本編
オーブを出港してから二週間後、プラントの港に船が入ったとき、カガリは王子の帰還を待ちわびていた民衆の大歓声に驚いた。
戦をすることなく、神の国と名高いオーブを領地に取り込んだ王子に、人々は熱狂していたのである。
加えて、人前に出ることなく、神秘のベールに包まれていた神王を一目見たいと大勢の民衆が港に詰めかけていた。
プラントに比べたらずっと人口の少ないオーブの、それも宮殿育ちのカガリは、見たこともないほどの大観衆にすっかり圧倒され怖気づいてしまったが、そんなカガリの背中をアスランは優しく支えた。
「民も君を歓迎している。怖がることはない」
アスランの優しい声と、手の感触に励まされ、カガリは大歓声が響くなか、馬車に乗り込み、プラントの王都ディゼンベルに向かった。
港からプラントの王宮までは馬車で二日程かかって、やっと着いたことにはカガリはすっかりくたくたになってしまった。
王宮の門にも大勢の人がアスランとカガリの到着を待っていた。
港や街道での出迎えと違うのは、彼らがただの民衆ではなく、大臣や宮殿に住まう貴族たちだということだ。
上位の身分を持つ者は、遠征に行っていた王子の帰還を門ではなく祝いの間で待っているの慣例だが、輿入れをするカガリに敬愛を示すため表に出てきたのだ。
彼らの盛大な歓迎を受けて宮殿に入り、プラント王に御目通りすることもなく、カガリは真っ先に用意されたカガリ専用の部屋に通された。
長旅で心身共に疲れているであろうカガリへの、アスランの配慮だった。
「じゃあカガリ、今日はゆっくりと休むといい。明日からは式の準備や何やらで忙しくなるだろうから。俺も自由になる時間がほどんどなくて、式まであまり君に会えに行けないかもしれないけど、何か不便なことがあったら何でも彼女たちに言ってくれ」
カガリの私室まで付き添ってきたアスランが、部屋で待機していた女官たちを目線で指した。
女官たちが恭しく頭を下げるのを確認すると、アスランはお休みの挨拶と共に部屋から出ていこうとしたのだが。
ふと足を止めて、再びカガリの傍に歩み寄ると、耳元に顔を近づけた。
「プラントに来てくれて、本当にありがとう」
驚いてカガリが顔をあげると、アスランの優しい瞳がそこにあって。
「おやすみ、カガリ」
そう言って微笑むと、アスランは踵を返して、部屋の外に出て行った。
「あ・・」
アスランが行ってしまって、パタンとドアが閉まると、カガリは何だか胸にぽっかり穴が開いてしまったような気がした。
でも、その理由が分からない。
アスランは長旅の間ずっと、カガリのことを気遣っていてくれた。
あの船上でのことがあった後は、尚更一緒にいる時間を作っていてくれて。
今、カガリは初対面の異国の女官たちの中にたった一人でいる。
オーブから付き添ってくれたシンも、早々とプラント軍の宿舎に案内されて行ってしまった。
だから心細いのだろうか・・・。
「カガリ様。長旅お疲れ様でございました。ようこそプラントへ!私はカガリ様付の女官、ルナマリア・ホークと申します」
快活な声にカガリはハッと顔を上げた。
カガリに宛がわれた部屋には既に三人の女官が控えていて、カガリとアスランのやり取りを見守っていたのだった。
「オーブを離れたのは初めてだとお聞きしています。異国の文化のなか、戸惑うこともあるかと思いますが、何かありましたら何なりとお申し付けくださいね」
ルナマリアがハキハキとカガリに語りかける。
「ああ。ありがとう」
朗らかで聡そうな女官にカガリは頷いた。
プラントの王宮を居とし、このなかで生きていくのだ。
激動の末、カガリの新しい人生が始まろうとしていた。
結婚式はカガリが王宮入りしてから二週間後だった。
準備期間が短い為、カガリは王宮に着いた翌日から慌ただしい日々を送ることになった。
式の段取り、ドレスの採寸、ダンスの練習、招待客の地位と名前の暗記。
結婚式のことだけではなく、プラントの歴史や政治、行儀作法も合わせて習得しなければならず、気が付いたら結婚式は明後日に迫っていた。
「ああ・・疲れた」
一日の予定を全てこなして、カガリは私室のベッドに倒れこんだ。
天蓋付きの広く柔らかいベッドは、カガリの重さをものともせず、わずかに揺れただけだった。
勉強と結婚式の準備を並行して行ってきたが、さすがに結婚式を明後日に控え、ここ数日は結婚式の準備にすべての時間を費やしていた。
倦怠と疲労が身体を蝕んでいたが、皮肉なことにカガリの肌は光り輝くように滑らかだ。
毎日念入りに行われる肌の手入れのおかげである。
「カガリ様、大分お疲れのようですね」
ルナマリアが紅茶をサイドテーブルに置きながら、カガリの行儀がいいとは言えない格好に苦笑しながらも、気遣うように言った。
「あれだけダンスの練習したら疲れるさ」
「ご結婚式ですから。人生の晴れ舞台で、カガリ様のお披露目の場ですもの。完璧に準備しなくては」
「分かっているさ。だから一生懸命・・」
ルナマリアに愚痴りかけたとき、カガリのドアに掛けてあるベルが涼やかな音を立てた。
来客である。
「は~い」
ルナマリアがドアに向かい、扉を開けて、やってきた召使と何やら話をしているのを、カガリはびんやりと横目で伺っていた。
(眠いなあ・・)
瞼が重くて、ルナマリアが戻ってくる前に眠ってしまいそうだった。
(アスラン・・)
意識と無意識の狭間で、明後日には自らの夫となる青年の名を呼んだ。
忙しさで撲殺されていたカガリだったが、アスランはもっと忙しいようで、彼の言ったとおり、カガリが王宮入りした日以来、アスランと会うことはなかった。
(アスラン、どうしているんだろう・・)
このまま結婚式まで会うことはないのだろうか。
そんなことを思いながら、眠気の波に抗えず、カガリの意識は闇へと沈んだ。