盈盈一水

 白雪が目を覚ましたのは、一晩経ってからのことだった。猫のような目をぱっちりと開けると、ガバリと勢いよく起き上がり、口元を手で押さえる。


「けほっげほっ……ゔぇっ……」


 白雪が吐き出したのは、大量の水だった。小さな身体の何処にこんな大量の水を飲み込んでいたのか不思議になるほどの、大量の水。
 布団や寝巻きがびしょびしょに濡れ、吸い切れなかった水分が病院のベッドを滴り落ちる。
 辛うじて呼吸を整えていると、彼女の小さな背中を大きな手が摩る。冷えきった身体に、その体温はじんわりと暖かく思えた。


「おい、白雪ィ! 大丈夫か⁉」
「まつだ、さん……お仕事は……?」
「んなもん放り出してきたに決まってんだろーが!」
「えぇ……そんな小野(おのの)篁(たかむら)じゃないんだから……。でも松田さんなら、流刑に処されても成果を挙げてすぐに戻ってきそうですね……」
「オメーは暢気に何の話をしてんだ⁉ こっちは倒れたって聞いて死ぬほど心配したんだぞ! この大馬鹿野郎‼」


 怪我人だという事実を考慮してか、松田による鉄拳制裁は免れた。
 一晩昏倒していて気付かなかったが、どうやら身体中に包帯を巻かれているようだ。お陰で若干動きづらさを感じる。
 そして、厄介な生霊に憑かれていたあの人は、生霊を飛ばしていた女性は、一体どうなったのだろう。白雪はハッと我に返ると、萩原の姿を探した。


「ま、松田さん……萩原さん、大丈夫ですよね。生きて、ますよね……?」
「おう、その点に関しちゃ安心しろ。アイツは憎たらしいくらいピンピンしてるぜ」
「あ〜……良かった……。い、生きてたぁ……」
「その代わり、お前はアイツの部屋でズタボロになってたワケだが……。きちんと説明、できるよなァ?」
「アッハイ」


 松田の眼光が、白雪を射貫く。現役刑事による鋭い眼差しは、白雪の口を割らせるには十分だった。

 萩原に厄介な女の生霊が取り憑いていたこと。彼を金蔓として見ていた割に、べったりと纏わりつくように、粘着するように、かなり執着していたこと。
 引き剥がす際に憐憫の情を抱き、逆に取り殺されそうになったこと。ここで死ぬわけにはいかないと思い、霊力を逆流させたら、萩原の部屋が丸ごと吹き飛んだこと。

 白雪が自身の身に起きた出来事を簡単に纏めて説明すると、松田は頭を抱え、大きな溜め息を吐いた。


「……こんのすけが馬鹿でかくなった理由と、萩の姉ちゃんが威嚇されて近づけねえ理由は分かった」
「え、お姉様がいらっしゃるんですか」
「おう。……もう許可が下りたってことじゃねえの?」


 ちらりと松田が病室の扉を見遣る。するとそこには、涙で顔を濡らす萩原と、亜麻色のロングヘアが特徴的な、涼しく刺すような美貌を持つ女性が傍にいた。垂れ目気味な目元と前髪が萩原と似ている点を見るに、彼女が萩原の姉らしい。こんな爆イケ美女が姉とは何と羨ましいことか。
 内心萩原に嫉妬する白雪の推理を答え合わせるように、美人の女性が自己紹介を始めた。


「初めまして、私は萩原千速(ちはや)。……何度も弟の命を救ってくれて、本当にありがとう」
「……いえ、それが私の、浄霊連隊大隊長としての使命ですから」
「私はな、自分を顧みず他人を救おうとするバカは好きなんだよ。だけどな、本当に命を投げ捨ててしまったら意味がない。君はまだまだ若いんだ。人生という道は、ずっと未来まで続いていく。私は君に、もっと自分を大切にして欲しい」
「……嬉しいお言葉ありがとうございます。ただ……僭越ながら申し上げますと、審神者は職業柄、とても殉職率が高いのです。敵軍に襲われるだけでなく、神隠しの危険性もある。だからといって、簡単に職務を放棄するわけには参りません。日本の歴史が変わり、多くの人の命が失われる可能性も否定できません。だから日々、命がけで敵軍を屠るのです。私にも大佐としての誇りと矜持がある。そのお気持ちだけ、受け取らせていただきますね」


 ふわりと天使の如き微笑みを浮かべる白雪。包帯まみれのせいか、その微笑みは何処か儚げで、触れただけで壊れてしまいそうな繊細さを醸していた。
 対する千速は素直に言葉を受け取られると信じ切っていたのか、きょとんと目を点にした後、豪快に笑い飛ばした。


「あっはははは! 随分と肝の据わった、最高の女じゃないか! コイツらの元で生活させるのは本当に勿体ないよ」
「しかも気立ても器量も良い、男を立てる良い娘なんだよね〜。ホント、別れて正解」
「研二、お前は猛省しろ。お前の言動のせいで白雪ちゃんが死にかけたんだぞ」
「はい……ホントごめんね」
「なんくるないさ〜」
「なんくるないさじゃねェんだわ全然なんくるなってねェだろーが! そもそも萩(オメー)の場合、別れたっつーより死別だろ」
「死別……って一体何があったんですか⁉ 生霊は返しただけで命を取られるほどのことはないはずです……!」


 猫のようにくりくりした、白雪の深紅の目が、カッと見開かれた。彼女の表情からは驚愕が読み取れる。
 こんなに幼気な小娘に、ドロドロした恋愛騒動を聞かせて良いものか。萩原姉弟と松田は全員顔を見合わせて協議する。話し合いの結果、研二が事の顛末を淡々と語り始めた。

 白雪が入院した日の深夜。研二と付き合っていた女が、外傷による大量出血により死亡が確認された。凶器は湾曲した刃物———日本刀———によるものと推測される。もちろん研二には白雪の病室にいたアリバイが証明されており、凶器も発見されておらず、犯人は今も捕まっていない。

 研二の話を傾聴した白雪は頭を抱える。外部の人間からすれば不可解極まりない事件だろう。しかし彼女にとっては犯人は明白だった。
 印契を結びこんのすけを呼び出すと、こんのすけは自分が呼ばれた理由を薄々察知していたようで、いつもぴんと立っている三角の耳と大きなしっぽが垂れ下がっている。


「こんちゃん、私が言いたいこと、分かるよね。……殺害時の映像、出して」
「わ、わかんないっピ……」
「こんなところでタコピーの原罪ごっこしたくないんだけど」
「申し訳ございませんすぐに出します」


 こんのすけは虚空へディスプレイを表示させると、ぷにぷにした肉球で操り、該当する映像を探し出す。
 そうして映し出されたのは、殺害直後に撮られたと推測される、こんのすけ視点の映像だった。
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