結婚前夜【CE105】
―――こんなふうにこの日を迎えるなんて、思いもしなかった
アスランがジェネシスの艦長になることが決まってから一年、ついに「その日」はやってきた。
既にカーテンを取り外した窓の外に、家屋の明かりはほとんどなく、外の世界は闇と静寂に包まれている。
あと六時間程で窓から見える景色が息づき活動を始めるが、その光景をアスランが見る機会はもう無い。
今夜はアスランがプラントで過ごす最後の夜だった。
明日、いや今日の未明にジェネシスはプラントを発つ。
あと三十分後には基地に向かう為家を出なけくてはならない。
そしてその後、この家に戻ってくることは、もう二度とない。
片道のみの、三十光年の航路に出る。
生まれ故郷とそこで暮らす大切な人たちに別れを告げて、アスラン・ザラという人間は今日ここで一度死ぬのだ。
最初は皆、アスランのことを覚えていてくれるだろう。
しかし月日を重ね新しい記憶が増えていくたびに、アスランの記憶は少しずつ少しずつ埋もれていき、十年も経てばアスランは遠い思い出の人となり、そして忘れられていく。
そのときが、本当の意味でアスランが死んだことになるのだろう。
それで、いいのだ。
人は皆、前を向いて生きていくべきなのだから。
「アスラン」
窓際に立ち、寝静まったプラントを静かに見つめていたアスランの背後に、不意に声がかかった。
振り向けば、扉のところに寝巻姿のカガリが遠慮がちに立っていた。
「カガリ、寝ていなかったのか。明日、早いだろう」
今頃は私室で深い眠りに落ちているはずのカガリが起きていることに、アスランは僅かに驚いた。
電灯を取り外したリビングの明かりは、備え付けの小さなランプのみ。
ほとんどが闇に包まれた家の中でも、カガリの金髪はぼんやりと浮かび上がっていた。
「晴れ舞台なのに、寝不足で倒れたりしたら大変だ」
「ああ・・・。でも・・・眠れなくて」
カガリは俯きながら、そっとアスランの近くまでやってきた。
「ホットミルクでも飲むか?あ、でも冷蔵庫の中はもう何もないな」
アスランの言葉に、カガリは顔を上げ、がらんとした部屋を見回した。
もとから物の少ない家だったが、今はもう備え付けの家具を残すのみになっている。
「アスラン、本当に行っちゃうんだな・・・」
「・・・ああ」
「見送りをちゃんとしたくて。私が寝てる間に、アスランが行ってしまうなんてやっぱり耐えられない。ちゃんと最後にもう一度、別れを言いたくて」
扉の前では表情が判別できなかったが、手を伸ばせば届く位置までやってきて、やっとカガリが耐えるように唇を引き結んでいるのが分かった。
カガリも明日は朝から慌ただしい。
カガリが寝ている間に出ていくつもりでカガリもそれを了承し、就寝前の挨拶が最後の会話だと思っていたアスランだったが、果たして今カガリがここにいることは予想外なのか、それとも心の底で望んでいたことなのか自分でもよく分からなかった。
最後にカガリに会えば迷いが生じ決心が鈍る。
カガリの寝顔を見届けて、静かにこの家を去りたかった。
しかし、やはり最後にカガリに会いたいと本心は告げていて。
移民計画とアスランが移民艦の艦長になったlことを告げたとき、カガリは激高し、散々アスランを責めて、そして何日間も泣き続けた。
何度も説得を試みたがアスランの心は変えられないと悟って、最後には認めてくれた。
「うん。有難う、カガリ」
柔らかな微笑みを浮かべたアスランだったが、カガリは呼応せずにうつむいた。
「分かってる・・・。アスランがプラントの為に、ファーストに行くっていうことは。でも・・・」
己を律していたカガリだったが、、細い身体が小刻みに震えだす。
「どうしてよりによって、こんな日に・・・」
「すまない。式は明日だというのに、バタバタさせてしまって」
明日、カガリはシンと結婚式を挙げる。
カガリにとっても今夜は、この家で過ごす最後の夜だった。
ジェネシスの出港日と、カガリの結婚式が重なったのは全くの偶然だったが、カガリの花嫁姿を見ないで済むのだとアスランはほっとすると同時に、やはりこれは天の采配だと思った。
カガリを事故に合わせ、長い眠りに付かせ記憶まで奪った残酷な神の唯一の良心。
アスランが去りカガリが嫁ぎ、二人で数年間暮らしてきた家も、明日からは無人になる。
部屋の奥に閉まってあった大量のペットロボと、三十年間書き続けたカガリへの手紙も全てこの手で処分した。
カガリと過ごした思い出の場所を整理し、カガリに渡すはずだった大切な物たちを廃棄しながら、まるで死に行く前の身辺整理のようだとアスランは思った。
しかし、その感覚は間違っていない。
アスランがプラントの地を踏むことは二度となく、カガリに再び会うことは決して無い。
これは、合法的な自殺だ。
カガリが自分以外の男の花嫁になるなんて耐えられない。
正気で居られる自信はまるで無く、そんな地獄を見せられるくらいなら、死ぬより他に選択肢は無いと純粋に思った。
けれど手首を切ったり、あからさまな方法をとったらカガリがどんなに苦しむか。
優しいカガリは自殺の原因が分からなくとも、何故気付いてあげられなかったのかと自分を責め続けるだろう。
訓練中の事故死と見せかけて死ぬことも考えたが、自分が死ねばやはりカガリは悲しむ。
熱情に身を焦がしながらも、カガリの心を傷つけることだけは絶対にしたくなかった。
三十数年前に散々カガリを傷つけた。
だからアスランはカガリがコールドスリープに入るときに、カガリを二度と傷つけたりしないと誓ったのだ。
移民計画はプラントに二度と戻ることは無く本質的には「死」と同じだが、アスランは宇宙のどこか、何十光年先で生きている。
それならばカガリも少しは救われると思った。
「アスラン・・・」
カガリは身体を震わせたまま、アスランを見つめていた。
伝えたいことはたくさんあるのに、それが言葉にならないようで、ぎゅっと寝巻の裾を掴んでいる。
しばらく見つめ合っていた二人だったが、やがてカガリが意を決したようにゆっくりと頭を深く下げ、上半身を折った。
「アスラン、今まで、本当に、お世話になりました」