CPなし・単体
バイオリンの音が聞こえてきた。講堂の方から、美しいビブラートが響く。バイオリンが弾ける子は数名知っているが、こんなに綺麗に弾ける人はいなかったはずだ。
しばらく聞いていると、バイオリンの音色は止んだ。もう少し聴いていたかったのだが、仕方がない。聞こえてきた旋律の余韻に浸りながら眠ろう。
そう、眠ろうとしていた時。今度はピアノの音がした。小鳥がさえずるような軽やかなメロディが始まる。バイオリンの音が止まってから一分も経たないうちに、また誰かの演奏が始まった。もっと近くで聞きたい。いつのまにか自分の足は講堂の方へ動き出していた。
向かっている途中にも音色が変わる。小鳥のさえずりはいつの間にか馬のひづめの音に変わり、次は川のせせらぎになり、何かがドアを叩く音になり、今度は桜が舞う風景が見えるような、目まぐるしく美しいメドレー。一体誰なんだ。どんな人なんだ。講堂に立ち入る。
人影は見えない。バイオリンとピアノを弾く人間の二人いると思っていたのだが、ピアノの周りには現在の演奏者しかいない。目を凝らして見てみる。確認できたのは、黒髪と、白い長袖のTシャツ、そして、裸足でピアノのペダルを踏んでいる。肝心の顔と手元はグランドピアノの裏だ。しかし、今「ピアノから頭が出るほどの子ども」はいただろうか?この角度からだとまだ身長が足りていない自分たちは頭すら出ないはずだ。誰なのだ。回り込むと、かなりの猫背をしている人物が見えた。しかし、確実にその人物の指は正確で、それでいて自由な旋律を奏でていた。奇妙だ。目の前の奇妙な人間の演奏を、耳だけでなく目にも焼き付けたい。自分の感覚は、全て奪われた。
次の音が鳴らない。最後になった音がまだ、講堂に残っている。目の前の人がペダルから足を離し、わずかに残っていた音は聞こえなくなった。今この瞬間、演奏が止まったのだ。すると、あの人が階段を下りてくる。見たこともない人。感覚を全て奪われた私は、講堂へ向かったときのように足を動かすことができなかった。
完全に静止した自分から2メートル離れたところで、あの人は言った。
「たまにはいいですね、人に聞いてもらうのも」
このレベルの演奏を人に聞いてもらう機会がないのか、あるいはあえてそうしていなかったのか、私にはわからない。しかし、私から、絶対に言わなければならないことがある。
「……あなたの演奏、素晴らしかった」
言葉を紡ぎたい。あなたの旋律から受けた感動を伝えたい。そう強く思うのに、これ以上の言葉は出てこなかった。
「ありがとうございます。満足したので、これで失礼します」
そう言って、自分の横を通りすぎて講堂の出入り口へ歩いて行った。振り返ると、彼はもういなかった。今頃になり、言いたいことが次から次へあふれ出してくる。いつからどうしてここにいたのかとか、もしかしてバイオリンもあなただったのかとか、どこでそんな技術を得たのかとか、音楽で食っているのかとか、ああ、あと、あとは……。
名前、とか。
聞き忘れてしまった。あなたが誰で何をしているのか。こんな音も人も、聞いたことも見たこともない。あなたのことを聞けばよかった。
でも、たらればを繰り返していくうちに気づいた。見たことも聞いたこともないような人だからこそ、きっと二度見過ごすことはないはずだ。
今度、またあの音色が聴けたなら。その時はいろいろ聞けるといいな、と静けさが広がる講堂を後にした。
ありがとう。あなたの音を忘れない。
しばらく聞いていると、バイオリンの音色は止んだ。もう少し聴いていたかったのだが、仕方がない。聞こえてきた旋律の余韻に浸りながら眠ろう。
そう、眠ろうとしていた時。今度はピアノの音がした。小鳥がさえずるような軽やかなメロディが始まる。バイオリンの音が止まってから一分も経たないうちに、また誰かの演奏が始まった。もっと近くで聞きたい。いつのまにか自分の足は講堂の方へ動き出していた。
向かっている途中にも音色が変わる。小鳥のさえずりはいつの間にか馬のひづめの音に変わり、次は川のせせらぎになり、何かがドアを叩く音になり、今度は桜が舞う風景が見えるような、目まぐるしく美しいメドレー。一体誰なんだ。どんな人なんだ。講堂に立ち入る。
人影は見えない。バイオリンとピアノを弾く人間の二人いると思っていたのだが、ピアノの周りには現在の演奏者しかいない。目を凝らして見てみる。確認できたのは、黒髪と、白い長袖のTシャツ、そして、裸足でピアノのペダルを踏んでいる。肝心の顔と手元はグランドピアノの裏だ。しかし、今「ピアノから頭が出るほどの子ども」はいただろうか?この角度からだとまだ身長が足りていない自分たちは頭すら出ないはずだ。誰なのだ。回り込むと、かなりの猫背をしている人物が見えた。しかし、確実にその人物の指は正確で、それでいて自由な旋律を奏でていた。奇妙だ。目の前の奇妙な人間の演奏を、耳だけでなく目にも焼き付けたい。自分の感覚は、全て奪われた。
次の音が鳴らない。最後になった音がまだ、講堂に残っている。目の前の人がペダルから足を離し、わずかに残っていた音は聞こえなくなった。今この瞬間、演奏が止まったのだ。すると、あの人が階段を下りてくる。見たこともない人。感覚を全て奪われた私は、講堂へ向かったときのように足を動かすことができなかった。
完全に静止した自分から2メートル離れたところで、あの人は言った。
「たまにはいいですね、人に聞いてもらうのも」
このレベルの演奏を人に聞いてもらう機会がないのか、あるいはあえてそうしていなかったのか、私にはわからない。しかし、私から、絶対に言わなければならないことがある。
「……あなたの演奏、素晴らしかった」
言葉を紡ぎたい。あなたの旋律から受けた感動を伝えたい。そう強く思うのに、これ以上の言葉は出てこなかった。
「ありがとうございます。満足したので、これで失礼します」
そう言って、自分の横を通りすぎて講堂の出入り口へ歩いて行った。振り返ると、彼はもういなかった。今頃になり、言いたいことが次から次へあふれ出してくる。いつからどうしてここにいたのかとか、もしかしてバイオリンもあなただったのかとか、どこでそんな技術を得たのかとか、音楽で食っているのかとか、ああ、あと、あとは……。
名前、とか。
聞き忘れてしまった。あなたが誰で何をしているのか。こんな音も人も、聞いたことも見たこともない。あなたのことを聞けばよかった。
でも、たらればを繰り返していくうちに気づいた。見たことも聞いたこともないような人だからこそ、きっと二度見過ごすことはないはずだ。
今度、またあの音色が聴けたなら。その時はいろいろ聞けるといいな、と静けさが広がる講堂を後にした。
ありがとう。あなたの音を忘れない。
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