黜陟幽明

 松田のアパートにしばらくお邪魔することになった白雪。ちょうど業務も終了し、本庁に戻ろうとするところを拾ったらしいので、そのまま彼のアパートへ上がり込んだ。

 基本的に家に帰る習慣がないのか、ワンルームの中はモノトーンで統一されているものの、生活感が全くなく、置いてあるのはローテーブルとベッドだけ。散らかそうにも、とにかく物がなかった。
 窓から差し込む月光が、洪水のように部屋の中に満ちあふれ、室内は優しい明るさを保っている。


「ほらよ、合い鍵だ。しばらく俺の家で過ごすんだろ? 持っとけ」
「……あ、ありがとうございます」
「俺はこのベッドで寝るから、お前はあっちのロフトで寝ろ。客用の布団は敷いてやる」


 松田はそう言い残すと、ロフトへ上がり、すぐ戻ってきた。本当に客用布団を敷いただけのようだ。そして簡単に部屋の案内を済ませると、さっと風呂場へ向かってしまった。

 これはもう寝ろと暗に告げているのだろうか。しかし仕事帰りできっと疲れているはず。何より白雪自身も、目が眩みそうな空腹を覚えていた。
 勝手に冷蔵庫を開けてごめんなさいと心の中で謝罪しつつ、使えそうな食材と調味料を物色する。
 卵に白だし、米、味噌、キャベツ、粉末の出汁パック、そして油揚げ。野菜がキャベツだけ、しかも食べ頃をとうに過ぎ去りギリギリ食べられるかどうかの瀬戸際のそれは、食材に入れるかどうか迷った末の選択だった。

*

 松田がシャワーから上がると、だしの美味しそうな香りが彼の鼻を擽る。テーブルの上にはほかほかの湯気が立ち昇る、素朴な和食が広がっていた。


「松田さん、勝手に冷蔵庫を触ってごめんなさい。仕事終わりで直帰だったから、きっとお腹が空いていると思って……勝手に作っちゃいました。要らないなら残していただいて構いません」
「いや、食う。……サンキューな」


 思わず唾を飲むような、素晴らしく美味しそうな料理を目前にして、そのまま眠らずにいられようか。松田は大口を開けて料理に食らいつく。
 雪の中二週間も飲まず食わずにいた貪欲な狼。それが取り憑いたかのように、松田はがつがつと料理にかぶりついた。
 勢いよく料理に食らいつく松田に対し、白雪は丁寧に、優雅に、ゆっくりと食べ進めていた。

 見事ぺろりと完食し、皿の上は綺麗に何もなくなった。白雪は食器を片づけようと立ち上がったが、それを制止したのは松田だ。


「え、で……でも、家主の方を扱き使う訳には」
「気にすんなよ、役割分担ってヤツだ。お前は飯を作る、俺は金を出す。基本的には前払い制にしようと思ってる。今回は元々ウチにあった材料で作ってくれたからな、それくらいはさせてくれ」
「えっと、では……お言葉に甘えて」


 おずおずと座り込む白雪。それを見た松田は満足そうに、にかっと満面の笑顔を浮かべた。歳は彼の方が上のはずなのに、その笑顔は何処か幼く見えた。


「良い事教えてやるよ。男の一人暮らしってのはな、基本的にカップ麺で事足りるんだぜ。栄養バランスなんざ考えた事もねェ。だから調理器具なんて大層なもん、この家にはねーんだわ」
「は、はぁ……なるほど?」
「だから、次の休みに買いに行くぞ。美味い飯は作る人間の技術だけじゃなくて、手入れされた調理器具も必要だ……って諸伏が言ってたしな。とりあえずは今の調理器具で頑張ってくれ」
「わ……分かりました!」


 白雪は思い出した。確かにこの部屋には、片手鍋と包丁とまな板くらいしかなかった事を。そのうえ包丁は研がれておらず、更に刃毀れもしていた。これでは食感が損なわれてしまう事だろう。
 食材だけでなく、調理器具もやりくりして買い足したい。電子レンジはあるものの、オーブン機能もない最低限の商品だ。オーブン機能が使用できれば、より作れる種類も増えるというもの。

 買い物を楽しみに待つ白雪の表情は、よこしまのかけらもなく、とてもキラキラと輝いていた。その無邪気さがどことなく松田を擽る。
 松田は、そのおぼこさを。そのあどけなさを。手折ってやりたくなった。


「飯、美味かったぜ。ありがとうな」
「ぴゃあ……」


 松田がベッドに潜り込む直前、にやりと挑発的に笑う。その時、八重歯の見えるのが妙に誘惑的で、白雪の顔を一気に牡丹色に染め上げる。
 動揺の色を隠せない白雪は、ぽんっとこんのすけを召還すると、その腹に顔を埋めた。一部始終を他人事のように眺めていたこんのすけは、初心な主人をチベスナフェイスで対応する。


「こここ、こんちゃん……! お、大人のおとこのひとって……あ、あんなに狡いの……⁉」
(この人いつか唆されそうだな)
「こんちゃんどうしよう、私の心臓が持ちそうにないよぅ……」
「知りませんよ〜、主さまが勝手に押しかけたんでしょうに」
「ちゃんとお話聞いてよぉ〜!」


 この会話はもちろん狸寝入りしていた松田にバッチリと聞かれており、コイツ大丈夫かと心配する反面、笑いを噛み殺すのに必死になっていた。
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