雨 弐
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はっと千鶴は顔をあげた。
為さんと、勇さん、
ここ八木家の息子たち。彼らの寝間は芹沢たちが眠っている部屋の隣で、あの暗殺の夜、逃げる芹沢が彼らの部屋へ逃げ込み、そして置いてあった文机につまづいてーーー。
千鶴は布団をはねのけ、部屋を飛びだした。中庭を避け、台所の方から子どもたちのいる部屋へ近寄り、息を殺して気配をうかがう。音はしない。そっと襖を開けると、するりと体を滑り込ませる。雨音の中、暗闇に目が慣れるのを待つ。
ーーー何もしないほうがいいのか。
確か子供の一人が脚を斬られただけで済んだはずだ。だが、問題は、文机があるべき場所にないということだ。汗が額からこめかみにまわり、伝い落ちる。心臓が痛いほど跳ね、汗でへばりついた浴衣の胸のあたりを押し上げる。まるで自分の体から逃げようとしているようだ。
千鶴は視線を部屋の奥へと向けた。闇になれた目に、文机がぼんやりと見える。それは本来あるべき側から反対側に置かれている。
日中、千鶴が為三郎から文机を借りたのだ。そして文机を返したとき、為三郎はそれを何気なく反対側に置いたーーー。
千鶴は静かに部屋に這い入った。隣からは激しい雨音にも負けず、芹沢たちの大きないびきが聞こえてくる。寝具の上で掛け布団を蹴飛ばし大の字で寝る兄弟のそばまでいき、千鶴はピタリと止まった。
どうするべきか。
兄弟を起こし、他の部屋へ逃がすか。それとも文机を本来の位置に戻すか。前者を選べば、大きく歴史が変わるのではないか。後者を選べば、それはすなわち千鶴が芹沢の死に間接的に関わることになる。
どうする。どうする。
この蒸し暑いのに、千鶴の指先が冷え、小さく震え始めた。汗が目に入り、しみる。浴衣の袖で顔を拭う。
その瞬間。
ダン!と縁側が鳴った。
続けて腹の底から発される、居合の声。怒声。悲鳴。激しい雨音の中、かすかにしゅうしゅうと液体が噴き出す音はなんだ。ガタン、と襖が外れる音がした。子どもがむくりと体を起こす。
「為さん」
千鶴は震える声で呼んだ。寝ぼけているのだろう。為三郎は動かず、ぼんやりと座っている。
「こちらにーーー」
さぁっと部屋の中が明るくなった。まるで昼間のように。為三郎が向かい合う障子に黒い影が映った。刀を振り上げ、まるで悪鬼がそこにいるようだ。
「ひ…」
為三郎が息を引き込むと同時に、パシャーンという轟音、ついでビリビリと空気が震える。雷が落ちたと気づいた瞬間、影が障子ごと倒れ込んできた。それは芹沢だった。下帯姿で、体中が鮮血で覆われている。刀を布団ごと畳に刺して体を支え、進もうとして為三郎に脚をとられ、体が傾く。千鶴は咄嗟に腕を伸ばし、為三郎を抱き寄せた。芹沢がどうっと音を立てて転がる。
ガッという音に目を向けると、鴨居に食い込んだ刀の刃を引き抜こうと、男が力任せに引っ張っている。男と視線が合った。
赤い髪の隙間に覗く、いつもは優しげな蜂蜜色の瞳。
この瞳が千鶴をとらえ、認識し、動揺した。
千鶴先生。
雨音で声は消されたのか、それともはなから声は出ていなかったのか 、原田の口は確かに千鶴の名を呼んだ。
芹沢が体を起こし、刀を突きの型に構えた。
「原田ぁ!この裏切り者がぁ!」
刀を振りかぶる形で引き抜こうとする原田の体はがら空きで、むしろ芹沢の刀を吸い込もうとするようにさらされていた。
「原田さん!」
千鶴の叫び声に、腕の中で為三郎がぶるりと震えた。そのとき、原田の脇からするりと一陣の風が吹き込んだ。千鶴はそう感じた。風は突き出された芹沢の刀をするりとかいくぐり、芹沢の目の前で、一人の男の姿に変わった。
土方さんー。
千鶴がつぶやくのと同時に、土方の刀が銀色のような残像を残し、袈裟懸けに振られた。シャアッと音を立てて吹き出す血が、崩れ落ちる芹沢にあわせて土方、障子、壁、そして布団へと掛かり、芹沢は動かなくなった。
しんとした。雨音までが止んでいた。かすかに遠くで雷鳴がする。誰のものか、小さく荒い呼吸だけが聞こえた。
ガッと音を立て、原田が刀をか鴨居から引き抜いた。刃に指を当て、刃こぼれを確認する。原田は無表情だった。先ほどの千鶴を見て動揺した原田ではなく、今の原田は暗殺者だった。
その背後からひょいと沖田が顔をのぞかせる。一瞥して状況を理解すると、千鶴を見ていつものニヤリとした笑みを浮かべ、猫のように消えた。
土方が音もなく千鶴の横に立った。千鶴は為三郎を強く抱く。為三郎は震えながら、土方を見ないよう、千鶴の胸に顔を押し付ける。チラリと横目で勇之助を見ると、いまだ大の字で眠っている。その様子に不謹慎にも小さくほほ笑んでしまった。その鼻先に、血と脂が絡みついた刃が突きつけられた。見上げると、土方がじっと千鶴を見つめている。冷えた瞳を、千鶴は微笑みを残したまま見つめ返した。
恐れてなど、やるものか。
じっと土方と見つめ合う。今自分が歴史の教科書に出てくる事件に関わっていることなど、気にもならなかった。土方は顔にも、刀を握る手にも、着物にも芹沢の血が吹き付けられている。
初めて人を殺したのだろうに。
多摩の田舎で通ぶって短歌をしたため、いつか立派な侍になると意気込んでいた青年は、先に暗殺者になってしまった。
同情したわけではないが、人生の奇妙さに千鶴はいたたまれなくなり、その感情が目に現れたのだろう、土方が少し訝しげに目を細めた。
「土方さん、行こう」
刀を収めた原田が声をかけてきた。
土方は何も言わず、背を向けて縁側から中庭へ降りた。原田はくしゃりと前髪をかき上げながら、千鶴に苦笑いをくれた。
「ーーーまいったな…」
そして、土方の後を追って暗い中庭に消えた。
屋敷の中に、人々が息を殺す気配がする。誰も動かない。声もしない。為三郎と一つになったようにじっとしていると、遠くからドタドタと足音が近寄ってくる。
「どうしたどうした、何事だ!」
素人芝居でももう少し上手ですよ、近藤先生ーーー。千鶴はようやっと息を吐き出した。屋敷のそこここで音が起こる。人が動き始める。
千鶴は為三郎を離すと、部屋の隅に転がる文机を、あるべき場所にそっと戻した。
為さんと、勇さん、
ここ八木家の息子たち。彼らの寝間は芹沢たちが眠っている部屋の隣で、あの暗殺の夜、逃げる芹沢が彼らの部屋へ逃げ込み、そして置いてあった文机につまづいてーーー。
千鶴は布団をはねのけ、部屋を飛びだした。中庭を避け、台所の方から子どもたちのいる部屋へ近寄り、息を殺して気配をうかがう。音はしない。そっと襖を開けると、するりと体を滑り込ませる。雨音の中、暗闇に目が慣れるのを待つ。
ーーー何もしないほうがいいのか。
確か子供の一人が脚を斬られただけで済んだはずだ。だが、問題は、文机があるべき場所にないということだ。汗が額からこめかみにまわり、伝い落ちる。心臓が痛いほど跳ね、汗でへばりついた浴衣の胸のあたりを押し上げる。まるで自分の体から逃げようとしているようだ。
千鶴は視線を部屋の奥へと向けた。闇になれた目に、文机がぼんやりと見える。それは本来あるべき側から反対側に置かれている。
日中、千鶴が為三郎から文机を借りたのだ。そして文机を返したとき、為三郎はそれを何気なく反対側に置いたーーー。
千鶴は静かに部屋に這い入った。隣からは激しい雨音にも負けず、芹沢たちの大きないびきが聞こえてくる。寝具の上で掛け布団を蹴飛ばし大の字で寝る兄弟のそばまでいき、千鶴はピタリと止まった。
どうするべきか。
兄弟を起こし、他の部屋へ逃がすか。それとも文机を本来の位置に戻すか。前者を選べば、大きく歴史が変わるのではないか。後者を選べば、それはすなわち千鶴が芹沢の死に間接的に関わることになる。
どうする。どうする。
この蒸し暑いのに、千鶴の指先が冷え、小さく震え始めた。汗が目に入り、しみる。浴衣の袖で顔を拭う。
その瞬間。
ダン!と縁側が鳴った。
続けて腹の底から発される、居合の声。怒声。悲鳴。激しい雨音の中、かすかにしゅうしゅうと液体が噴き出す音はなんだ。ガタン、と襖が外れる音がした。子どもがむくりと体を起こす。
「為さん」
千鶴は震える声で呼んだ。寝ぼけているのだろう。為三郎は動かず、ぼんやりと座っている。
「こちらにーーー」
さぁっと部屋の中が明るくなった。まるで昼間のように。為三郎が向かい合う障子に黒い影が映った。刀を振り上げ、まるで悪鬼がそこにいるようだ。
「ひ…」
為三郎が息を引き込むと同時に、パシャーンという轟音、ついでビリビリと空気が震える。雷が落ちたと気づいた瞬間、影が障子ごと倒れ込んできた。それは芹沢だった。下帯姿で、体中が鮮血で覆われている。刀を布団ごと畳に刺して体を支え、進もうとして為三郎に脚をとられ、体が傾く。千鶴は咄嗟に腕を伸ばし、為三郎を抱き寄せた。芹沢がどうっと音を立てて転がる。
ガッという音に目を向けると、鴨居に食い込んだ刀の刃を引き抜こうと、男が力任せに引っ張っている。男と視線が合った。
赤い髪の隙間に覗く、いつもは優しげな蜂蜜色の瞳。
この瞳が千鶴をとらえ、認識し、動揺した。
千鶴先生。
雨音で声は消されたのか、それともはなから声は出ていなかったのか 、原田の口は確かに千鶴の名を呼んだ。
芹沢が体を起こし、刀を突きの型に構えた。
「原田ぁ!この裏切り者がぁ!」
刀を振りかぶる形で引き抜こうとする原田の体はがら空きで、むしろ芹沢の刀を吸い込もうとするようにさらされていた。
「原田さん!」
千鶴の叫び声に、腕の中で為三郎がぶるりと震えた。そのとき、原田の脇からするりと一陣の風が吹き込んだ。千鶴はそう感じた。風は突き出された芹沢の刀をするりとかいくぐり、芹沢の目の前で、一人の男の姿に変わった。
土方さんー。
千鶴がつぶやくのと同時に、土方の刀が銀色のような残像を残し、袈裟懸けに振られた。シャアッと音を立てて吹き出す血が、崩れ落ちる芹沢にあわせて土方、障子、壁、そして布団へと掛かり、芹沢は動かなくなった。
しんとした。雨音までが止んでいた。かすかに遠くで雷鳴がする。誰のものか、小さく荒い呼吸だけが聞こえた。
ガッと音を立て、原田が刀をか鴨居から引き抜いた。刃に指を当て、刃こぼれを確認する。原田は無表情だった。先ほどの千鶴を見て動揺した原田ではなく、今の原田は暗殺者だった。
その背後からひょいと沖田が顔をのぞかせる。一瞥して状況を理解すると、千鶴を見ていつものニヤリとした笑みを浮かべ、猫のように消えた。
土方が音もなく千鶴の横に立った。千鶴は為三郎を強く抱く。為三郎は震えながら、土方を見ないよう、千鶴の胸に顔を押し付ける。チラリと横目で勇之助を見ると、いまだ大の字で眠っている。その様子に不謹慎にも小さくほほ笑んでしまった。その鼻先に、血と脂が絡みついた刃が突きつけられた。見上げると、土方がじっと千鶴を見つめている。冷えた瞳を、千鶴は微笑みを残したまま見つめ返した。
恐れてなど、やるものか。
じっと土方と見つめ合う。今自分が歴史の教科書に出てくる事件に関わっていることなど、気にもならなかった。土方は顔にも、刀を握る手にも、着物にも芹沢の血が吹き付けられている。
初めて人を殺したのだろうに。
多摩の田舎で通ぶって短歌をしたため、いつか立派な侍になると意気込んでいた青年は、先に暗殺者になってしまった。
同情したわけではないが、人生の奇妙さに千鶴はいたたまれなくなり、その感情が目に現れたのだろう、土方が少し訝しげに目を細めた。
「土方さん、行こう」
刀を収めた原田が声をかけてきた。
土方は何も言わず、背を向けて縁側から中庭へ降りた。原田はくしゃりと前髪をかき上げながら、千鶴に苦笑いをくれた。
「ーーーまいったな…」
そして、土方の後を追って暗い中庭に消えた。
屋敷の中に、人々が息を殺す気配がする。誰も動かない。声もしない。為三郎と一つになったようにじっとしていると、遠くからドタドタと足音が近寄ってくる。
「どうしたどうした、何事だ!」
素人芝居でももう少し上手ですよ、近藤先生ーーー。千鶴はようやっと息を吐き出した。屋敷のそこここで音が起こる。人が動き始める。
千鶴は為三郎を離すと、部屋の隅に転がる文机を、あるべき場所にそっと戻した。
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