★Short Dream
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日曜日。私は部屋の大掃除をしていた。
独り暮らしをしていると、仕事に追われる毎日で、どうしても掃除まで手が回らない。
とはいえ、このまま放っておくと足の踏み場もなくなるのよね……。
そんな理由で、急遽大掃除を決行したってわけ。
やっと半日かけて、部屋の中は人を招いても恥ずかしくないレベルになった。
残すはクローゼットのみ。
意を決して扉を開けると、いろんな物で溢れていた。
そこで目についたのは――童話に出て来そうな、古めかしいランプ。
ランプなんて買った覚えも貰った覚えも、まして拾った覚えもないんですけど……。
私はランプを手に取って目を凝らす。一見変わった所はないみたいね。
「もしかして、擦ったらランプの魔人が出て来るとか? まさか、ね……」
試しにランプを擦ってみる。
何も起こらない……って、当たり前か。そんなファンタジーなことが起きるわけ……。
「――う、嘘!?」
急にランプから白い煙がもくもくと部屋中に立ち込めて、たちまち何も見えなくなった。
まさか、本当にランプの魔人が出て来るんじゃないでしょうね?
「やっと出られたか。久しぶりの娑婆の空気は美味いな」
聞き覚えのない低音ボイスに、一瞬で血の気が引く。
「ひっ……!」
私は怖くなってランプを床に落としてしまい、外へ逃げ出したい気持ちをぐっと抑えて後ろへ下がった。
「おい、そこの女。ランプは大事に扱え。ようやく十年振りに封印が解かれたってのに、万が一壊れたらどうするんだ」
やがて煙が消えると、人相の悪い男――ランプの魔人(?)が宙に浮いて、私を見下ろしていた。
まるで蟹を思わせるツンツン頭、左頬の傷痕と額に巻いた紅い布が特徴的な……。
「おい、何とか言えよ? お前がオレを呼び出したんだろ?」
何も答えない私を、魔人が鋭く睨んでくる。
私は魔人と距離を取りながら「わ、私はアンタなんか呼び出してないわよ! ただ、そのランプを擦っただけで――」と、ヤツが拾い上げたランプを差す。
「バーダックだ」
「はい?」
魔人の言っている意味が分からなくて、私は首を傾げる。
「オレの名前だ。身も知らねえヤツにアンタ呼ばわりされるぐらい、深い関係じゃねえだろうが。まあ、そうなる可能性は充分あるがな」
「な、何バカなこと言ってんの!?」
「おい、顔が真っ赤だぜ? もしかしてお前、オレと深い関係になりてえのか?」
ランプの魔人――バーダックの指先が、私の顎を捉えた。
その手を払い退け、睨みつけてやる。
「そんなわけないじゃない! 大体どうやってランプの魔人と深い関係になるの!? それに名無しさんよ!」
「はあ?」
「お前じゃなくて、私には名無しさんって立派な名前があるの! こっちだって、お前呼ばわりされるぐらい深い関係じゃないでしょ!?」
「くっ……はははっ!」
私が皮肉たっぷりに言うと、バーダックはいきなり高笑いし出した。
「な、何がそんなにおかしいのよ?」
「オレに刃向かうヤツは、名無しさんが初めてだ……くくっ、お前面白い女だな」
刃向かうなんて言い方は気に入らないけど、このバーダックって魔人、思ったより怖くないみたいね。
「何で私の部屋に魔法のランプなんてあるの?」
ふと疑問に思ったことをバーダックに問い質したら、「んなもん、オレが知るか」と、素っ気ない一言で返された。
「……あっそう」
腑に落ちないけど、バーダックが知らないなら仕方ないか。
そうそう。バーダックはランプの魔人というだけあって、主になった人間の願い事を三つまで叶えてくれるんだとか。
どんな願いを叶えて貰おうかと考えていたら、「おい、名無しさん。腹が減ったから、何か作れ」とお得意の命令口調で指示が下された。
どこまでも俺様男で、彼は私のベッドを占領して優雅に煙草を吸っている。
つーか、ランプの魔人が煙草なんか吸うなよ!
「魔人でもお腹空くの? もしかして、ご飯食べなきゃ死んじゃうとか? しかも私のベッド、勝手に使ってるし……」
「飯は食わなくても餓死することはねえがな。オレは名無しさんの飯が食いてえつってんだ。黙って作れよ」
おいおい、ベッドの件は無視か?
「魔人のくせに、偉そうに命令しないでよ」
「お前はオレの主人だろ? 主なら主らしく責任持って養えよ」
ああ言えばこう言う……何でアンタはそんなに態度がでかいんだ!
しかも私の事は平気でお前って言うし、どんだけ偉いんだっつーの!
「おら、早くしろ」
「はいはい、分かりました!」
多分この調子だと、私が食事を作るまでしつこく言い続けるだろう……。
仕方なくキッチンに移動して、調理していると。
「名無しさん、料理は得意なのか?」
私の背後から、バーダックが顔を覗かせる。
「ふっふっふ、任せなさい! 料理は私の得意分野よ!」
……ちょっと待ってよ、バーダックが後ろから覗いてるって?
「えっ……何で!?」
魔人なのに、自由に移動出来るの!?
ランプから離れて平気なんだ?
……いや、ランプの魔人の事情なんて知らないけどさ。
「何だ?」
急に大声を出した私にバーダックは訝しげな顔をしている。
「何でここまで来れるの!?」
ああ、とこっちが何を言いたいのか理解したらしいバーダックは、「一時的にならランプから離れても平気なんだよ。しかも自分の意思でランプの出入り可能だ」と、それはそれは得意気に説明してくれた。
「じゃあ、結構自由なんだね」
ふーんと納得して、止めていた作業を再開する。
「……そう思うか?」
私の何気ない台詞に、バーダックは低く呟いた。
「え?」
振り向いた時には、バーダックはキッチンからいなくなっていて。
この時はまだバーダックがランプの魔人であることを、深く思い悩んでいるなんて知る由もなかった。
「どう? 特製牛筋カレーの味は」
黙々とカレーを食べるバーダックに話しかければ、「……まあまあだな」とこれっぽっちも可愛くない返事をされた。
「そこは素直に美味しいって、言ってくれてもいいんじゃない?」
「不味くはねえな」
「可愛くないヤツ……」
今度は絶対、美味しいって言わせてやる!
「名無しさん、そろそろ一つ目の願いは決まったか?」
食後の一服をしているバーダックが、気だるそうに聞いてくる。
だから、ランプの魔人が煙草なんか吸うなっての!
「願い事って言っても、働いてるから欲しい物は大抵自分で買えちゃうしなあ」
何でも叶えて貰えるってなると、ちっとも思いつかないもので。
「本気で何もねえのか? 侘しい女だな」
「侘しい女で悪かったね。ちゃんと考えるから、もう少し待ってよ」
「精々ご立派な願いを考えておくんだな」
バーダックはそう言って、ランプの中に戻って行った。
「自分から話振っといて、あの態度は何なのよ!」
後片付けをした後、お風呂に入って部屋に戻る。
「……明日も早いし、もう寝よう」
私は濡れた髪をドライヤーで乾かすと、ベッドに入って眠りに就いた。
翌朝。私の朝は忙しい。
電車に乗り遅れたら一貫の終わりだから、一分一秒でも無駄には出来ない。
特に給料日前は節約の為にお弁当を作っていると、あっという間に時間が過ぎてしまう。
「名無しさん、どこ行くんだよ?」
ランプから出て来たバーダックは起きたばかりなのか、欠伸をしながら呑気に話しかけてくる。
「会社に決まってるじゃない! 取り敢えずランプも持って行くから、早く中に入ってよ!」
「何だか知らねえが、オレに指図するんじゃ――」
「早くして! 電車に乗り遅れるでしょうが!」
「朝っぱらから、ガミガミとやかましい女だ」
文句を言いつつ、素直にランプの中へ戻るバーダック。
私はランプをバッグに詰め込んで自宅マンションを出ると、猛ダッシュで駅に向かう。
――そして。
階段を駆け降りた時、ちょうど良いタイミングでホームに電車が入って来た。
「間に合った!」
電車に乗れたまでは良いんだけど、朝のラッシュが……。
毎日のことだから仕方ないにしても、立っているのも一苦労だ。
あ、この混雑をバーダックに何とかして貰えないかな?
我ながら、つまらない願い事だけどね。
ところが、バッグに入っているランプを取り出そうとしても、全く身動きが取れない。
……でも考えてみれば、こんな狭い空間にバーダックが出て来るわけないか。
「こうなったら会社の近くにでも引っ越そうかな」
そんなことを考えながら出社した。
午後から上司に重要書類のコピーを頼まれた私は、コピー機を使おうとしたんだけど。
「何これ、全然動かないじゃない」
紙が詰まっているわけでも切れているわけでもないし、機械に疎い私には最早お手上げだった。
でもこれ以上、上司を待たせるわけにはいかない……。
「あっ、そうだ!」
私は急ぎロッカールームへ向かった。
「こういう時こそ、ランプの魔人よ!」
バッグからランプを取り出して、藁にもすがる思いで擦る。
すると、すぐにバーダックが出て来た。
「願いは決まったのか?」
「コピー機の調子が悪いみたいだから、直してくれない?」
「はあ? なんだ、そのくだらねえ願いはよ」
「くだらないとは何よ!? こっちは一大事なのよ!」
「願いを叶えて欲しいなら、オレにキスしろ」
突然顎を掴まれて、唇が触れそうなギリギリの距離で囁かれた。
「あの……よく聞こえなかったんですけど?」
「だから、願いを叶えて欲しいなら、キスしろっつってんだよ」
「な、何でキスなんかしなくちゃいけないの!? そんなの嫌に決まってるでしょ!」
横暴なバーダックにムカついた私は掴まれていた手を振り払って、目前のバカ男(ランプの魔人)を睨みつける。
「それが願いを叶える条件だからだ。嫌なら諦めるんだな」
「……ちょっと待って! キスしたら、ちゃんと叶えてよね?」
私が呼び止めると、バーダックは口端を上げて。
「早くしろよ?」
私は沸き起こる羞恥を堪えて、バーダックの頬に軽くキスした。
「頬っぺたか……物足りねえが、今回は我慢してやる……コピー機、直ってるから戻れよ」
「え、もう直ったの?」
急いで部署に戻ってコピー機を操作してみると、何と正常に動き始めた。
ただコピーに時間がかかり過ぎて、上司からしっかりお小言を頂いてしまったけどね。
それでも、バーダックに助けて貰ったことは変わらないんだから、文句は言えないか。
勤務時間が終わって、帰宅途中。
ランプの中からバーダックが出て来た。
「名無しさん。オレの能力はもっと有効的に使え」
「何を願おうと私の勝手でしょ?」
「あんな面白味ねえ願いは、金輪際聞かねえからな。今度はよく考えてから言えよ」
そう言ってバーダックは、ランプの中に戻って行った。
「願い事に面白さを見出だして、どうするのよ……」
ランプの魔人は私にしか見えないらしいから、本当は外に出て来て欲しくない。
他人から見たら、独り言を喋る変な女だって思われるし。
バーダックに言ったら「お前は元から変だから安心しろ」とか言われそう……うん、あいつなら絶対言うな。
帰宅した途端、バーダックお得意の飯作れ攻撃を受ける。
いつも独りご飯の身分だから、作り甲斐があって良いんだけどね。
それは喜んで食べてくれればの話であって。
「今日もカレーなんだけど、これにトロトロ半熟の玉子を乗っけて食べるのが美味しいのよ。所謂、オムカレーね」
「御託はいいから、早く食わせろ」
ベッドで寛いでいるバーダックからの、容赦ない命令が下される。
「……はいはい」
テンションが下がりつつ、テーブルに料理を並べる。
バーダックはお皿とスプーンを持って、オムカレーを一口食べる。
「どう?」
「昨日よりは美味いかもな。この黄色いのもなかなかイケるぜ」
あっさり美味しいって言ってくれたのは嬉しいけど……。
「黄色いのじゃなくて玉子ね。それも、半熟トロトロの」
「食えりゃあ、なんでも良いだろ」
どんな風に生きたら、こんな傲岸不遜になるんだか。
後片付けをした後、入浴を済ませた私は、ソファーに座って意識を集中させる。
こうすると、余計なことを考えずに集中力が増すから、願い事を考えるには良い状態の筈。
ふと気配が近づくのを感じて、目を開けると。
「不細工な面だな。ほら、ここ……眉間に皺が寄ってるぜ?」
バーダックが私の眉間を指で、つんつんと突いてくる。
「邪魔しないでよ。私は真剣に願い事を考えて……あっ、そうだ!」
「っ……何だよ、いきなり人の耳元ででかい声出すな」
突然ソファーから立ち上がった私に、バーダックは顔をしかめながらぼやいた。
「今二つ目の願い事を思いついたのよ!」
「へえ、言ってみろよ」
「私の運命の人に逢いたい。そんな相手が本当にいるのか、分からないけどね」
「いかにも女が思いつきそうな、安直な願いだな」
バーダックはお得意の意地悪な笑みを浮かべて応えた。
「バーダックみたいにデリカシーのない魔人には、女心なんて一生理解出来ないわよ。それよりも、ちゃんと叶えてくれるんでしょうね?」
私が問いかけると、不敵に笑って楽しそうに囁きかけてくる。
「条件さえ守れば、何だって叶えてやるぜ」
「……どうしても、しなくちゃ駄目なの?」
「嫌なら諦めろって言ったよな?」
これは、絶対キスしなきゃ叶えてくれなさそうね……。
「先に言っとくけど、約束破ったら承知しないからね!?」
「叶えてやるつってんだから、犬みてえに吠えるんじゃねえよ」
面倒臭そうに応えたバーダックは、但しと言葉を続ける。
「今度は唇にしろ。頬っぺたにしやがったら、無効だからな?」
そんなことを言いながら、私の唇を突いてくる。
遊ばれてるのか、私は……。
「唇にって……そんなの無理に決まってるでしょ! ふざけるのも大概にしてよね!?」
全力で否定する私を、バーダックはニヤニヤと笑いながら、さも面白そうに眺めている。
「名無しさんが嫌なら、無理にとは言わないぜ? お前の願いが叶わないだけの話だからな」
「っ……く……唇に触れるくらい、何ともないわ!」
これも全部、運命の人に出逢う為よ!
そう決意して、バーダックの唇に自分を重ねた。
「んんっ!」
もういいかなと思って離れようとすると、急に後頭部を掴まれて動けなくなる。
「んっ!? ふ、んっ……!」
突然、咬みつくような激しいキスをされた。
バーダックの濡れた舌が口腔に侵入して、巧みに私の舌を誘い出そうとしてくる。
「んんっ……」
気づいたら、私は夢中でバーダックの舌を追いかけてしまっていた。
舌と唇を擦り合わせた後で名残惜しげに唇を離され、二人を繋ぐ銀糸がぷつりと途切れる。
激しいキスの余韻で足腰が立たなくなってしまった私は、ソファーに力の入らない身体を預けた。
「腰砕けになるぐらい感じたのか? 可愛いな、名無しさんは」
可愛いなんて言われたのは久しぶりで、かっと頬が熱くなった私は慌てて顔を背けた。
「なっ、何で……あんなキスしたの?」
「唇に触れるくらい、何ともないんだろ? だから、オレ好みのキスをしたまでだ。それに、名無しさんも夢中になってたじゃねえか。気持ち良かったんだろ、オレとのキスがよ」
「うっ……そんなの別にどうでもいいでしょ。それよりも、願いは叶えてくれたの?」
「叶えてやったから安心しろ。じゃあ、オレはもう寝るぜ」
バーダックは私の素っ気ない態度を気にも留めない様子で、ランプの中に戻った。
まさか、アイツとのキスが気持ち良かったなんて、口が裂けても言えるわけないじゃない……。
バーダックに二つ目の願いを叶えて貰ってから、どれくらい経つだろう。
その間にも何度か出逢いはあったけど、恋愛にまで発展することはなく。
やっぱり運命の人なんていないのかも――なんて、半ば諦めていた。
今日は週末。でも、外出気分にはなれなくて。
私はソファーに座って、ぼんやりとテレビを眺めていた。
因みにバーダックはいつものように、煙草を吸いながら私のベッドで寛いでいる。
「そういえばさ、バーダックにも願い事ってあるの?」
「……あるぜ。最も、叶う見込みのねえ願いだがな」
「どんなの? 良ければ教えてよ?」
「……この忌ま忌ましい呪縛から解放されたい、それがオレのたった一つの願いだ。ランプの魔人なんてな、自分の意思でなんざ何も出来ねえんだよ。所詮、籠の鳥だからな。だから、オレは自由の身になりてえ……それだけだ」
ああ、そうだよね。幾らランプから自由に出入り出来ても、ある程度ランプから離れることが出来ても、本当の自由を奪われていることに変わりはない。
どうして気づいてあげられなかったんだろうと思った瞬間、まるで心臓を鷲掴みされたように苦しくなる。
私はバーダックの傍に行き、彼の手を強く握り締めた。
「どうした?」
「バーダック……私がアンタにしてあげられることって、精々ご飯を作るくらいだよね」
「……お前、何か変だぜ?」
一度でいいから、バーダックの心からの笑顔を見てみたい。
だから、彼が一番望んでいることを私が叶えたいって思う。
私には、それが出来るから。
「最後の願いが決まったよ……バーダックを、人間として自由にして欲しい」
「名無しさん……本当に、それでいいのか?」
バーダックは目を丸くして、私を凝視している。
「もちろん。バーダックの願いは、私にとっての願いでもあるんだから」
ウインクして見せると、バーダックはニヤリと口元を歪めた。
そして、ちょいちょいと自分の唇を指す。
私はバーダックの意図を組んで頷いた。
「これが、本当に最後なんだね」
初めはあんなに嫌だったのに、今はちょっと寂しいかも……。
感慨深い思いを抱きつつ、バーダックに顔を寄せて、唇に軽く口づけた。
「ありがとよ。名無しさんの想いは、しっかり受け取ったぜ」
私の頭を撫でて、意地悪く笑う。
もう、この顔も見られないんだ……そう思ったら一層切なくなる。
でも、バーダックが自由を求めるのは当たり前なんだから、最後は笑顔で別れなくちゃ。
「短い間だったが、お前との暮らしはなかなか楽しかったぜ。名無しさんに逢えて良かったと思っている」
バーダックは、ふっと柔らかい笑みを浮かべる。
あ……この笑顔、今までで一番カッコいいかも。
悔しいから、本人には絶対言ってやらないけどね。
「私もバーダックに逢えてよかったよ。それこそ、色んなことがあったけど……今となっては全部いい想い出だしね」
私はせめてもの餞別として、バーダックの頬に口づけた。
「名無しさん。今の台詞、絶対に忘れるなよ」
「え、それって……?」
突然、バーダックとランプが眩い光を放った瞬間、思わず顔を背けてしまい、もう一度、彼の方を向いた時には跡形もなく消えていた。
「行っちゃった……忘れるな、なんて最後まで命令口調だったし……それにしても、私の部屋って、こんなに広かったんだな……」
本当に横柄な口を叩くランプの魔人だったけど、いなくなるとちょっと寂しい……。
バーダックが私の前から消えて、早数ヶ月。
あの日を堺に、私の中で何かが変わってしまい、心が凍りついたような気分で、何もかもが色褪せて見える。
しかも今日は、私の誕生日っていうこともあって、虚しさ三割増し。
人気のない寂しい部屋に帰る足取りは、独りでに重くなる。
あれから彼は一体どうしてるんだろうと気掛かりで、仕事に対しても熱意に欠け、半ば自棄になる時もしばしばあった。
ふと自宅マンションが見えた時、入り口付近で黒い人影が目に入った。
「あれ……?」
目を凝らして見ると、その人の容姿は、特徴的な蟹頭にトレードマークの紅い布と左頬の傷痕、そして懐かしい意地悪な笑顔を浮かべてる。
「バーダック!?」
「久々だな、名無しさん」
ランプの魔人だったバーダックが今は独りの人間として、私の前に立っている。
良かった、無事に願いが叶ったんだ。
安心して涙が出そうになった私は、咄嗟に背を向ける。
「おい、名無しさん」
バーダックが背後に立つのが、気配で分かった。
それでも振り向かない私の腹部に、逞しくて温かい腕を回され、そっと抱き締められる。
その温もりに涙腺が緩んで半泣きになり、震える私の頭をバーダックが優しく撫でてくれる。
「ところでお前、運命の相手とやらにはもう逢えたのか?」
「ぐっ……まだよ。別にもう諦めてるからいいけどね」
何も今、そんなこと聞かなくてもいいじゃない……。
「なら……名無しさん、今からオレに付き合え」
バーダックが静かにそう言うと、私の背中と膝裏に腕を回され、突然浮遊感に見舞われる。
「ひえっ!?」
引っ張られる感覚が怖くて、目前の首にしがみついた。
「色気のねえ声だな」
「きゅ、急に何するのよ!?」
「るせえ。あんまり騒ぐと、その口塞ぐぞ」
「っ……」
迷わず、唇を引き結ぶ。
そんな私を見たバーダックは満足そうに笑み、「さあて、夜のデートへと洒落込むか」と風を切って夜空へ上昇していく。
まるで夢のような状況に、心底驚いてるけど、この際彼が飛行出来たって何だって、気にしないことにしよう。
私がバーダックを好きなことに変わりないんだから。
自分勝手かもしれないけど、もう二度とバーダックがどこかに行ってしまわないように……。
私は強く願わずにはいられなかった。
「おら、着いたぜ」
そこは自宅マンションの屋上だった。
バーダックは緩やかに降り立ち、私を地面に下ろした。
「名無しさん、空見てみろよ」
「え?」
バーダックの意図が分からないまま、夜空を振り仰ぐ。
そこには、視界いっぱいに無数の星が光り輝いていた。まるで、私とバーダックを見守るように。
街を彩るネオンよりも、バーダックが見せてくれる星明かりの方が何倍も美しく、そして魅力的だった。
「なかなかの眺めだと思わねえか?」
「うん……そうだね」
今まで気づかなかった。
社会人になってから、夜空を見上げる機会なんてなくて。
目線はいつも、アスファルトに向いているから。でも、それってかなり勿体なかったな。
「名無しさん、寒いだろ?」
名前を呼ばれ、背後から強く抱き締められる。
バーダックの体温に包まれて、私の凍った心までも、じんわり溶かされていく。
「もう魔法の力なんざねえが、オレなりにお前の願いを叶えてやりてえと思った。運命の相手が見つからなかったんなら、オレが代わりに名無しさんの傍にいてやるよ。だから、それで我慢しろ」
バーダックの不器用だけど優しさを含んだ言葉に、自然と私の頬が緩んだ。
「我慢するも何も、もう運命の人に逢えたじゃない」
「それはオレのことか? はっ、随分と都合の良い女だな」
「本当は、バーダックもそう思ってるんじゃないの?」
「さあな。だが、まあ……名無しさんがそう思うなら、それでいいんじゃねえか?」
「そう、だよね……ありがと」
私の強い祈りがバーダックに届いて、彼は傍にいると言ってくれた。
今はそれだけで、充分嬉しい。
相手が運命の人かどうかなんて、要は自分の受け止め方次第なんじゃないかな。
私は年に一度の誕生日に、最高の形で再会出来た、愛しいバーダックを運命の相手だと信じてるから。
END
独り暮らしをしていると、仕事に追われる毎日で、どうしても掃除まで手が回らない。
とはいえ、このまま放っておくと足の踏み場もなくなるのよね……。
そんな理由で、急遽大掃除を決行したってわけ。
やっと半日かけて、部屋の中は人を招いても恥ずかしくないレベルになった。
残すはクローゼットのみ。
意を決して扉を開けると、いろんな物で溢れていた。
そこで目についたのは――童話に出て来そうな、古めかしいランプ。
ランプなんて買った覚えも貰った覚えも、まして拾った覚えもないんですけど……。
私はランプを手に取って目を凝らす。一見変わった所はないみたいね。
「もしかして、擦ったらランプの魔人が出て来るとか? まさか、ね……」
試しにランプを擦ってみる。
何も起こらない……って、当たり前か。そんなファンタジーなことが起きるわけ……。
「――う、嘘!?」
急にランプから白い煙がもくもくと部屋中に立ち込めて、たちまち何も見えなくなった。
まさか、本当にランプの魔人が出て来るんじゃないでしょうね?
「やっと出られたか。久しぶりの娑婆の空気は美味いな」
聞き覚えのない低音ボイスに、一瞬で血の気が引く。
「ひっ……!」
私は怖くなってランプを床に落としてしまい、外へ逃げ出したい気持ちをぐっと抑えて後ろへ下がった。
「おい、そこの女。ランプは大事に扱え。ようやく十年振りに封印が解かれたってのに、万が一壊れたらどうするんだ」
やがて煙が消えると、人相の悪い男――ランプの魔人(?)が宙に浮いて、私を見下ろしていた。
まるで蟹を思わせるツンツン頭、左頬の傷痕と額に巻いた紅い布が特徴的な……。
「おい、何とか言えよ? お前がオレを呼び出したんだろ?」
何も答えない私を、魔人が鋭く睨んでくる。
私は魔人と距離を取りながら「わ、私はアンタなんか呼び出してないわよ! ただ、そのランプを擦っただけで――」と、ヤツが拾い上げたランプを差す。
「バーダックだ」
「はい?」
魔人の言っている意味が分からなくて、私は首を傾げる。
「オレの名前だ。身も知らねえヤツにアンタ呼ばわりされるぐらい、深い関係じゃねえだろうが。まあ、そうなる可能性は充分あるがな」
「な、何バカなこと言ってんの!?」
「おい、顔が真っ赤だぜ? もしかしてお前、オレと深い関係になりてえのか?」
ランプの魔人――バーダックの指先が、私の顎を捉えた。
その手を払い退け、睨みつけてやる。
「そんなわけないじゃない! 大体どうやってランプの魔人と深い関係になるの!? それに名無しさんよ!」
「はあ?」
「お前じゃなくて、私には名無しさんって立派な名前があるの! こっちだって、お前呼ばわりされるぐらい深い関係じゃないでしょ!?」
「くっ……はははっ!」
私が皮肉たっぷりに言うと、バーダックはいきなり高笑いし出した。
「な、何がそんなにおかしいのよ?」
「オレに刃向かうヤツは、名無しさんが初めてだ……くくっ、お前面白い女だな」
刃向かうなんて言い方は気に入らないけど、このバーダックって魔人、思ったより怖くないみたいね。
「何で私の部屋に魔法のランプなんてあるの?」
ふと疑問に思ったことをバーダックに問い質したら、「んなもん、オレが知るか」と、素っ気ない一言で返された。
「……あっそう」
腑に落ちないけど、バーダックが知らないなら仕方ないか。
そうそう。バーダックはランプの魔人というだけあって、主になった人間の願い事を三つまで叶えてくれるんだとか。
どんな願いを叶えて貰おうかと考えていたら、「おい、名無しさん。腹が減ったから、何か作れ」とお得意の命令口調で指示が下された。
どこまでも俺様男で、彼は私のベッドを占領して優雅に煙草を吸っている。
つーか、ランプの魔人が煙草なんか吸うなよ!
「魔人でもお腹空くの? もしかして、ご飯食べなきゃ死んじゃうとか? しかも私のベッド、勝手に使ってるし……」
「飯は食わなくても餓死することはねえがな。オレは名無しさんの飯が食いてえつってんだ。黙って作れよ」
おいおい、ベッドの件は無視か?
「魔人のくせに、偉そうに命令しないでよ」
「お前はオレの主人だろ? 主なら主らしく責任持って養えよ」
ああ言えばこう言う……何でアンタはそんなに態度がでかいんだ!
しかも私の事は平気でお前って言うし、どんだけ偉いんだっつーの!
「おら、早くしろ」
「はいはい、分かりました!」
多分この調子だと、私が食事を作るまでしつこく言い続けるだろう……。
仕方なくキッチンに移動して、調理していると。
「名無しさん、料理は得意なのか?」
私の背後から、バーダックが顔を覗かせる。
「ふっふっふ、任せなさい! 料理は私の得意分野よ!」
……ちょっと待ってよ、バーダックが後ろから覗いてるって?
「えっ……何で!?」
魔人なのに、自由に移動出来るの!?
ランプから離れて平気なんだ?
……いや、ランプの魔人の事情なんて知らないけどさ。
「何だ?」
急に大声を出した私にバーダックは訝しげな顔をしている。
「何でここまで来れるの!?」
ああ、とこっちが何を言いたいのか理解したらしいバーダックは、「一時的にならランプから離れても平気なんだよ。しかも自分の意思でランプの出入り可能だ」と、それはそれは得意気に説明してくれた。
「じゃあ、結構自由なんだね」
ふーんと納得して、止めていた作業を再開する。
「……そう思うか?」
私の何気ない台詞に、バーダックは低く呟いた。
「え?」
振り向いた時には、バーダックはキッチンからいなくなっていて。
この時はまだバーダックがランプの魔人であることを、深く思い悩んでいるなんて知る由もなかった。
「どう? 特製牛筋カレーの味は」
黙々とカレーを食べるバーダックに話しかければ、「……まあまあだな」とこれっぽっちも可愛くない返事をされた。
「そこは素直に美味しいって、言ってくれてもいいんじゃない?」
「不味くはねえな」
「可愛くないヤツ……」
今度は絶対、美味しいって言わせてやる!
「名無しさん、そろそろ一つ目の願いは決まったか?」
食後の一服をしているバーダックが、気だるそうに聞いてくる。
だから、ランプの魔人が煙草なんか吸うなっての!
「願い事って言っても、働いてるから欲しい物は大抵自分で買えちゃうしなあ」
何でも叶えて貰えるってなると、ちっとも思いつかないもので。
「本気で何もねえのか? 侘しい女だな」
「侘しい女で悪かったね。ちゃんと考えるから、もう少し待ってよ」
「精々ご立派な願いを考えておくんだな」
バーダックはそう言って、ランプの中に戻って行った。
「自分から話振っといて、あの態度は何なのよ!」
後片付けをした後、お風呂に入って部屋に戻る。
「……明日も早いし、もう寝よう」
私は濡れた髪をドライヤーで乾かすと、ベッドに入って眠りに就いた。
翌朝。私の朝は忙しい。
電車に乗り遅れたら一貫の終わりだから、一分一秒でも無駄には出来ない。
特に給料日前は節約の為にお弁当を作っていると、あっという間に時間が過ぎてしまう。
「名無しさん、どこ行くんだよ?」
ランプから出て来たバーダックは起きたばかりなのか、欠伸をしながら呑気に話しかけてくる。
「会社に決まってるじゃない! 取り敢えずランプも持って行くから、早く中に入ってよ!」
「何だか知らねえが、オレに指図するんじゃ――」
「早くして! 電車に乗り遅れるでしょうが!」
「朝っぱらから、ガミガミとやかましい女だ」
文句を言いつつ、素直にランプの中へ戻るバーダック。
私はランプをバッグに詰め込んで自宅マンションを出ると、猛ダッシュで駅に向かう。
――そして。
階段を駆け降りた時、ちょうど良いタイミングでホームに電車が入って来た。
「間に合った!」
電車に乗れたまでは良いんだけど、朝のラッシュが……。
毎日のことだから仕方ないにしても、立っているのも一苦労だ。
あ、この混雑をバーダックに何とかして貰えないかな?
我ながら、つまらない願い事だけどね。
ところが、バッグに入っているランプを取り出そうとしても、全く身動きが取れない。
……でも考えてみれば、こんな狭い空間にバーダックが出て来るわけないか。
「こうなったら会社の近くにでも引っ越そうかな」
そんなことを考えながら出社した。
午後から上司に重要書類のコピーを頼まれた私は、コピー機を使おうとしたんだけど。
「何これ、全然動かないじゃない」
紙が詰まっているわけでも切れているわけでもないし、機械に疎い私には最早お手上げだった。
でもこれ以上、上司を待たせるわけにはいかない……。
「あっ、そうだ!」
私は急ぎロッカールームへ向かった。
「こういう時こそ、ランプの魔人よ!」
バッグからランプを取り出して、藁にもすがる思いで擦る。
すると、すぐにバーダックが出て来た。
「願いは決まったのか?」
「コピー機の調子が悪いみたいだから、直してくれない?」
「はあ? なんだ、そのくだらねえ願いはよ」
「くだらないとは何よ!? こっちは一大事なのよ!」
「願いを叶えて欲しいなら、オレにキスしろ」
突然顎を掴まれて、唇が触れそうなギリギリの距離で囁かれた。
「あの……よく聞こえなかったんですけど?」
「だから、願いを叶えて欲しいなら、キスしろっつってんだよ」
「な、何でキスなんかしなくちゃいけないの!? そんなの嫌に決まってるでしょ!」
横暴なバーダックにムカついた私は掴まれていた手を振り払って、目前のバカ男(ランプの魔人)を睨みつける。
「それが願いを叶える条件だからだ。嫌なら諦めるんだな」
「……ちょっと待って! キスしたら、ちゃんと叶えてよね?」
私が呼び止めると、バーダックは口端を上げて。
「早くしろよ?」
私は沸き起こる羞恥を堪えて、バーダックの頬に軽くキスした。
「頬っぺたか……物足りねえが、今回は我慢してやる……コピー機、直ってるから戻れよ」
「え、もう直ったの?」
急いで部署に戻ってコピー機を操作してみると、何と正常に動き始めた。
ただコピーに時間がかかり過ぎて、上司からしっかりお小言を頂いてしまったけどね。
それでも、バーダックに助けて貰ったことは変わらないんだから、文句は言えないか。
勤務時間が終わって、帰宅途中。
ランプの中からバーダックが出て来た。
「名無しさん。オレの能力はもっと有効的に使え」
「何を願おうと私の勝手でしょ?」
「あんな面白味ねえ願いは、金輪際聞かねえからな。今度はよく考えてから言えよ」
そう言ってバーダックは、ランプの中に戻って行った。
「願い事に面白さを見出だして、どうするのよ……」
ランプの魔人は私にしか見えないらしいから、本当は外に出て来て欲しくない。
他人から見たら、独り言を喋る変な女だって思われるし。
バーダックに言ったら「お前は元から変だから安心しろ」とか言われそう……うん、あいつなら絶対言うな。
帰宅した途端、バーダックお得意の飯作れ攻撃を受ける。
いつも独りご飯の身分だから、作り甲斐があって良いんだけどね。
それは喜んで食べてくれればの話であって。
「今日もカレーなんだけど、これにトロトロ半熟の玉子を乗っけて食べるのが美味しいのよ。所謂、オムカレーね」
「御託はいいから、早く食わせろ」
ベッドで寛いでいるバーダックからの、容赦ない命令が下される。
「……はいはい」
テンションが下がりつつ、テーブルに料理を並べる。
バーダックはお皿とスプーンを持って、オムカレーを一口食べる。
「どう?」
「昨日よりは美味いかもな。この黄色いのもなかなかイケるぜ」
あっさり美味しいって言ってくれたのは嬉しいけど……。
「黄色いのじゃなくて玉子ね。それも、半熟トロトロの」
「食えりゃあ、なんでも良いだろ」
どんな風に生きたら、こんな傲岸不遜になるんだか。
後片付けをした後、入浴を済ませた私は、ソファーに座って意識を集中させる。
こうすると、余計なことを考えずに集中力が増すから、願い事を考えるには良い状態の筈。
ふと気配が近づくのを感じて、目を開けると。
「不細工な面だな。ほら、ここ……眉間に皺が寄ってるぜ?」
バーダックが私の眉間を指で、つんつんと突いてくる。
「邪魔しないでよ。私は真剣に願い事を考えて……あっ、そうだ!」
「っ……何だよ、いきなり人の耳元ででかい声出すな」
突然ソファーから立ち上がった私に、バーダックは顔をしかめながらぼやいた。
「今二つ目の願い事を思いついたのよ!」
「へえ、言ってみろよ」
「私の運命の人に逢いたい。そんな相手が本当にいるのか、分からないけどね」
「いかにも女が思いつきそうな、安直な願いだな」
バーダックはお得意の意地悪な笑みを浮かべて応えた。
「バーダックみたいにデリカシーのない魔人には、女心なんて一生理解出来ないわよ。それよりも、ちゃんと叶えてくれるんでしょうね?」
私が問いかけると、不敵に笑って楽しそうに囁きかけてくる。
「条件さえ守れば、何だって叶えてやるぜ」
「……どうしても、しなくちゃ駄目なの?」
「嫌なら諦めろって言ったよな?」
これは、絶対キスしなきゃ叶えてくれなさそうね……。
「先に言っとくけど、約束破ったら承知しないからね!?」
「叶えてやるつってんだから、犬みてえに吠えるんじゃねえよ」
面倒臭そうに応えたバーダックは、但しと言葉を続ける。
「今度は唇にしろ。頬っぺたにしやがったら、無効だからな?」
そんなことを言いながら、私の唇を突いてくる。
遊ばれてるのか、私は……。
「唇にって……そんなの無理に決まってるでしょ! ふざけるのも大概にしてよね!?」
全力で否定する私を、バーダックはニヤニヤと笑いながら、さも面白そうに眺めている。
「名無しさんが嫌なら、無理にとは言わないぜ? お前の願いが叶わないだけの話だからな」
「っ……く……唇に触れるくらい、何ともないわ!」
これも全部、運命の人に出逢う為よ!
そう決意して、バーダックの唇に自分を重ねた。
「んんっ!」
もういいかなと思って離れようとすると、急に後頭部を掴まれて動けなくなる。
「んっ!? ふ、んっ……!」
突然、咬みつくような激しいキスをされた。
バーダックの濡れた舌が口腔に侵入して、巧みに私の舌を誘い出そうとしてくる。
「んんっ……」
気づいたら、私は夢中でバーダックの舌を追いかけてしまっていた。
舌と唇を擦り合わせた後で名残惜しげに唇を離され、二人を繋ぐ銀糸がぷつりと途切れる。
激しいキスの余韻で足腰が立たなくなってしまった私は、ソファーに力の入らない身体を預けた。
「腰砕けになるぐらい感じたのか? 可愛いな、名無しさんは」
可愛いなんて言われたのは久しぶりで、かっと頬が熱くなった私は慌てて顔を背けた。
「なっ、何で……あんなキスしたの?」
「唇に触れるくらい、何ともないんだろ? だから、オレ好みのキスをしたまでだ。それに、名無しさんも夢中になってたじゃねえか。気持ち良かったんだろ、オレとのキスがよ」
「うっ……そんなの別にどうでもいいでしょ。それよりも、願いは叶えてくれたの?」
「叶えてやったから安心しろ。じゃあ、オレはもう寝るぜ」
バーダックは私の素っ気ない態度を気にも留めない様子で、ランプの中に戻った。
まさか、アイツとのキスが気持ち良かったなんて、口が裂けても言えるわけないじゃない……。
バーダックに二つ目の願いを叶えて貰ってから、どれくらい経つだろう。
その間にも何度か出逢いはあったけど、恋愛にまで発展することはなく。
やっぱり運命の人なんていないのかも――なんて、半ば諦めていた。
今日は週末。でも、外出気分にはなれなくて。
私はソファーに座って、ぼんやりとテレビを眺めていた。
因みにバーダックはいつものように、煙草を吸いながら私のベッドで寛いでいる。
「そういえばさ、バーダックにも願い事ってあるの?」
「……あるぜ。最も、叶う見込みのねえ願いだがな」
「どんなの? 良ければ教えてよ?」
「……この忌ま忌ましい呪縛から解放されたい、それがオレのたった一つの願いだ。ランプの魔人なんてな、自分の意思でなんざ何も出来ねえんだよ。所詮、籠の鳥だからな。だから、オレは自由の身になりてえ……それだけだ」
ああ、そうだよね。幾らランプから自由に出入り出来ても、ある程度ランプから離れることが出来ても、本当の自由を奪われていることに変わりはない。
どうして気づいてあげられなかったんだろうと思った瞬間、まるで心臓を鷲掴みされたように苦しくなる。
私はバーダックの傍に行き、彼の手を強く握り締めた。
「どうした?」
「バーダック……私がアンタにしてあげられることって、精々ご飯を作るくらいだよね」
「……お前、何か変だぜ?」
一度でいいから、バーダックの心からの笑顔を見てみたい。
だから、彼が一番望んでいることを私が叶えたいって思う。
私には、それが出来るから。
「最後の願いが決まったよ……バーダックを、人間として自由にして欲しい」
「名無しさん……本当に、それでいいのか?」
バーダックは目を丸くして、私を凝視している。
「もちろん。バーダックの願いは、私にとっての願いでもあるんだから」
ウインクして見せると、バーダックはニヤリと口元を歪めた。
そして、ちょいちょいと自分の唇を指す。
私はバーダックの意図を組んで頷いた。
「これが、本当に最後なんだね」
初めはあんなに嫌だったのに、今はちょっと寂しいかも……。
感慨深い思いを抱きつつ、バーダックに顔を寄せて、唇に軽く口づけた。
「ありがとよ。名無しさんの想いは、しっかり受け取ったぜ」
私の頭を撫でて、意地悪く笑う。
もう、この顔も見られないんだ……そう思ったら一層切なくなる。
でも、バーダックが自由を求めるのは当たり前なんだから、最後は笑顔で別れなくちゃ。
「短い間だったが、お前との暮らしはなかなか楽しかったぜ。名無しさんに逢えて良かったと思っている」
バーダックは、ふっと柔らかい笑みを浮かべる。
あ……この笑顔、今までで一番カッコいいかも。
悔しいから、本人には絶対言ってやらないけどね。
「私もバーダックに逢えてよかったよ。それこそ、色んなことがあったけど……今となっては全部いい想い出だしね」
私はせめてもの餞別として、バーダックの頬に口づけた。
「名無しさん。今の台詞、絶対に忘れるなよ」
「え、それって……?」
突然、バーダックとランプが眩い光を放った瞬間、思わず顔を背けてしまい、もう一度、彼の方を向いた時には跡形もなく消えていた。
「行っちゃった……忘れるな、なんて最後まで命令口調だったし……それにしても、私の部屋って、こんなに広かったんだな……」
本当に横柄な口を叩くランプの魔人だったけど、いなくなるとちょっと寂しい……。
バーダックが私の前から消えて、早数ヶ月。
あの日を堺に、私の中で何かが変わってしまい、心が凍りついたような気分で、何もかもが色褪せて見える。
しかも今日は、私の誕生日っていうこともあって、虚しさ三割増し。
人気のない寂しい部屋に帰る足取りは、独りでに重くなる。
あれから彼は一体どうしてるんだろうと気掛かりで、仕事に対しても熱意に欠け、半ば自棄になる時もしばしばあった。
ふと自宅マンションが見えた時、入り口付近で黒い人影が目に入った。
「あれ……?」
目を凝らして見ると、その人の容姿は、特徴的な蟹頭にトレードマークの紅い布と左頬の傷痕、そして懐かしい意地悪な笑顔を浮かべてる。
「バーダック!?」
「久々だな、名無しさん」
ランプの魔人だったバーダックが今は独りの人間として、私の前に立っている。
良かった、無事に願いが叶ったんだ。
安心して涙が出そうになった私は、咄嗟に背を向ける。
「おい、名無しさん」
バーダックが背後に立つのが、気配で分かった。
それでも振り向かない私の腹部に、逞しくて温かい腕を回され、そっと抱き締められる。
その温もりに涙腺が緩んで半泣きになり、震える私の頭をバーダックが優しく撫でてくれる。
「ところでお前、運命の相手とやらにはもう逢えたのか?」
「ぐっ……まだよ。別にもう諦めてるからいいけどね」
何も今、そんなこと聞かなくてもいいじゃない……。
「なら……名無しさん、今からオレに付き合え」
バーダックが静かにそう言うと、私の背中と膝裏に腕を回され、突然浮遊感に見舞われる。
「ひえっ!?」
引っ張られる感覚が怖くて、目前の首にしがみついた。
「色気のねえ声だな」
「きゅ、急に何するのよ!?」
「るせえ。あんまり騒ぐと、その口塞ぐぞ」
「っ……」
迷わず、唇を引き結ぶ。
そんな私を見たバーダックは満足そうに笑み、「さあて、夜のデートへと洒落込むか」と風を切って夜空へ上昇していく。
まるで夢のような状況に、心底驚いてるけど、この際彼が飛行出来たって何だって、気にしないことにしよう。
私がバーダックを好きなことに変わりないんだから。
自分勝手かもしれないけど、もう二度とバーダックがどこかに行ってしまわないように……。
私は強く願わずにはいられなかった。
「おら、着いたぜ」
そこは自宅マンションの屋上だった。
バーダックは緩やかに降り立ち、私を地面に下ろした。
「名無しさん、空見てみろよ」
「え?」
バーダックの意図が分からないまま、夜空を振り仰ぐ。
そこには、視界いっぱいに無数の星が光り輝いていた。まるで、私とバーダックを見守るように。
街を彩るネオンよりも、バーダックが見せてくれる星明かりの方が何倍も美しく、そして魅力的だった。
「なかなかの眺めだと思わねえか?」
「うん……そうだね」
今まで気づかなかった。
社会人になってから、夜空を見上げる機会なんてなくて。
目線はいつも、アスファルトに向いているから。でも、それってかなり勿体なかったな。
「名無しさん、寒いだろ?」
名前を呼ばれ、背後から強く抱き締められる。
バーダックの体温に包まれて、私の凍った心までも、じんわり溶かされていく。
「もう魔法の力なんざねえが、オレなりにお前の願いを叶えてやりてえと思った。運命の相手が見つからなかったんなら、オレが代わりに名無しさんの傍にいてやるよ。だから、それで我慢しろ」
バーダックの不器用だけど優しさを含んだ言葉に、自然と私の頬が緩んだ。
「我慢するも何も、もう運命の人に逢えたじゃない」
「それはオレのことか? はっ、随分と都合の良い女だな」
「本当は、バーダックもそう思ってるんじゃないの?」
「さあな。だが、まあ……名無しさんがそう思うなら、それでいいんじゃねえか?」
「そう、だよね……ありがと」
私の強い祈りがバーダックに届いて、彼は傍にいると言ってくれた。
今はそれだけで、充分嬉しい。
相手が運命の人かどうかなんて、要は自分の受け止め方次第なんじゃないかな。
私は年に一度の誕生日に、最高の形で再会出来た、愛しいバーダックを運命の相手だと信じてるから。
END