本編

「もういいだろう。放せ」

大きな揺れは一度きりで、すでに船は穏やかで優しい海の上を滑っているにもかかわらず、アスランはカガリを腕に抱きとめたままだった。
しなやかで逞しい彼の身体の感触を感じて、カガリは居たたまれないような気持ちになり、彼の腕の中から出ようともがいた。

「放せといっているっ」

どんなに身体を捻っても、彼の腕の中から逃れることができず、焦燥が恐怖に移り変わるころ、アスランがカガリの耳元で囁いた。

「二年前に私があなた様にお渡しした手紙を覚えておりますか?」

「・・・っ」

彼の息吹を耳に感じて全身が総毛だち、同時に記憶のなかで青空を軽やかに羽ばたいてきた鮮やかな緑色の鳥が蘇った。
そして開け放した窓の窓枠にとまったその鳥の、小さな足に結び付けられた手紙。

忘れようとして、記憶の底に沈めたはずなのに、いとも容易くあの日のことが、あの手紙のことがカガリの頭に鮮明に蘇る。




二年前から既にオーブを、アスハを巡って世界は不穏な空気に包まれていた。
古いしきたりを捨てぬというのなら、遅かれ早かれオーブは滅び、世界は混沌する。
オーブを破滅の道へ辿らせないために、世界が戦火で包まれないように、プラントの王子である自分と添い遂げてはくれないだろうか。
緑の鳥を通じて極秘で渡されたアスランからの手紙はそういう内容だった。

当時カガリは神王の娘である自分がアスハ一族以外の野蛮な民に結婚を申し込まれたことに憤慨し、すぐに手紙を燃やしてしまった。
世界の動きや情勢を理解していなかったこともあったのだが。

本当は、怖かったのだ。
綺麗な文字で綴られた手紙に、胸が高鳴り、頬を熱くしてしまいそうな自分が。
アスランからの手紙は、政治情勢だけではない、カガリへの想いを綴られていた。

初めて見たときから、自分はカガリに惹かれていたのだと。
それから年に一度の謁見をどんなに心待ちにしていたかと。
だけど謁見の場でカガリと自由に話せるはずもなく、ただただ周りに気づかれないように、ずっとカガリを見つめていた時、どんなに胸が切なかったかと。
それでも、カガリと会えるだけで嬉しくて幸せだったと。

あの聡明で美しく、物静かな王子が、自分にこんな熱く激しい想いを抱いていると知ったときの衝撃は大きかった。
アスハは同族とのみしか婚姻を結ばない。
カガリにも生まれたときからの許嫁がいる。
外部のものが、それがどんなに他国で身分の高い者であろうと、アスハ一族に結婚を申し込むなど許されない、無礼な行為なのだ。
それなのに、カガリはどうしてもアスランの手紙を心の奥底から不快だとは思えなかった。
カガリはそんな自分に戸惑って、また恐れ、手紙のことは忘れようとしたのだった。


けれど今、その記憶は鮮やかに甦って。




(あ…)

抱き締められていた腕の力が不意に緩み、カガリが顔をあげると、自分を見つめているアスランの瞳とぶつかった。
ドキドキと心臓が高鳴って、カガリはアスランから目を逸らそうとした。
だけど、何故だか身体が動かない。
深いエメラルドの色に捉われてしまったかのように。

(こんな、色だっただろうか・・・)

何度もアスランと顔を合わせて、今だって一緒に甲板に出た。
それなのに、目の前のエメラルドは今まで見たことがないくらい美しく思えた。

「確かに・・・神王だったあなた様を娶ることで、ただの軍事大国であるプラントは神威を手に入れ、名実ともにこの海の覇者になるでしょう」

カガリを捉えたまま、アスランは静かに言った。

「今回の結婚にはそのような意図もあったこと、それは事実です。ですが・・・」

そこまで言って、アスランは一瞬目を伏せた。
長く濃い睫が白い肌に影を落としたが、彼はすぐに瞳を持ち上げ、そして言った。

「私の気持ちは、二年前のあの頃と全く変わってはおりません」

いつのまにか、アスランの瞳は熱を持っていて。

「アスラ・・・」

「お慕いしております・・・」

潤んだ綺麗な緑色が近づいてくる。
カガリがそう思った瞬間、二人の唇が重なった。
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