第三夜


シンはアスランの喉元からおそるおそる刃を離すと、呆然と呟いた。

「俺、勝った・・・?」

シンの声に、訓練室は止まっていた時が動き出したかのように一気に騒がしくなった。
試合を見守っていた兵士たちが、立ち尽くすシンを一斉に囲む。

「シン、お前まじで凄いよ!」

「やっば!信じられん!」

己を取り囲む級友たちの賞賛に、シンは今だに信じられないという面持ちだ。

「本当に、俺、アスランに勝ったのか・・・?」

自分が当事者であるはずなのに、確認するように友人の顔を見つめるシンを、アスランはすぐ傍で凝視していた。
その右手はじんじんと痺れている。
握っていたはずのナイフは二メートルほど後方に転がっていた。

―――馬鹿な

信じられなかった。
自分がシンに負けるなど、思ってもみなかった。
これから徐々に衰えるアスランと、みるみる成長していくシンだ、いつかこんな日が来るとはもちろん理解はしていたし、それはコーディネーターとて抗えない自然の摂理だということも分かっている。
さらに言えば、アスランは数か月ナイフを握っていなかったところに、準備運動も無しにいきなり実践に入ったのだ。
ちゃんと訓練をし、次にシンを刃を交えることがあれば、アスランが勝つ可能性の方が今はまだ高い。
完全にシンに追い越されたわけではない。
それでも今この試合に負けたことが、アスランの僅かに残った望みを打ち砕いた。
アスランにとってこの試合は、シンにせがまれたただのデモンストレーションではない。
もっと重い、カガリを賭けた一戦だったのだ。

「お疲れ様です、ザラ教官。久しぶりに身体を動かされましたね」

「ああ・・・」

副官に頷くと、アスランは絶望が吹き荒れる胸の内を教官という仮面の下に隠した。

「シン、お前強くなったじゃないか。びっくりしたよ」

「本当っ・・・で、ありますか?でもザラ教官から一本取れるなんて、マグレでも嬉しいです!」

本当にうれしいのだろう、シンはこみ上げる喜びに頬を蒸気させている。
きらきらした瞳が眩しかった。
級友達がからかい半分にシンを窘める。

「調子に乗るなよ、マグレに決まってるだろう」

「うるさないな、それは分かってるよ」

「いや、負けたよ」

シンと周りの兵士、そして副官が驚いたようにアスランを見た。

「完敗だった。お前は日々成長してる。もうしばらくしたら、俺はお前に手も足も出なくなるだろう」

「教官、煽ては駄目ですよ。シンはすぐ調子に乗るんですから」

副官の言葉にシンが抗議の声を上げ、場が盛り上がるのを見届けて、アスランは訓練室を後にする。
次の打ち合わせまで、まだ時間があったので、逃げるように私室へ向かった。

煽てでは決してなかった。
十七歳という未来への途方もない可能性を持ち、今まさに伸びていこうとするシンと、斜陽に差し掛かったアスラン。
おまけにシンはアスランに匹敵するほどの身体能力と戦闘の勘を持っていた。
力関係はもうすぐ逆転する。


耐えるように私室にたどり着いたアスランは、電気もつけず大股でデスクの前に向かうと、置いてあった書類を一気に床に落とした。
そのまま思いっきりデスクを蹴飛ばせば、その衝撃で床に落ちたライトの割れる音が部屋中に響く。
デスクの引き出しを乱暴に開け、閉まってあったものをなりふり構わず鷲掴み、床に叩きつける。
目につくものをひとしきり滅茶苦茶にすると、アスランはそのまま床に座り込んだ。
額には汗が滲み、息は切れている。
見渡せば、まるで空き巣に入られたように室内は滅茶苦茶だった。
何にあたったのは初めてだった。
誰かに見られているわけではないのに、アスランは顔を伏せ、右手でその顔を覆う。

―――分かっていた、ことじゃないか

胸の奥で必死に訴えてくる何かに、アスランは断腸の思いで言い聞かせる。
頭では分かっていたことが、はっきりと目に見える形として突き付けられただけだ。
これから衰え失っていくばかりのアスランに、出る幕など初めからなかった。
世代交代なのだ。
カガリをシンに受け渡さなくてはいけない。

「っう・・・」

呼吸が上手くできなくて、アスランは喘いだ。
アスランの決断を本能が全身全霊で拒むかのようにアスランの身体は震えている。
三十年想い続けてきたカガリへの恋心が邪魔をする。
それでも今決断しなければ、きっともうこんな機会は巡ってこない。
アスランは嫌だと必死に抵抗する感情を、精神力で抑え込む。
カガリは大切な大切な婚約者だ。
次にシンに打ちのめされるようなことがあれば、諦めるのではなくシンを認めるのでもなく、嫉妬にかられた自分は二人をめちゃくちゃに壊してしまうだろう。
シンだけではなく、カガリをも。

「カガ、リ・・・」

カガリはオーブ前々代表の一人娘だ。
世界情勢は落ち着き、カガリ自信に何も権限はないが、十年あるいは二十年後、もし何かあったとき、老年に差し掛かった自分はカガリを守り通すことはできない。
シンと同じ溌剌とした若さを持つカガリ。
二人が並んでいる姿を思い起こせば、それはとても似合いの二人だった。
それに比べて、カガリの隣に並んだ自分の何と不釣り合いなことか。

「うっ・・・」

もう潮時だ。
諦めなければいけないのだろう。
もう二度と、あの頃のようにカガリがアスランを好いてくれることはない。
道は違え、カガリはカガリの道を歩んでいく。
その道を、アスランは一緒に歩んでいくことはできない。

「カガリ・・・」

頬を伝う熱い雫を感じながら、アスランはカガリを諦め、そして決意した。
純粋にカガリの行く先を見守ろうと。
いつか、カガリを幸せにしてくれる人が現れるまで。

それがアスランがカガリに出来る最高の愛情表現なのだろうから。
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