BAD BOY



それは忘れかけ、無くしかけていた記憶を呼び起こす鍵だった。

―――”カガリちゃん”

そう呼ばれて、瞬くものがあった。
頭の奥底から、積み重ねられた層を突き破って、蘇る記憶。




―――濃紺の髪に、濃いエメラルドの瞳を持った、泣いてばかりの小さな男の子。













カガリが空手を始めたのは、小学校に上がる少し前だった。
女の子にしては腕白だったカガリの勢いと元気を、近所の悪がきとの喧嘩ではなく、ちゃんとしたスポーツで発散して欲しいという両親の切実な願いから始めた習い事だった。
親の目論みは上手く当たり、もとから素質もあったのだろう、練習にのめり込んだカガリはみるみる空手の腕を上達させていき、持ち前の正義感と明るさから空手道場に通う子供たちのリーダーのような存在になっていった。
慕ってくる自分よりも幼い子たちが弟や妹のように思え、面倒を見てあげるのが自分の仕事であり楽しみになりつつあったカガリの前に、アスランが現れたのは二人が小学二年生のときだった。


アスランは年の割には小さく、体格のせいか大人しい子供だった。
自己主張がほとんど無く、引っ込み思案な我が子を心配したアスランの母が、空手で身体も心も強くなって欲しいと、わざわざ車で三十分もかかる学区外の道場にアスランを連れてきたのだった。
先生と入会の話をする母親の後ろに隠れ、ただ俯いて黙って話を聞いているアスランは、たちまちカガリの関心の対象になった。
しかしそれが、アスランを恐怖のどん底に突き落とすこととなる。






「アスラン!いつまで寝てるんだ!早く起き上がれよ!」

「痛いよ・・・カガリちゃん・・・。もういやだよ・・・」

「床に倒されたんだから、痛いのは当たり前だろ!お前が弱いからいけないんだぞ!それがいやならもっと強くなれよ!」

何度目か分からないくらい床に叩き付けられ、顔中を涙でぐちゃぐちゃにしたアスランの腕を掴み、カガリは容赦なくアスランを立ち上がらせた。
そしてまた、痛みと疲労で足取りもおぼつかないアスランに容赦なく技を掛け床に叩きつける。
アスランはくぐもった声をあげて、もはや立ち上がることもできなかった。


同い年なのに、自分よりも細くて背の小さい気弱な男の子。
カガリは面倒見の良さからアスランのことを弟のように思うと同時に、彼に男の子らしい強さを身に着けてほしいと思ったのだった。
カガリはアスランの為を思い、練習の空き時間や、親の迎えを待つ間だったり、時間を見つけてはアスランを必要以上にしごいたのだ。
しかしカガリにとっては良かれと思ってやっていることでも、アスランにとってはたまったものではなかった。
空手初心者のアスランにとって、自分よりもずっと上手で背が高く、体格の良い人間と組むのは恐怖でしかなかった。
それに、カガリも幼さゆえ手加減というものが分からない。
泣いてもう嫌だと訴えるアスランを、カガリは許さず、道場の庭に逃げ出したアスランを追いかけては技をかけることも日常茶飯事だった。
カガリのアスランに対する自主練は、いらぬお節介以外の何物でもなかったのだ。







「やっと思い出してくれた?酷いよな、俺を見ても全然思い出してくれないなんて」

呼び戻された記憶で息を詰めたカガリに、アスランは皮肉な笑みを浮かげて言った。
その端正な顔に確かに昔の面影はあるが、カガリのすぐ傍で目を細めるアスランはとても六歳の頃の彼とは結びつかなかった。
本当に、記憶の中のアスランは彼なのだろうか、いや、確かにそうなのだろうが、あまりにも印象が違いすぎる。

「でも、それも仕方ないか。あの頃の俺は年齢にしては小さくて気が弱くて、君にいつもいじめられていたし」

「い、いじめてなんか・・・」

「そう?」

カガリが恐々と言い返すと、アスランは首を傾げ、壁についていた手を離すと、いきなりカガリの二の腕を掴んだ。

「ひっ・・・」

「逃げても逃げてもこんな風に腕を掴まれて、幼心に凄く怖かったよ。君にしてみれば記憶の奥底に埋もれてしまう程度のことかもしれないけど、俺は忘れたことなかった」

「ご・・・ごめん」

カガリは掠れた声で謝った。
目の前のエメラルドに逆らうことはできなかったし、確かに記憶のなかでカガリはアスランを何度も泣かせていた。
今の恐怖から逃れることができるのなら、謝罪など取るに足らないことだった。
しかし、アスランの瞳は無情に瞬いた。

「あれから十年も、当時の記憶に悩まされてた俺の苦しみが分かるか?それをたった一言で終わらせるつもりなのか、君は?」

「だって・・・」

どうしろというのか。
カガリは思わず言いよどんだ。
確かにアスランを傷つけたかもしれないが、いきなり十年も前の幼少時代の出来事を持ち出されても、どうすることもできない。
カガリが硬直していると、アスランが二の腕を掴んでいない方の手を、カガリの頬に移動させた。
いきなり頬を触れられ、カガリはびくりと身を揺らす。

「慣れてないんだ。こういうことされるの嫌か?」
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