藍色の秘密
気が付いたときには、白銀の剣は美しい弧を描き、カガリの斜め上を通り抜け、そして一寸の狂いなく狙いに命中した。
アスランの背後にいた密偵が、くぐもった声をあげて倒れる。
「どんなときでも・・殺気は読めるようにしておくんだな」
何が起きたか分からない。
そんな顔をしているアスランに、アレックスは無表情でそう告げると、ふっと全身の力が抜けたように、がくんと膝をついた。
たとえるなら、操り糸の切れた人形のように、それは突然だった。
「アレックス!」
アスランと同様、全く密偵の存在に気が付かず、事の成り行きを呆然と見つめていたカガリが、弾かれたように地面に倒れたアレックスに駆け寄った。
アレックスは酷い怪我をしているのだ。
本来なら動けないほどの怪我で、ここまで彼が付いてこられたのは、一重に彼が人並み外れた身体能力と精神力を持っていたからだ。
「アレックス、大丈夫か?!」
抱き起こそうと、カガリが彼の広く固い背中に手を回したとき、ぬめったような、嫌な感触がした。
「アレックス・・お前、血が・・」
慌てて掌を見れば、月光に赤い血が照らされる。
潜入、脱出、逃亡という激しい動きのせいで、アレックスの傷が開いてしまっていたことに、カガリは初めて気が付き、そして愕然とした。
何の戸惑いもなく、何の遠慮もなく、アレックスの身体から赤い液体が流れ出ていく。
彼の生命が、器から抜け落ちていくように。
「カガリ・・様」
「お前、しっかりしろ!」
(だから、だから言ったのに!)
息も絶え絶えで見上げてくるアレックスに、カガリの心に憤りと後悔と怒りが湧き上がる。
(安静にしていろって・・!私も傍でついているって・・!そう言ったのに・・こいつは!)
アレックスが背中に受けた傷は、致命傷になってもおかしくない程の深いものだった。
いくら訓練を受けているとはいえ、イザークが止血がうまくいったのは、奇跡だったのだ。
その奇跡の恩恵を、しかしアレックスは甘んじて享受しなかった。
カガリ達と共にアスランを救出しに行くことを自ら選んだ。
そして、奇跡によってふさがった傷が、もう一度開いてしまったのなら。
***
痛みは全くなかった。
手足の感覚もなく、意識も思考もぼんやりと朧げで、ただとめどなく自らの血が体外に流れ出る、その感覚だけがなんとなく分かる。
自らの名を呼ぶ愛しい人の声も、どこか遠く。
それでもアレックスはゆっくりと沈んでいく意識を、かろうじて繋ぎ止める。
もう少しだけ、この世界に居たかった。
「カガリ・・様」
「お前、しっかりしろ!」
目を開ければ、すぐそこに愛しい人の顔があった。
(そんなお顔を・・なさらないで下さい)
必死に覗き込んでくるその顔が、今にも泣き出しそうで、アレックスはただただ、そう思った。
死は現世に生きる人々が恐れるほど、嫌なものではなさそうだったからだ。
暖かくて、穏やかで。
死を前にした、こんな局面で、それでもアレックスは満たされていた。
「何故だ・・」
すがるような声に、アレックスはゆっくりと視線を向けた。
視線の先には、自分そっくりな、けれども動揺して、今にも泣きそうな顔。
「何故、俺を助けた・・」
「・・・」
(そんな顔をするから、駄目なんだ・・)
初めから、アスランはアレックスの目に、とても危なっかしく映った。
冷静沈着だと言われているが、激情にかられると、ひとつのことしか目に入らなくなってしまう。
アスハ邸でアレックスにカガリへの求婚を邪魔され感情を剥き出しにしたアスランは、とても不安定に見えた。
そのくせ、普段は自分の殻に閉じこもりがちで、何でも自分一人で抱え込んでしまう。
気を配っていなければ、自分で自分を傷つけ追い込んでしまう。
完璧なようで、隙が多い。
それがアスランと接してみて、アレックスの持った感想だった。
「これ、を・・」
アレックスは震える手で、胸ポケットから一枚の羊皮紙と鍵を取り出した。
「・・・?」
アスランはそれを受け取り、アレックスが何を考えているのかまるで分からないという風な顔で、アレックスを見やる。
「デュランダルが・・今まで行った不正の証拠を、そこに隠している」
アレックスは、デュランダルが自分を利用するだけ利用したら、必ず斬り捨てると確信しており、その為に反撃手段を着々と用意していた。
デュランダルは政治の上でかなり悪どい取引や交渉を行っており、その証拠を集め文書にまとめていたのだ。
しかし結局、アレックス本人がこの武器を使用する前に、向こうから先に仕掛けられてしまった。
「何故だ・・」
アレックスに意思を託され、アスランは瞳を瞬かせた。
その無防備な表情に、アレックスは心の中で苦笑する。
(だから、それが駄目なんだ・・)
ひとつの思いがアレックスのなかに、ぼんやりと浮かんでくる。
決して実現することがないと分かっている、くだらない妄想だったが。
「こんな風に、出会っていなかったら・・お前は俺の大切な弟だった・・」
アレックスの言葉に、アスランが身体をわずかに揺らしたのが分かった。
生意気だけど、危なっかしくて見ていられない、可愛い弟。
もし、ザラ家ではない、違う環境で双子として産まれていたら、アスランのことを、そんな風に、思っていたかもしれない。
「アレックス・・嫌だ・・」
ポタリと頬の上に何かが落ちてきて、アレックスは視線をカガリに戻した。
悲しそうな顔をしないで欲しかったのに、アレックスの望みは叶わず、カガリは涙をこぼしていて。
零れ落ちる大粒の涙が、アレックスの頬に降ってきていた。
素直な感情表現。
それは、年を重ねても、嫁ぐことになっても、変わらないカガリの性質だった。
それを愛しく思いながら、最後の力を振り絞って、アレックスはカガリの名を呼ぶ。
「カガ・・リ・・さま、私は・・幸せ、でした」
そう、幸せだった。
カガリと共に生きることができて、幸せだった。
自分がいなかったら、カガリは何の問題もなくアスランと幸せになれたはずで。
カガリが胸を痛めることも、今こんな風に泣くこともなかったのだけれど。
それでも・・。
アレックスの存在が、いかに多くの人を苦しませたか、それを踏まえても。
どんなに身勝手だと思われてもいい、自分は幸せだったと、アレックスは全身で感じていた。
そしてその幸せな人生は、オーブの城下で初めて出会ったときに、カガリが与えてくれた生だった。
(ですから・・どうか泣かないで下さい)
そう伝えたい。
だけど、もう声が出なかった。
カガリの顔に霞がかかる。
どんどん遠くなっていくカガリに、後ろ髪がひかれる。
もう少しだけ、この世界に居たかった。
死ぬのが惜しい。
アレックスが憎んでいたはずの世界は、いつしかそんな世界になっていた。
自分を看取ってくれるであろう、少女のおかげで。
「カガ・・」
生きるということは、なんて素晴らしいことだろう。
最後にアレックスを満たしたのは、そんな想いだった。
それと、もう一つ。
(それを・・教えてくれた貴方を・・私は・・)
・・・・・・
・・・
アレックスが一瞬の闇に包まれて、そして一筋の光がさした。
長い長い夜が明けて、昇ってくるプラントの弱い太陽。
暁。
その名を貰わなかった青年が、夜明けの光を浴びながら、静かにこの世を去ったのだった。
*******