★お題小説
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【第一話 世界の色が変わった日】
私は毎晩同じ夢を見る。
『カカロットォォッ!!』
『ブロリーッ!!』
まただ。いかにも屈強な男達が激しく攻防を繰り広げるシーン。
だが、何故かいつも途中で場面が切り替わる。
『おめえを……』
またこの展開。先程の屈強な男の一人と私が二人きりで向かい合っている。
いつも笑顔が眩しい人。何か伝えてくれているのに、何故か肝心な所がよく聞こえない。
『おめえが……』
ダメだ、分からない。だから後に、一体何が起こるのかを全く知らなかった。
朝、スマホのアラームで起こされる。精一杯腕を伸ばしてアラームを止める。上体を起こした私は自分の胸に掌をそっと宛がった。
「また逢えたな」
私には幼少から不思議な力が備わっている。それは所謂未来を予見する夢。
初めて勇気を出して友達に話した時は全然信じてもらえず、『それ気味悪いから、誰にも言わない方が良いよ』と酷いことを言われて、ショックを受けた記憶がある。
それ以来、この力は秘密にして、勿論親にも内緒にしている。
でも私はこの能力を気味悪いとは、微塵も思わない。
それどころか、初めてあの夢を予知した時、まるで太陽のような眩しい笑顔の人を見て一目で恋に落ちた。
夢の中でしか逢えない彼の笑みは、心がほんわかと温かくなる。私には元気を分けて貰える、太陽そのものだ。
だから嫌なことがあった時、彼の夢を見た翌朝は嘘のように元気になれるため、睡眠が私の楽しみでもある。
これが本当に未来の出来事なのかは自信ないが。
何年も繰り返し同じ夢を見るってことは、予知夢だろうと何となく思ってるだけであって。だから、あくまでも私の希望的観測でしかない。
私はそんなことを考えつつ、出かける支度を整えて玄関を出た。
実は夢の影響もあり、昔から武術を嗜んでおり、これでも少しは名の知れた武道家でもある。
毎朝5キロのランニングが日課になっている私は、自宅マンションの八階の階段を颯爽と駆け降りていく。
軽快な足取りで降下していた私は、うっかり油断していた。
次の瞬間、バランスを崩して勢いよく階段から転げ落ちていく。どうやら、運悪くシューズ紐が解けて踏んづけてしまったらしい。
転がりながら全身に痛みを伴いつつ、骨折もしくは運が悪ければ死ぬかもしれない。
最悪の事態が一瞬で頭を過り、怪我を最小限にとどめようと、咄嗟に受け身を取った。
回転しながら階段を落ちて、踊り場に着地する寸前。
突如、眩い光とともに巨大な穴が空いて、為す術もないまま落下していく。
「っ……いけない!」
私は受け身を取ったまま、着地の体勢に入る。
その時、真下から強烈な光の渦に飲み込まれ、意識はそこで途切れた。
【第二話 奇跡に等しい確率で】
「……ねぇ……ちゃ……」
誰かが呼んでいる?
「お姉ちゃん起きてってば!」
「!」
子供の呼びかけで、一気に意識が浮上する。
この柔らかい感触からして、どうやらベッドに寝かされているようだ。
「良かったあ。目が覚めたね、お姉ちゃん!」
ふと私を覗き込む見知らぬ男の子と目が合う。
この子どこかで……。
「君は?」
「ボク、悟天! お姉ちゃんの名前は?」
「私は名無しさんだ。よろしくな、悟天くん」
「うん!」
悟天くんは天使の様な可愛らしい笑みを向けてくれる。
「……あれ?」
「?」
第一印象から気になっていたが、悟天くんの服装、髪型、何となく見覚えのある笑顔。全部含めて初対面の気がしない。
「悟天く──」
私が声をかけようとした時、ドアを軽く叩く音が聞こえた。
「悟天、その子起きたんか?」
「うん、今名前聞いたとこ。名無しさんちゃんだよ、お父さん」
「そうか。今そっちに行くぞ」
この声は、もしかすると……。
だが私は、悟天くんが“お父さん”と呼ぶことが気になった。
ドアが開いて、一歩ずつ近づく足音に、胸が早鐘を撞くように高鳴る。
そして、ぬっと黒い影が重なり、その人と視線が絡んだ瞬間、本気で息が止まるかと思った。
「でえじょうぶか? おめえ、具合悪くねえか?」
喉がからからに渇いて上手く声が出ない。
「ん? もしかして、オラの言葉が通じねえんか?」
惚けたことを訊く男に、悟天くんが眉間に皺を寄せて腰に手を当てる。
「それは違うよ、お父さん。ボクがさっき名前聞いたって言ったでしょ」
「ハハハ、そうだっけな!」
後頭部に手を当てて豪快に笑う彼。
「プッ」
私は思わず吹き出していた。
目の前にいる彼がイメージ通りの人だったため、安心したのも事実。
「あ、名無しさんちゃんがお父さんを見て笑ったよ!」
「へ? オラ、変なこと言ったか?」
「さあ?」
夢で何度も見た彼にやっと逢えたんだ。でも“お父さん”か。
私はやっとの思いで彼に出逢えた悦びや安心感と、それ以上に彼には子供がいるという衝撃的な事実を知り、複雑な感情が入り交じっていた。
「おーい」
「!?」
気づくと、彼がドアップで私を覗いている。途端、顔から火が出そうなくらい熱くなった。
「おっ、真っ赤んなったぞ。名無しさんだっけか? おめえ、面白ぇな!」
「っ……」
「お父さん、からかわないの! 名無しさんちゃん気にしないでね? お父さんはデリカシーないんだから」
悟天くんって何気に毒舌なのか?
「ひっでえなあ、悟天。仮にも父ちゃんに向かって言うことじゃねえぞ」
「だってホントのことだもん」
「おめえ冷てえよなあ」
「自業自得だよ」
二人の会話をぼんやりと聞きながら私は思った。
彼が悟天くんの父親ってことは、もちろん奥さんがいるんだよな。
心臓が針でチクチク刺されたかと思うぐらいショックだったが。それでも、私は……。
【第三話 分からないことだらけの恋】
上体を起こした私は、彼に質問したいことがあった。
「ちょっと訊きたいことがあるんだが」
「オラに分かることなら何でも答えっぞ」
彼はニッと白く健康的な歯を見せた。
その朗らかな笑顔に安堵しつつ、私は彼に質問する。
「あなたの名前は?」
「あーそういや、自己紹介がまだだったな。オラは悟天の父親の孫悟空だ」
孫悟空、と心の中で復唱した。
うん、彼にピッタリの良い名前だ。
「改めてよろしくな、名無しさん!」
悟空は満面に笑みを浮かべたまま、握手を求めてくる。
私が右手を差し出すと、彼はそれを優しく握って、その上に左手を重ねた。
「あ……こちらこそ」
少し気恥ずかしくなりつつ、私は素直に頷いた。
「へへ、名無しさんは素直な良い女だな!」
「えっ……」
悟空の飾らない物言いに一瞬言葉に詰まる。
「ねえねえ、名無しさんちゃんはどこから来たの?」
私が地名を教えると、悟空と悟天くんは互いの顔を見合わせた。
「そんなとこ聞いたことねえよなあ、悟天」
「うん、ボクも知らない。学校の授業でも出てこないよ?」
「えっ、ここは日本じゃないのか?」
「日本? 違ぇよ、ここはパオズ山だ」
「パオズ山……」
はっきり言って、そんな山知らなかった。というより、パオズ山なんて日本にはない。私は血の気が引くのを感じた。
「名無しさんちゃん大丈夫?」
「おめえ、顔が真っ青だぞ」
二人が心配そうに私の顔を覗き込む。
「だ、大丈夫だ」
思いの外動揺していたが、私はそう答えるだけで精一杯だった。
もしかすると、私は別の世界に紛れ込んだのかもしれない。そうだとしたら、何もかも辻褄が合う。そうか、ここは異世界なんだ。悟空に逢いたいとばかり願っていたのは本心だが、彼に出逢うということは、自分の世界と決別するということで。
やっと事の重大さに気づいた私は小さく息を吐いた。
「名無しさん?」
「え?」
「おめえの身に一体ぇ何があったんだ? 良けりゃ詳しく教えてくんねえか?」
「あ、ああ」
私はこれまでの経緯を順繰り話す。
これまで悟空の夢を幾度となく見ていることと、今朝自分の身に起きた不思議な出来事を。ただ、悟空に一目惚れしたことを除いては。
気になったのは、悟空の表情が険しく変わったことだ。
「悟空?」
「なあ、名無しさん。夢ん中のオラは、確かにブロリーって叫んだんだな?」
「ああ」
「そうか」
悟空は一言呟いて押し黙る。
「お父さん、ブロリーって誰なの?」
「悟天、おめえは知らなくても良いことだ。良い子だから、余計な詮索はすんなよ?」
「え?」
「分かったな?」
「うん、分かった」
ブロリーについて、もっと詳しく訊いてみたかったが、悟空の様子を見た私は難しそうだと判断した。
悟空が反応したブロリーの件で、私の問題はうやむやになってしまったな。
しかし、起きてしまったことを嘆いても仕方ない。
今後の身の振り方を真剣に考えねばならなかった。
【第四話 確かなもの一つだけ】
あれから、悟天くんがハチミツ入りのホットミルクを持って来てくれて、それを飲んだ私は睡魔に襲われ、深く眠り込んでしまった。
次に目が覚めた時、ふと目に入った時計は六時を回り、窓辺から朝日が差し込んでいた。
「ん……」
私は身体を起こし、寝惚け眼で辺りを見回す。
「そういえば、ここは私の家じゃないんだったな」
それと一つ気になったのは、この世界に来た途端、何故か予知夢を全く見なかったことだ。考えたところで、一向に答えは出なかったが。
ベッドから降りた私は顔を洗うため部屋を出た。
すると、そこには悟天くんが手慣れた様子で朝食の支度をしている。リビングキッチンには美味しそうな匂いが漂っていた。
と、私の腹の虫が盛大に鳴り響く。
そこで、悟天くんが振り返った。
「名無しさんちゃんおはよう!」
「おはよう、随分早いな」
「うん、お父さんも朝は早いよ。いつも武術の鍛練するのが日課なんだ」
「そうか」
自然と笑みが浮かんだ。
悟空も私と同じ穴の狢というわけか。
いや、私が彼と同様の道を選んだんだ。夢の中の彼に憧れを抱いて。
「名無しさんちゃん、お腹空いたでしょ? 昨日はミルクしか飲んでないもんね」
「ハハ、確かにな」
「もう少しだけ待ってて。今飛びっきり美味しいご飯が出来るからさ!」
ふと私は疑問に思った。
何故、悟天くんが朝食の支度をしているんだ? 悟空の奥さんは?
そういえば、昨日も姿がなかった。
どういうことだろう?
「なあ、悟天くん」
「ん~?」
「悟天くんのお母さんは?」
「!?」
私の質問に悟天くんの動きが止まった。
……もしかして、地雷でも踏んだか?
「知らない……っていうか、その話はしないで」
悟天くんは何か感情を押し殺すように呟いた。
「あ……悪い。余計なことを訊いたな」
私はばつが悪くなり、悟天くんに謝罪した。
「良いよ。それよりもさ、そこの水道で顔洗って? 名無しさんちゃんのタオル用意しといたからさ」
悟天くんはまるで何事もなかったように、朝食の用意を再開する。
恐らく孫夫婦の間で、何かがあったんだろう。
私はこれ以上、悟天くんの心に踏み込めない侘しさを感じていた。
「……ああ、分かった。すまない、悟天くん」
「ううん、良いって!」
私は悟天くんの指示通り、水道で何度も洗顔した。鬱憤を振り払うように。
顔を洗い、幾分さっぱりした気分になった私は、真横にいる悟天くんに話しかける。
「私も何か手伝おうか? 一人じゃ大変だろう?」
「平気だよ。これぐらい毎日やってるしね」
「だが……」
「だったら、一つお願いしたいんだけど、もうすぐご飯だよってお父さんを呼んで来てくれないかな? 多分、家の裏手の林で鍛練してるからさ」
「お安い御用だ。家の裏手の林だな?」
悟天くんは私にチラッと視線をくれて「そうだよ、よろしくね!」と答えた。
「分かった。じゃあ、行ってくる」
私は孫家を出て裏手に回り、林に足を踏み入れる。
林中は小鳥のさえずりがそこかしこで聴こえ、それに耳を傾けながら天を仰ぐと、木漏れ日がキラキラ輝いて、心の奥から癒される景色に思わず溜め息が漏れた。まるで一枚の絵画を観ている感覚だ。
以前から街の喧騒に嫌気が差していた私には、きっと最高の環境なんだろう。
そのお蔭なのか、昨日からのショックが次第に和らいでいく気がする。
不条理な世界の中で、その心持ちだけは確かに感受していた。
【第五話 彼の心と交差する時】
悟空の姿を求めて、林を捜索する。
すると、背後の藪の中でがさがさと物音がした。
「!?」
私は咄嗟に振り向き、闘いの構えを取ると、そこに飛び出したのは一匹の可愛らしい野兎だった。
「兎か……神経が過敏になってるな、いけないいけない」
リラックスしようと深呼吸する。
そこへ、素早く木々の間を潜り抜けて、黒い影が飛び降りてきた。
私は反射的に蹴りを喰らわせる。
しかし、私の攻撃は対象者の片手で容易く受け止められてしまった。
「!?」
「よっ、名無しさん!」
黒い影の正体は左手を上げ、にこやかな笑みを浮かべている悟空だった。
「悟空……」
「ん? オラが敵にでも見えたか?」
呵々大笑する悟空と遭遇して、悟天くんの用事を果たせると思い、肩の荷が下りた私は解放された脚を降ろした。
流石悟空。夢の中で屈強な男と対決するだけあって、全く隙がなかった。
私じゃ到底、相手にならないってわけか。
「すまない、悟空。悪気はなかったんだ」
「良いって、気にすんなよ」
悟空はいつもの様に白い歯を見せて笑った。
屈託ない笑顔に癒されつつ、悟天くんには悪いが、どうしても悟空に質問したいことがあった。
恐らく込み入った話かもしれないが、彼に心を寄せる者としては気がかりで仕方なかった。
「なあ、悟空」
「何だ?」
「悟空の家族は……」
「ああ、オラと悟天の二人だけってのが不思議なんか?」
どうやら彼は私の疑問を的確に見抜いていたらしい。
「嫌なら無理に訊きたいとは言わないが……」
「ん? オラに嘘なんかつかなくて良いぜ?」
「どうして……」
「名無しさんの顔に書いてあっぞ。気になってしょうがねえってな」
悟空は「訊きてえんだろ?」と優しく促した。
「ああ、訊きたい」
私は観念して本音を漏らす。
「じゃあ、話すけどよ。面白ぇ話じゃねえぞ?」
私は「分かっている」と神妙に頷いた。
「オラの家族はオラと悟天の他に、チチって嫁と長男の悟飯がいるんだ。けどよ、チチは毎日修業に明け暮れるオラを見てて、寂しかったらしくてよ。ある日、他に好い人が出来たから別れてくれって、悟飯と一緒にパオズ山を出てっちまった」
「そんな……でも、よく悟天くんは残ったな?」
「悟天はオラのために残ったんだと思う。オラは家事がてんでダメだからよ。あいつにはいっつも苦労かけっぱなしで心から悪ぃと思ってる」
「……」
「だからよ、悟天を学校に通わすためと生活のために仕事始めたんだ。友達のブルマにしっかり真面目に働くって約束して、トラック一台貰ってよ。そんで、今は気儘にトラックの運ちゃんやってんだ」
意外と稼げるんだぜ、と悟空はニカッと笑った。
「そうか。悟天くんは勿論だが、悟空も相当苦労してるんだな」
「苦労って程でもねえよ。親なら当然のことだ」
ただ夢で逢っていただけの人だが、彼にもまた目に見えない苦労があったんだ。決して奥さんのことばかり責められないが、悟空と悟天くんが不憫だ。
「おい、名無しさん? 涙なんか流しちまって、どうしたんだ?」
無意識に泣いていたらしい。
涙を拭い、悟空の事情を知った私の一つの決意を固めた。
「私は悟空の手助けがしたい。だから、このままこの世界に残る」
「へ?」
素っ頓狂な声を出す悟空の瞳を仰ぎ見て、彼らに出来る限りの力を尽くそうと心に誓った。
【第六話 呼吸も瞬きも忘れて】
「全く! お父さんの帰りが遅いから、ご飯冷めちゃったじゃないか!」
「悪ぃ悪ぃ、悟天。ちっとばっかし、鍛練に夢中になっちまってよ」
立腹の悟天くんに、悟空が両手を合わせて平謝りに謝る。
「それは……」
「名無しさん」
私が説明しようとすると、悟空は小声で私を呼び、人差し指を唇に当てる。
これは恐らく黙っていろ、ということか。彼はどうやら私を庇ってくれたようだ。
悟空の優しさに胸が温かくなる。
「もうお父さんはいっつも同じことの繰り返しなんだから。もっとしっかりしてよね?」
「分かってるって。それよか、悟天」
「なぁに?」
「オラもう腹減っちまった。飯食っても良いか?」
「ホントに、もう……良いよ、食べても」
そのやり取りに苦笑いするしかない。
「そんじゃ、遠慮なく!」
大食漢、そんな言葉が脳裏に浮かぶ程、二人の食べっぷりの良さに感服するしかなかった。
「名無しさんちゃんも遠慮しないで、お腹いっぱい食べてよね?」
「あ、ああ」
私は曖昧に返事しつつ、野菜スープを一口飲む。
「美味しい」
「ホントに!?」
「うん、本当だ。この味付けは私好みだ。お世辞抜きに美味いよ、悟天くん」
「えへへ。じゃあね、褒めてくれたお礼にデザートの杏仁豆腐出してあげる。ボクの得意料理なんだ!」
得意気に喋る悟天くんが可愛くて可愛くて、思わず腕を伸ばして彼の頭を何度か撫でた。
「わっ、どうしたの?」
「悟天くんが」
「ボクが?」
「頭を撫でたくなる程、可愛いからだよ」
「!?」
私が微笑すると、彼は瞠目し、何故か俯いてしまう。
「悟天くん?」
「ハハハ、悟天のヤツ照れてんだよ。名無しさんがめんごいこと言うからよ」
「めんごい?」
「可愛いって意味だ。オラに言わせりゃ、名無しさんも充分めんごいけどな」
そう言を継いだ悟空は私の頭に手を置き、わしゃわしゃと撫で繰り回す。
「っ……」
私は呼吸も瞬きも忘れて、悟空にされるがまま。
「ん? 名無しさん、固まっちまってどうした?」
「お父さん、名無しさんちゃんの顔見てみなよ」
「ありゃー真っ赤っかだ!」
彼の言う通り、私は耳まで熱くなるのをひしひしと感じていた。
「もしかして、照れてるんじゃないの?」
「そうか、照れてんのか。おーい、名無しさん?」
悟空が私の前で掌をひらひらと振る。
「!?」
「おっ?」
「悟空……頼むから、からかわないで欲しい」
「ハハッ、悪ぃ悪ぃ」
「もう、お父さんってば相変わらず冗談ばっかり」
からから笑う悟空に悟天くんが深く溜め息をつく。
やっぱり、からかわれていただけか。私は少し落胆してしまう。
だが、悟空の次の言葉で私の心は一気に急浮上する。
「でもよ、名無しさんがめんごいってのはホントだぜ?」
「っ……悟空」
「ん?」
「その、ありがとな」
「礼なんか言われることじゃねえよ。オラ、嘘は言わねえかんなあ」
へへへっと得意気に笑う悟空に、どうやら本気で惚れてしまったようだ。
彼の言動一つで、私の心はこんなにも感情が動くのだから。
そう想いながら、悟天くんが出してくれた杏仁豆腐を味わいつつ、賑やかな食卓のひとときは過ぎていった。
【第七話 今なら空も飛べるはず】
朝食後、私は食器の後片付けを手伝っていた。最後の皿を洗い終えて、水切りカゴに置く。
隣では悟天くんが鼻歌を口ずさみながら、布巾で食器を一枚ずつ丁寧に拭いている。
「ご機嫌だな、悟天くん」
「えへへ、分かる? 実はね、今度友達のトランクスくんが遊びに来るんだ!」
「トランクスくん?」
「うん。西の都に住んでる、とってもお金持ちの男の子だよ」
「悟天くんはトランクスくんが、よっぽど好きなんだな」
「もちろん! 大親友だからね!」
ニコッと笑って、嬉しそうに話してくれる悟天くん。
「友達は大事にしないとな」
「うん! あ、でもお父さんも大事だよ? それから、名無しさんちゃんも!」
「!? 悟天くん……」
彼の発言に私は天にも昇る心地だったが、冷静沈着に咳払いを一つ。
「私も悟天くんが大事だぞ?」
「ホントに!? 嬉しいなあ! あーあ、名無しさんちゃんがボクのお母さんだったら良かったのになあ!」
私が悟天くんのお母さん?
彼の母親としての自分をイメージした私は、ぼんっと音が立つ程、顔が熱くなる。
……うん、それは良いかもしれない。
「あれ? 名無しさんちゃん?」
最早、陶酔状態の私には悟天くんの声は届いていない。
「おーい、悟天。オラの道着洗っといてくれ……って、ん?」
「お父さん、名無しさんちゃんがまたトリップしちゃったよ」
「そうみてえだな。おーい、名無しさん! こっちに戻って来ーい!」
悟空の声が聴こえるような気がしたが、一面花畑の私の耳には届かない。
「しょうがねえなあ……」
私の頬に一瞬だけ柔らかい感触が、軽く音を立てて離れていく。
「あっ!」
「え……?」
突発的な出来事に私はギギギと機械音を立て、悟空に顔を向けた。
「ご、悟空?」
「おっ、反応したぞ」
「悟空、今のは……」
私はぎこちない動作で頬に掌を添える。
「分かんなかったか? オラが頬っぺたにチューしたんだぞ」
「っ……」
私はこれ以上ない程、顔がカアッと茹で上がり、朦朧状態になる。
「おい! 名無しさん!?」
倒れる寸前、悟空の逞しい腕に包まれた私はそのまま意識が遠退いていった。
「……あ、なあ、名無しさん」
「ん……?」
すぐ傍で悟空の声が耳に入り、意識を取り戻した私はそちらに視線を向ける。
そこには団扇で私を仰ぐ悟空の姿があった。
「気ぃついたみてえだな、名無しさん」
「悟空、私……」
「おめえ、ぶっ倒れたんだぜ。覚えてっか?」
「何となく……」
気まずいな、この雰囲気。
「なあ、名無しさん」
「な、何だ?」
悟空は僅かだが、浮かない面持ちのような気がする。
「オラのチュー気絶するぐれえ嫌だったんか?」
「え!?」
悟空、何か勘違いしてないか?
そう思った私は、慌てて上体を起こし、咄嗟に悟空の手を握った。
「それは違う、悟空……逆なんだ」
「逆?」
「その、嬉しかったんだよ。悟空のキスが……」
自分で言っていて恥ずかしくなる。
だが、羞恥心に耐える私を見て、悟空は表情が明るくなった。
「何だ、そうだったんか! オラはてっきり嫌がられてると思って、ショックだったからよ!」
「何で悟空がショックなんだ?」
「決まってんだろ。オラが名無しさんを気に入ってっからだ」
悟空は屈託ない笑みを浮かべている。
「え……」
「ん? 伝わらなかったか? 何て言いや良いんだろうな。要するに、オラは名無しさんが好きなんだよ」
「!?」
悟空の突然の告白に驚いた私は、彼の言葉が頭の中でリフレインする。
悟空は私が好き。
どうしよう、柄にもないが涙が出そうな程嬉しい……。
奇跡のような出来事にまるで夢心地だった。
「悟空、私は……」
「名無しさん……」
私が握っていた悟空の手を、彼が握り返して指を絡める。
悟空の顔が私に接近して、互いの唇が重なる寸前。
突然、部屋のドアが開いて「お父さん、名無しさんちゃん起きた?」と、悟天くんが入って来た。
「「!?」」
瞬時に互いの身体を離し、悟空が何事もなかったかの如く「ああ、見ての通りだぞ」と答えるが、僅かに声が上擦っている。
相当な手練れの悟空でも悟天くんの気配に気づかない程、私に意識が集中していたのか。
「二人とも何か変だよ?」
「そんなことねえよ。いつも通りだぞ。なあ、名無しさん?」
「あ、ああ!」
「それよか腹減ったな。悟天、飯まだか?」
「お父さん、そればっかり!」
普段と違う悟空が見れて、新鮮な気分だった。
私は毎晩同じ夢を見る。
『カカロットォォッ!!』
『ブロリーッ!!』
まただ。いかにも屈強な男達が激しく攻防を繰り広げるシーン。
だが、何故かいつも途中で場面が切り替わる。
『おめえを……』
またこの展開。先程の屈強な男の一人と私が二人きりで向かい合っている。
いつも笑顔が眩しい人。何か伝えてくれているのに、何故か肝心な所がよく聞こえない。
『おめえが……』
ダメだ、分からない。だから後に、一体何が起こるのかを全く知らなかった。
朝、スマホのアラームで起こされる。精一杯腕を伸ばしてアラームを止める。上体を起こした私は自分の胸に掌をそっと宛がった。
「また逢えたな」
私には幼少から不思議な力が備わっている。それは所謂未来を予見する夢。
初めて勇気を出して友達に話した時は全然信じてもらえず、『それ気味悪いから、誰にも言わない方が良いよ』と酷いことを言われて、ショックを受けた記憶がある。
それ以来、この力は秘密にして、勿論親にも内緒にしている。
でも私はこの能力を気味悪いとは、微塵も思わない。
それどころか、初めてあの夢を予知した時、まるで太陽のような眩しい笑顔の人を見て一目で恋に落ちた。
夢の中でしか逢えない彼の笑みは、心がほんわかと温かくなる。私には元気を分けて貰える、太陽そのものだ。
だから嫌なことがあった時、彼の夢を見た翌朝は嘘のように元気になれるため、睡眠が私の楽しみでもある。
これが本当に未来の出来事なのかは自信ないが。
何年も繰り返し同じ夢を見るってことは、予知夢だろうと何となく思ってるだけであって。だから、あくまでも私の希望的観測でしかない。
私はそんなことを考えつつ、出かける支度を整えて玄関を出た。
実は夢の影響もあり、昔から武術を嗜んでおり、これでも少しは名の知れた武道家でもある。
毎朝5キロのランニングが日課になっている私は、自宅マンションの八階の階段を颯爽と駆け降りていく。
軽快な足取りで降下していた私は、うっかり油断していた。
次の瞬間、バランスを崩して勢いよく階段から転げ落ちていく。どうやら、運悪くシューズ紐が解けて踏んづけてしまったらしい。
転がりながら全身に痛みを伴いつつ、骨折もしくは運が悪ければ死ぬかもしれない。
最悪の事態が一瞬で頭を過り、怪我を最小限にとどめようと、咄嗟に受け身を取った。
回転しながら階段を落ちて、踊り場に着地する寸前。
突如、眩い光とともに巨大な穴が空いて、為す術もないまま落下していく。
「っ……いけない!」
私は受け身を取ったまま、着地の体勢に入る。
その時、真下から強烈な光の渦に飲み込まれ、意識はそこで途切れた。
【第二話 奇跡に等しい確率で】
「……ねぇ……ちゃ……」
誰かが呼んでいる?
「お姉ちゃん起きてってば!」
「!」
子供の呼びかけで、一気に意識が浮上する。
この柔らかい感触からして、どうやらベッドに寝かされているようだ。
「良かったあ。目が覚めたね、お姉ちゃん!」
ふと私を覗き込む見知らぬ男の子と目が合う。
この子どこかで……。
「君は?」
「ボク、悟天! お姉ちゃんの名前は?」
「私は名無しさんだ。よろしくな、悟天くん」
「うん!」
悟天くんは天使の様な可愛らしい笑みを向けてくれる。
「……あれ?」
「?」
第一印象から気になっていたが、悟天くんの服装、髪型、何となく見覚えのある笑顔。全部含めて初対面の気がしない。
「悟天く──」
私が声をかけようとした時、ドアを軽く叩く音が聞こえた。
「悟天、その子起きたんか?」
「うん、今名前聞いたとこ。名無しさんちゃんだよ、お父さん」
「そうか。今そっちに行くぞ」
この声は、もしかすると……。
だが私は、悟天くんが“お父さん”と呼ぶことが気になった。
ドアが開いて、一歩ずつ近づく足音に、胸が早鐘を撞くように高鳴る。
そして、ぬっと黒い影が重なり、その人と視線が絡んだ瞬間、本気で息が止まるかと思った。
「でえじょうぶか? おめえ、具合悪くねえか?」
喉がからからに渇いて上手く声が出ない。
「ん? もしかして、オラの言葉が通じねえんか?」
惚けたことを訊く男に、悟天くんが眉間に皺を寄せて腰に手を当てる。
「それは違うよ、お父さん。ボクがさっき名前聞いたって言ったでしょ」
「ハハハ、そうだっけな!」
後頭部に手を当てて豪快に笑う彼。
「プッ」
私は思わず吹き出していた。
目の前にいる彼がイメージ通りの人だったため、安心したのも事実。
「あ、名無しさんちゃんがお父さんを見て笑ったよ!」
「へ? オラ、変なこと言ったか?」
「さあ?」
夢で何度も見た彼にやっと逢えたんだ。でも“お父さん”か。
私はやっとの思いで彼に出逢えた悦びや安心感と、それ以上に彼には子供がいるという衝撃的な事実を知り、複雑な感情が入り交じっていた。
「おーい」
「!?」
気づくと、彼がドアップで私を覗いている。途端、顔から火が出そうなくらい熱くなった。
「おっ、真っ赤んなったぞ。名無しさんだっけか? おめえ、面白ぇな!」
「っ……」
「お父さん、からかわないの! 名無しさんちゃん気にしないでね? お父さんはデリカシーないんだから」
悟天くんって何気に毒舌なのか?
「ひっでえなあ、悟天。仮にも父ちゃんに向かって言うことじゃねえぞ」
「だってホントのことだもん」
「おめえ冷てえよなあ」
「自業自得だよ」
二人の会話をぼんやりと聞きながら私は思った。
彼が悟天くんの父親ってことは、もちろん奥さんがいるんだよな。
心臓が針でチクチク刺されたかと思うぐらいショックだったが。それでも、私は……。
【第三話 分からないことだらけの恋】
上体を起こした私は、彼に質問したいことがあった。
「ちょっと訊きたいことがあるんだが」
「オラに分かることなら何でも答えっぞ」
彼はニッと白く健康的な歯を見せた。
その朗らかな笑顔に安堵しつつ、私は彼に質問する。
「あなたの名前は?」
「あーそういや、自己紹介がまだだったな。オラは悟天の父親の孫悟空だ」
孫悟空、と心の中で復唱した。
うん、彼にピッタリの良い名前だ。
「改めてよろしくな、名無しさん!」
悟空は満面に笑みを浮かべたまま、握手を求めてくる。
私が右手を差し出すと、彼はそれを優しく握って、その上に左手を重ねた。
「あ……こちらこそ」
少し気恥ずかしくなりつつ、私は素直に頷いた。
「へへ、名無しさんは素直な良い女だな!」
「えっ……」
悟空の飾らない物言いに一瞬言葉に詰まる。
「ねえねえ、名無しさんちゃんはどこから来たの?」
私が地名を教えると、悟空と悟天くんは互いの顔を見合わせた。
「そんなとこ聞いたことねえよなあ、悟天」
「うん、ボクも知らない。学校の授業でも出てこないよ?」
「えっ、ここは日本じゃないのか?」
「日本? 違ぇよ、ここはパオズ山だ」
「パオズ山……」
はっきり言って、そんな山知らなかった。というより、パオズ山なんて日本にはない。私は血の気が引くのを感じた。
「名無しさんちゃん大丈夫?」
「おめえ、顔が真っ青だぞ」
二人が心配そうに私の顔を覗き込む。
「だ、大丈夫だ」
思いの外動揺していたが、私はそう答えるだけで精一杯だった。
もしかすると、私は別の世界に紛れ込んだのかもしれない。そうだとしたら、何もかも辻褄が合う。そうか、ここは異世界なんだ。悟空に逢いたいとばかり願っていたのは本心だが、彼に出逢うということは、自分の世界と決別するということで。
やっと事の重大さに気づいた私は小さく息を吐いた。
「名無しさん?」
「え?」
「おめえの身に一体ぇ何があったんだ? 良けりゃ詳しく教えてくんねえか?」
「あ、ああ」
私はこれまでの経緯を順繰り話す。
これまで悟空の夢を幾度となく見ていることと、今朝自分の身に起きた不思議な出来事を。ただ、悟空に一目惚れしたことを除いては。
気になったのは、悟空の表情が険しく変わったことだ。
「悟空?」
「なあ、名無しさん。夢ん中のオラは、確かにブロリーって叫んだんだな?」
「ああ」
「そうか」
悟空は一言呟いて押し黙る。
「お父さん、ブロリーって誰なの?」
「悟天、おめえは知らなくても良いことだ。良い子だから、余計な詮索はすんなよ?」
「え?」
「分かったな?」
「うん、分かった」
ブロリーについて、もっと詳しく訊いてみたかったが、悟空の様子を見た私は難しそうだと判断した。
悟空が反応したブロリーの件で、私の問題はうやむやになってしまったな。
しかし、起きてしまったことを嘆いても仕方ない。
今後の身の振り方を真剣に考えねばならなかった。
【第四話 確かなもの一つだけ】
あれから、悟天くんがハチミツ入りのホットミルクを持って来てくれて、それを飲んだ私は睡魔に襲われ、深く眠り込んでしまった。
次に目が覚めた時、ふと目に入った時計は六時を回り、窓辺から朝日が差し込んでいた。
「ん……」
私は身体を起こし、寝惚け眼で辺りを見回す。
「そういえば、ここは私の家じゃないんだったな」
それと一つ気になったのは、この世界に来た途端、何故か予知夢を全く見なかったことだ。考えたところで、一向に答えは出なかったが。
ベッドから降りた私は顔を洗うため部屋を出た。
すると、そこには悟天くんが手慣れた様子で朝食の支度をしている。リビングキッチンには美味しそうな匂いが漂っていた。
と、私の腹の虫が盛大に鳴り響く。
そこで、悟天くんが振り返った。
「名無しさんちゃんおはよう!」
「おはよう、随分早いな」
「うん、お父さんも朝は早いよ。いつも武術の鍛練するのが日課なんだ」
「そうか」
自然と笑みが浮かんだ。
悟空も私と同じ穴の狢というわけか。
いや、私が彼と同様の道を選んだんだ。夢の中の彼に憧れを抱いて。
「名無しさんちゃん、お腹空いたでしょ? 昨日はミルクしか飲んでないもんね」
「ハハ、確かにな」
「もう少しだけ待ってて。今飛びっきり美味しいご飯が出来るからさ!」
ふと私は疑問に思った。
何故、悟天くんが朝食の支度をしているんだ? 悟空の奥さんは?
そういえば、昨日も姿がなかった。
どういうことだろう?
「なあ、悟天くん」
「ん~?」
「悟天くんのお母さんは?」
「!?」
私の質問に悟天くんの動きが止まった。
……もしかして、地雷でも踏んだか?
「知らない……っていうか、その話はしないで」
悟天くんは何か感情を押し殺すように呟いた。
「あ……悪い。余計なことを訊いたな」
私はばつが悪くなり、悟天くんに謝罪した。
「良いよ。それよりもさ、そこの水道で顔洗って? 名無しさんちゃんのタオル用意しといたからさ」
悟天くんはまるで何事もなかったように、朝食の用意を再開する。
恐らく孫夫婦の間で、何かがあったんだろう。
私はこれ以上、悟天くんの心に踏み込めない侘しさを感じていた。
「……ああ、分かった。すまない、悟天くん」
「ううん、良いって!」
私は悟天くんの指示通り、水道で何度も洗顔した。鬱憤を振り払うように。
顔を洗い、幾分さっぱりした気分になった私は、真横にいる悟天くんに話しかける。
「私も何か手伝おうか? 一人じゃ大変だろう?」
「平気だよ。これぐらい毎日やってるしね」
「だが……」
「だったら、一つお願いしたいんだけど、もうすぐご飯だよってお父さんを呼んで来てくれないかな? 多分、家の裏手の林で鍛練してるからさ」
「お安い御用だ。家の裏手の林だな?」
悟天くんは私にチラッと視線をくれて「そうだよ、よろしくね!」と答えた。
「分かった。じゃあ、行ってくる」
私は孫家を出て裏手に回り、林に足を踏み入れる。
林中は小鳥のさえずりがそこかしこで聴こえ、それに耳を傾けながら天を仰ぐと、木漏れ日がキラキラ輝いて、心の奥から癒される景色に思わず溜め息が漏れた。まるで一枚の絵画を観ている感覚だ。
以前から街の喧騒に嫌気が差していた私には、きっと最高の環境なんだろう。
そのお蔭なのか、昨日からのショックが次第に和らいでいく気がする。
不条理な世界の中で、その心持ちだけは確かに感受していた。
【第五話 彼の心と交差する時】
悟空の姿を求めて、林を捜索する。
すると、背後の藪の中でがさがさと物音がした。
「!?」
私は咄嗟に振り向き、闘いの構えを取ると、そこに飛び出したのは一匹の可愛らしい野兎だった。
「兎か……神経が過敏になってるな、いけないいけない」
リラックスしようと深呼吸する。
そこへ、素早く木々の間を潜り抜けて、黒い影が飛び降りてきた。
私は反射的に蹴りを喰らわせる。
しかし、私の攻撃は対象者の片手で容易く受け止められてしまった。
「!?」
「よっ、名無しさん!」
黒い影の正体は左手を上げ、にこやかな笑みを浮かべている悟空だった。
「悟空……」
「ん? オラが敵にでも見えたか?」
呵々大笑する悟空と遭遇して、悟天くんの用事を果たせると思い、肩の荷が下りた私は解放された脚を降ろした。
流石悟空。夢の中で屈強な男と対決するだけあって、全く隙がなかった。
私じゃ到底、相手にならないってわけか。
「すまない、悟空。悪気はなかったんだ」
「良いって、気にすんなよ」
悟空はいつもの様に白い歯を見せて笑った。
屈託ない笑顔に癒されつつ、悟天くんには悪いが、どうしても悟空に質問したいことがあった。
恐らく込み入った話かもしれないが、彼に心を寄せる者としては気がかりで仕方なかった。
「なあ、悟空」
「何だ?」
「悟空の家族は……」
「ああ、オラと悟天の二人だけってのが不思議なんか?」
どうやら彼は私の疑問を的確に見抜いていたらしい。
「嫌なら無理に訊きたいとは言わないが……」
「ん? オラに嘘なんかつかなくて良いぜ?」
「どうして……」
「名無しさんの顔に書いてあっぞ。気になってしょうがねえってな」
悟空は「訊きてえんだろ?」と優しく促した。
「ああ、訊きたい」
私は観念して本音を漏らす。
「じゃあ、話すけどよ。面白ぇ話じゃねえぞ?」
私は「分かっている」と神妙に頷いた。
「オラの家族はオラと悟天の他に、チチって嫁と長男の悟飯がいるんだ。けどよ、チチは毎日修業に明け暮れるオラを見てて、寂しかったらしくてよ。ある日、他に好い人が出来たから別れてくれって、悟飯と一緒にパオズ山を出てっちまった」
「そんな……でも、よく悟天くんは残ったな?」
「悟天はオラのために残ったんだと思う。オラは家事がてんでダメだからよ。あいつにはいっつも苦労かけっぱなしで心から悪ぃと思ってる」
「……」
「だからよ、悟天を学校に通わすためと生活のために仕事始めたんだ。友達のブルマにしっかり真面目に働くって約束して、トラック一台貰ってよ。そんで、今は気儘にトラックの運ちゃんやってんだ」
意外と稼げるんだぜ、と悟空はニカッと笑った。
「そうか。悟天くんは勿論だが、悟空も相当苦労してるんだな」
「苦労って程でもねえよ。親なら当然のことだ」
ただ夢で逢っていただけの人だが、彼にもまた目に見えない苦労があったんだ。決して奥さんのことばかり責められないが、悟空と悟天くんが不憫だ。
「おい、名無しさん? 涙なんか流しちまって、どうしたんだ?」
無意識に泣いていたらしい。
涙を拭い、悟空の事情を知った私の一つの決意を固めた。
「私は悟空の手助けがしたい。だから、このままこの世界に残る」
「へ?」
素っ頓狂な声を出す悟空の瞳を仰ぎ見て、彼らに出来る限りの力を尽くそうと心に誓った。
【第六話 呼吸も瞬きも忘れて】
「全く! お父さんの帰りが遅いから、ご飯冷めちゃったじゃないか!」
「悪ぃ悪ぃ、悟天。ちっとばっかし、鍛練に夢中になっちまってよ」
立腹の悟天くんに、悟空が両手を合わせて平謝りに謝る。
「それは……」
「名無しさん」
私が説明しようとすると、悟空は小声で私を呼び、人差し指を唇に当てる。
これは恐らく黙っていろ、ということか。彼はどうやら私を庇ってくれたようだ。
悟空の優しさに胸が温かくなる。
「もうお父さんはいっつも同じことの繰り返しなんだから。もっとしっかりしてよね?」
「分かってるって。それよか、悟天」
「なぁに?」
「オラもう腹減っちまった。飯食っても良いか?」
「ホントに、もう……良いよ、食べても」
そのやり取りに苦笑いするしかない。
「そんじゃ、遠慮なく!」
大食漢、そんな言葉が脳裏に浮かぶ程、二人の食べっぷりの良さに感服するしかなかった。
「名無しさんちゃんも遠慮しないで、お腹いっぱい食べてよね?」
「あ、ああ」
私は曖昧に返事しつつ、野菜スープを一口飲む。
「美味しい」
「ホントに!?」
「うん、本当だ。この味付けは私好みだ。お世辞抜きに美味いよ、悟天くん」
「えへへ。じゃあね、褒めてくれたお礼にデザートの杏仁豆腐出してあげる。ボクの得意料理なんだ!」
得意気に喋る悟天くんが可愛くて可愛くて、思わず腕を伸ばして彼の頭を何度か撫でた。
「わっ、どうしたの?」
「悟天くんが」
「ボクが?」
「頭を撫でたくなる程、可愛いからだよ」
「!?」
私が微笑すると、彼は瞠目し、何故か俯いてしまう。
「悟天くん?」
「ハハハ、悟天のヤツ照れてんだよ。名無しさんがめんごいこと言うからよ」
「めんごい?」
「可愛いって意味だ。オラに言わせりゃ、名無しさんも充分めんごいけどな」
そう言を継いだ悟空は私の頭に手を置き、わしゃわしゃと撫で繰り回す。
「っ……」
私は呼吸も瞬きも忘れて、悟空にされるがまま。
「ん? 名無しさん、固まっちまってどうした?」
「お父さん、名無しさんちゃんの顔見てみなよ」
「ありゃー真っ赤っかだ!」
彼の言う通り、私は耳まで熱くなるのをひしひしと感じていた。
「もしかして、照れてるんじゃないの?」
「そうか、照れてんのか。おーい、名無しさん?」
悟空が私の前で掌をひらひらと振る。
「!?」
「おっ?」
「悟空……頼むから、からかわないで欲しい」
「ハハッ、悪ぃ悪ぃ」
「もう、お父さんってば相変わらず冗談ばっかり」
からから笑う悟空に悟天くんが深く溜め息をつく。
やっぱり、からかわれていただけか。私は少し落胆してしまう。
だが、悟空の次の言葉で私の心は一気に急浮上する。
「でもよ、名無しさんがめんごいってのはホントだぜ?」
「っ……悟空」
「ん?」
「その、ありがとな」
「礼なんか言われることじゃねえよ。オラ、嘘は言わねえかんなあ」
へへへっと得意気に笑う悟空に、どうやら本気で惚れてしまったようだ。
彼の言動一つで、私の心はこんなにも感情が動くのだから。
そう想いながら、悟天くんが出してくれた杏仁豆腐を味わいつつ、賑やかな食卓のひとときは過ぎていった。
【第七話 今なら空も飛べるはず】
朝食後、私は食器の後片付けを手伝っていた。最後の皿を洗い終えて、水切りカゴに置く。
隣では悟天くんが鼻歌を口ずさみながら、布巾で食器を一枚ずつ丁寧に拭いている。
「ご機嫌だな、悟天くん」
「えへへ、分かる? 実はね、今度友達のトランクスくんが遊びに来るんだ!」
「トランクスくん?」
「うん。西の都に住んでる、とってもお金持ちの男の子だよ」
「悟天くんはトランクスくんが、よっぽど好きなんだな」
「もちろん! 大親友だからね!」
ニコッと笑って、嬉しそうに話してくれる悟天くん。
「友達は大事にしないとな」
「うん! あ、でもお父さんも大事だよ? それから、名無しさんちゃんも!」
「!? 悟天くん……」
彼の発言に私は天にも昇る心地だったが、冷静沈着に咳払いを一つ。
「私も悟天くんが大事だぞ?」
「ホントに!? 嬉しいなあ! あーあ、名無しさんちゃんがボクのお母さんだったら良かったのになあ!」
私が悟天くんのお母さん?
彼の母親としての自分をイメージした私は、ぼんっと音が立つ程、顔が熱くなる。
……うん、それは良いかもしれない。
「あれ? 名無しさんちゃん?」
最早、陶酔状態の私には悟天くんの声は届いていない。
「おーい、悟天。オラの道着洗っといてくれ……って、ん?」
「お父さん、名無しさんちゃんがまたトリップしちゃったよ」
「そうみてえだな。おーい、名無しさん! こっちに戻って来ーい!」
悟空の声が聴こえるような気がしたが、一面花畑の私の耳には届かない。
「しょうがねえなあ……」
私の頬に一瞬だけ柔らかい感触が、軽く音を立てて離れていく。
「あっ!」
「え……?」
突発的な出来事に私はギギギと機械音を立て、悟空に顔を向けた。
「ご、悟空?」
「おっ、反応したぞ」
「悟空、今のは……」
私はぎこちない動作で頬に掌を添える。
「分かんなかったか? オラが頬っぺたにチューしたんだぞ」
「っ……」
私はこれ以上ない程、顔がカアッと茹で上がり、朦朧状態になる。
「おい! 名無しさん!?」
倒れる寸前、悟空の逞しい腕に包まれた私はそのまま意識が遠退いていった。
「……あ、なあ、名無しさん」
「ん……?」
すぐ傍で悟空の声が耳に入り、意識を取り戻した私はそちらに視線を向ける。
そこには団扇で私を仰ぐ悟空の姿があった。
「気ぃついたみてえだな、名無しさん」
「悟空、私……」
「おめえ、ぶっ倒れたんだぜ。覚えてっか?」
「何となく……」
気まずいな、この雰囲気。
「なあ、名無しさん」
「な、何だ?」
悟空は僅かだが、浮かない面持ちのような気がする。
「オラのチュー気絶するぐれえ嫌だったんか?」
「え!?」
悟空、何か勘違いしてないか?
そう思った私は、慌てて上体を起こし、咄嗟に悟空の手を握った。
「それは違う、悟空……逆なんだ」
「逆?」
「その、嬉しかったんだよ。悟空のキスが……」
自分で言っていて恥ずかしくなる。
だが、羞恥心に耐える私を見て、悟空は表情が明るくなった。
「何だ、そうだったんか! オラはてっきり嫌がられてると思って、ショックだったからよ!」
「何で悟空がショックなんだ?」
「決まってんだろ。オラが名無しさんを気に入ってっからだ」
悟空は屈託ない笑みを浮かべている。
「え……」
「ん? 伝わらなかったか? 何て言いや良いんだろうな。要するに、オラは名無しさんが好きなんだよ」
「!?」
悟空の突然の告白に驚いた私は、彼の言葉が頭の中でリフレインする。
悟空は私が好き。
どうしよう、柄にもないが涙が出そうな程嬉しい……。
奇跡のような出来事にまるで夢心地だった。
「悟空、私は……」
「名無しさん……」
私が握っていた悟空の手を、彼が握り返して指を絡める。
悟空の顔が私に接近して、互いの唇が重なる寸前。
突然、部屋のドアが開いて「お父さん、名無しさんちゃん起きた?」と、悟天くんが入って来た。
「「!?」」
瞬時に互いの身体を離し、悟空が何事もなかったかの如く「ああ、見ての通りだぞ」と答えるが、僅かに声が上擦っている。
相当な手練れの悟空でも悟天くんの気配に気づかない程、私に意識が集中していたのか。
「二人とも何か変だよ?」
「そんなことねえよ。いつも通りだぞ。なあ、名無しさん?」
「あ、ああ!」
「それよか腹減ったな。悟天、飯まだか?」
「お父さん、そればっかり!」
普段と違う悟空が見れて、新鮮な気分だった。