まほろば
カリカリとシャーペンを走らせる音が静かな部屋で聞こえる唯一の音だった。
あんまり静かなので、自分の心臓の音が聞こえはしないかと心配になってしまう。
斜め前で数学の問題と格闘している少女を想う心の音だ。
「うーん、多分できた」
アスランの胸の内を微塵も知らないカガリが顔を上げ、疲れた表情でアスランを仰ぎ見た。
「見せてくれるか」
「合ってるはず、だ」
カガリのノートを受け取りその回答に目を通す。
初めてキラの家を訪れてから一週間が経ち、今日は二回目の訪問だった。
前回と違うのはキラがデートにいってしまい、二人っきりの勉強会ということと、その会場がヤマト家のリビングだということだ。
あれからキラに聞いた話によると、カガリはキラの男やもめの親戚の家へ養女に入ったのだが、たまにこうしてヤマト家に遊びにくるらしい。
養父とも実家とも良好な関係だからこそできることだろう。
しかしヤマト家には養子に出したカガリの私室は無く、当人不在にかかわらずキラの部屋で勉強するには気が引けて、リビングで勉強をすることになったのだ。
リビングといっても、キラの両親は共働きで夜まで帰ってこないので二人っきりなのだが。
「うん、正解」
「やった!」
「カガリは飲み込みが早いな」
アスランに褒められて、カガリが満足そうに微笑んだ。
ちょっと得意げなその笑みが可愛くて、アスランの脳内がぐにゃりと曲がった気がした。
そんな気持ちになったのはカガリと勉強を始めて三十分、既に三十回以上あった。
自分の境遇が信じられなくなるのだ。
カガ担達が見たら号泣するような活き活きとした表情を、自分一人に向けられるなんて、そんな贅沢があっていいのだろうかと恐ろしい気持ちになってしまう。
初めてカガリに会った先週、家に帰り私室に入るやいなや、腰を抜かしてしまったくらいだ。
「じゃあさ、少し休憩していい?」
「少しだけなら」
「いいのか?アスランって優しいな!」
「だって君は忙しいだろう」
カガリは来月から始まるドラマに出演が決まっており、既に撮影に入っているのだ。
なんと記念すべきドラマ初出演である。
それに加え平常のSEDのライブに、テレビや雑誌の仕事、カガリのスケジュールはひどく多忙なはずだった。
「まあ忙しいっちゃ忙しいけど、楽しいからな」
ふふ、と笑った後、カガリはずいっと上半身をアスランに近づけた。
ふわりとカガリの香りがしたようで、アスランの心臓が跳ねる。
「アスランは?」
「え?」
「アスランは学校楽しいか?どんな学校生活送ってるんだ?キラは学校でどんな感じ?」
矢継ぎ早に質問をされてアスランは戸惑ったが、きらきらした琥珀の瞳にそうかと納得した。
中学二年でSEDに入り、今は芸能人ご用達の最低限の出席とレポート提出さえすれば卒業できる高校に通っているカガリにとって、普通の学校生活はある種のあこがれなのだろう。
「学校は楽しいよ。ザフトは週の半分は自分の興味や得意分野にそって授業を選択できるし、特に理数系にはいい先生がそろっていて授業も面白いんだ」
学校の話でカガリに喜んでもらいたかったアスランだが、当のカガリは少し驚いたような顔でアスランを見つめていた。
「アスランって、勉強好きなんだな」
「そう、かな」
失敗してしまったのだろうか。
普通の高校生はもっと友達や部活だったり、いかにも青春な話をするのだろうか。
内心焦るアスランだったが杞憂だったようで、カガリは気にせずに優しい顔で言った。
「アスランはいい奴だから、きっと皆に好かれているだろう」
「そんなことないと思う。俺は何の取り柄もないし、話しててもつまらないだろ。キラの方がよっぽど」
「そんなことないぞ?アスランすごく優しいじゃないか。もっと自信持っていいぞ」
「俺は優しくなんてない。どっちかって言うと冷たい部類の人間だと思う」
「冷たい人間は、わざわざ家まで来て勉強教えてくれないぞ」
それは、君だから。
その言葉を、アスランはぐっと飲み込んだ。
隠れていた人格まで引き出す程、カガリがアスランに与えた影響は多大だった。
「なあ、ドラマの撮影スタジオがここから近いから、当分こっちの家で過ごすんだ。アスラン、これからも来てくれるか?」