第43話

 ダイゴが病室を退室してから、しばらくが経った。相変わらず部屋の空気は凍てついたままで、誰一人喋ろうとしない。
 マノンはサニワを見遣ると、彼女の真っ白で、華奢な身体がかたかたと震えていた。呼吸もどこか荒い。


「ノンノン! 心配しなくてもダイゴさんは、きっと説得してくれる! この病院の庭にね、リハビリ出来るようにバトルフィールドがあるんだ! だから、ポケモンバトルで追っ払ってくれるよ! ダイゴさんチャンピオンだし、とーっても強いんでしょ?」
「そう……マノンくんの言う通りさ。それに私はレディの味方だからね、私も説得に回ろう」
「博士はバトルで説得しないの?」
「それはカルネさんとダイゴさんに任せるよ。キバナさんはガラル地方のジムリーダーだけど、他の地方ではチャンピオンに匹敵する強さだしね……。正直、一度に二人を相手するのはちょっと……」


 たはは……とプラターヌ博士は笑って誤魔化そうとするものの、サニワの表情は晴れることはない。まるで神に縋るかのように、神に祈るかのように。力ない両手で、両手を組んでいた。

 それから、更にしばらくの時間が経った頃。扉の向こう側から、二人分の足音が聞こえてくる。それを耳に入れたサニワは、マノンとプラターヌ博士に感情を気取られたくないのか。再度唇を噛みしめると、顔を伏せた。


「サニワくん! 大丈夫かい⁉︎ あぁ……こんなに痩せ細ってしまって……!」
「……こんな目に遭うんだったら、デボンの御曹司なんかに任せるんじゃなかったぜ」


 病室を訪れたのは、ダイゴとカルネのチャンピオン二人組ではなかった。ダンデとキバナだ。恐らく説得に失敗し、バトルに持ち込んだものの敗北したのだろう。
 サニワはせめてもの抵抗で、二人の顔も見たくないという頑なな意思表示を出していた。伏せたまま、ダンデたちの顔を上げようともしない。


「さ、ガラルに帰ろう。これ以上君が傷つくのは見ていたくないんだ」
「ちょっと待って! サニワさん、ガラルに帰りたくないのに無理やり帰らせるの⁉︎ 少しはサニワさんの意見も聞いてあげてよ‼︎」
「……誰だよ、オマエ」


 マノンが咄嗟に口を挟む。部外者は黙っていろと言わんばかりに、キバナの鋭い眼光が彼女を捉える。ところが一瞬怯んだものの、マノンの意思は折れることはない。
 プラターヌ博士が庇うようにサニワとマノンの前へ躍り出ると、自己紹介を交えて退室を促した。この病室で侃侃諤諤の議論を戦わせるのは、サニワも疲れてしまうだろう、と。彼女自身の話題ならばなおさらだ。
 ダンデとキバナもプラターヌ博士の考えには同意したのか、来た道を翻した。プラターヌ博士は席を外し、マノンとハリさんも慌てて後を追う。

 咄嗟にサニワはマノンの服の裾を掴んだ。その腕はかたかたと震えており、両目からは今にも大粒の涙が零れ落ちてしまいそうだ。ただでさえ儚い印象のサニワだったが、少しでも触れれば一瞬で崩れ落ちそうで。まるで、解けゆく淡雪の精霊のようだった。
 少しでも安心させようと、マノンはぎゅっとサニワの手を握る。その手はひんやりとしていて、不安が現れていると感じた。


「ノンノン、心配ご無用! 説得だけならバトルの腕は関係ないもん! バトルなら瞬殺だけどね、あはは……」
「マノンさん……励ましてくれて、本当にありがとうございます」


 頑張って笑みを浮かべようとするサニワ。ぎこちない笑顔が、余計にマノンの胸を締めつける。思わずマノンも釣られて一瞬泣いてしまいそうになるが、ぐっと堪えて、キマワリのような笑みで元気づけると、プラターヌ博士の後を追っていった。

 ドアの向こう側から議論する声が、サニワの耳に途切れ途切れになりつつも届く。時々聞こえる男声の不機嫌そうな声から察するに、事態は進展せずに甲論乙駁となっているのだろう。

 あれから、かなりの時間が経過した。サニワの祈る両の手は、いまだ震えが止まっていない。
 再び部屋に戻ってきたのは、プラターヌ博士とマノン、ハリさんではなく、ダンデとキバナだった。
 絶望の淵に叩き落とされたサニワは、顔を上げることなく、ただ俯いていた。その華奢な身体と、かすかに絞り出される声は震えている。


「サニワくん、しばらく入院することになるが……退院したら、共にガラルへ帰ろう。皆心配しているよ」
「行かない。……私の帰る場所は、ガラル地方じゃない」
「お、ちゃんと喋れるようになってんじゃん! そのチョーカー、翻訳機にでもなってんのか?」
「……」
「フルシカトかよ……。なあサニワ、ちゃんとお喋りしようぜ? 反応ないとオレサマちょー寂しい〜」
「……どうせ話が通じないのに、喋る価値があるとでも? 話すだけ時間の無駄」
「っふふ、反抗期かい? 構って欲しくて悪態をつくのも可愛いな」


 塩を通して岩塩並の対応をするサニワからは、頑なに帰らないという意思を感じる。それでもキバナとダンデはめげない。
 必死にガラルへ戻るように説得するが、サニワは首を縦に振ることはなかった。


「なあ、サニワくん。君はガラル地方だけでなく、この世界(星)全体を救った英雄なんだよ。君は庇護下に置かれるべきなんだ」
「オレサマが悪いヤツからオマエを守ってやるからな! 怖い目にも遭わせねえし、怯える必要もねえのさ。ガラルなら安心して暮らせるぜ?」
「私は絶対に戻らない! ガラルに定住するなら、死んだ方がマシだ‼︎」
「オイオイ、酷え言い様だなあ! キツイ冗談は止せ、よ……」


 笑い飛ばすキバナだったが、サニワが手にしているものを見ると、その顔もすぐに焦燥のそれに変わる。
 サニワが手にしているのは、銀色に煌めく果物ナイフ———チャンピオン勢がお見舞いの品として、きのみの皮を剝くために持ち込んだもの———だった。
 咄嗟にダンデだけでなく、サーナイトすらも彼女の行動を止めようとしたが、ほんの一瞬、遅かった。自らの手で、果物ナイフを腹に突き立てたのだ。


「ッおい馬鹿! 何やってんだよ‼︎」
「……言っただろう、死んだ方がマシだと。それ、を……有言実行しただけだ」
「早く! ナースを……医者を呼んでくれ!」


 激痛に顔を顰め、呼吸もままならないサニワ。キバナは彼女の行為を咎めて刃物を取り上げ、ダンデは近くに転がっていたナースコールを連打した。
 まるで硯をひっくり返して墨汁をぶちまけたかの如く、赤黒い色が徐々に布団に染み渡っていく。部屋は血腥い臭いが充満し、その惨状を見た看護師と医師、そしてプラターヌ博士とマノンは思わず絶句した。
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