだろう。何がしたかったのだろう。何になりたかったのだろう。
いや、もういい。
疲れた。

今はただ、この世の全てから目を背けて眠りたい。