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藪の宿

 しばらく後、有吾は部屋に上がり、女の差し出してくれた茶を口にしていた。
 屋根にぶつかる雨音が気にならなくなってくる頃には、もうすっかり日が落ちていた。
「これからどちらまで?」
 女の問に、有吾は用意してあった答えを口にした。
「この先の井沢村に、知り合いを尋ねていくところなのですが。ここから遠いでしょうか」
「遠くはありませんが……。今日は雨模様ですから月もありません。夜道は危険です。どうぞ泊まっていってくださいませ」
 願ってもない申し出だった。

 それにしても、近くで見れば見るほど、こんな山奥に暮らしている女とは思われないような、美しい女だ。
 細いけれども、胸や腰には成熟した女のまろみがある。何よりも、着物からすっと伸びる首筋の白さは、百姓女のものとは思えない。顔色も透き通るように白く、微笑む唇だけが紅く色づいている。どこか疲れたようなけだるげな雰囲気は、女に儚さを添えて、男なら庇護欲を掻き立てられるに違いない。
 そういう種類の女だった。
 女は夕餉の支度をはじめた。
「ところで、ご主人はいつお帰りになるのですか?」
 こんな土砂降りの雨の中、暗くなっても帰らないのに、心配ではないのだろうか。
「……」
 膳を運んできた女は目をしばたかせ、涙を堪えるような表情を浮かべた。
「すみません、差出たことをお聞きいたしました」
 首を振る女の黒いほつれげが、ふわふわと揺れる。
「冷めないうちにどうぞ。おかわりもありますので」
 茶碗に大盛りのご飯が差し出された。
 膳に乗るのは味噌汁と香の物。これだけでも十分なのに、煮物まである。わざわざ炊いてくれたらしく、ホカホカと温かいご飯がおひついっぱいに入っている。今ならひつの中のご飯を、全部一人で食べてしまえそうだ。
 その証拠とばかりに、雨の中歩き続けた有吾の腹は、匂いをかいただけでぎゅるぎゅると音を立てた。
 自分でもその音に驚き、女の方を見る。
 残念なことに女の耳にもその音は届いていたらしい。
 ずっとうつむき加減だった女と、有吾の視線が初めてぶつかった。
 とたんに二人は声を立てて笑い、今まで二人の間にあった緊張がはらりと解けていった。
 有吾は恥ずかしさを紛らわすために、ひときわ大きな声で「いただきます」と手を合わせる。
 それぞれの料理を順に口に運ぶ有吾を、女は神妙な顔つきで見守っていた。
 一通りの菜を食べると、有吾は一旦箸を置いて姿勢を正す。
「うまいです」と頭を下げると、女が安堵したように笑った。
「どうぞ、たくさん食べてくださいませ」
「かたじけない。ええっと……あなたも、一緒に食べませんか?」
「みやぎです」
「みやぎ……」
「はい。みやぎと申します」
「じゃあみやぎさん。私が言うのも変ですが、一緒に飯を食べませんか」
 有吾の誘いにみやぎは小さくうなずくと、自分自身の茶碗にご飯をよそい、箸を手にした。

 ◆



 鳥の声が聞こえた。
 日が昇り切る前のうすい靄に包まれて、木刀を振るう少年がいる。
 ああ、あれは自分自身なのだと、有吾はぼんやりとした意識の中で認識した。
 シュ
 シュ
 シュ
 規則正しく剣が空を切る。
 じんわりと汗ばみ、大量に吸い込みたくなる息を乱れないように整えながら、何度も何度も剣を振り下ろす。
 同じ作業を繰り返しているように見えるが、頭の中では常に己の至らぬ点を探し、次の一振りに細かな修正を与えている。
 ――頭をつかうのだ。何も考えずに同じ作業を繰り返しても、上達などない。素振りをするだけ時間を無駄にしているようなものだ――
 父の教えだ。
「有吾さん。朝ごはんの用意ができてますよ」
 そう声がかかる頃には、もう靄は晴れて、太陽はすっかり昇っていた。
 暖かみを増した空気の中に、味噌汁の匂いとご飯の炊ける甘やかな匂いが混じる。
「……母上」
 姿形は少年であるのに、聞こえてきた自分の声はずいぶんと低くて、有吾は瞬間、夢から醒めた。


 醒めはしたのだが、まだ夢の中にいるような気分だった。
 横になったままであたりを見回す。
 目に映ったのは、すっかり慣れ親しんだ長屋の天井ではなかった。
 井戸端で噂話をするおかみさんたちの声、仕事に出かけようとする亭主との早口のやり取り、子どもたちの笑い声や泣き声、どぶ板を踏む下駄の音。いつもなら聞こえるはずの、やかましいほどの物音もない。
 静けさの中から聞こえるのは、鳥の声と小さな虫の音。
 そして、夢の中の続きのような、味噌汁の匂いと炊きたてのご飯の匂い。

 ここは、どこだ?

 むくりと起き上がり、有吾は自分自身を見下ろした。
 見慣れない着物を目にして、あのみやぎという女のことを思い出した。
 ここは藪の中の一軒家で、有吾は雨に振り込まれ一夜の宿を借りたのだ。
 記憶が蘇ってくる。
 起き出した有吾は布団を畳んでから、障子戸を開けた。
 ずいぶんとぐっすり寝ていたらしい。
 雨戸はすでに開けられていて、縁側の先の景色を見渡すことができた。雨はやんだようだが、空気はまだ湿っぽく、庭に生えた雑草はきらきらとした露を乗せて、重たそうにしなだれている。
 庭と藪の境目は、竹垣でぐるりと囲まれていが、その竹垣も灰色に変色し、かなり古びてきている。
 周囲に家のある気配はない。
 家から少し離れたところに、椿の垣根でよく見えないが、今にも崩れ落ちそうな小屋がある。竹垣の内側だから、この家の所有する小屋なのだろう。
 土間へと続く板戸の開く音がして、振り返ると戸の影からみやぎの顔が覗いていた。
「お目覚めになられましたか」
 みやぎが土間からほかほかと湯気を立てるご飯や味噌汁を運んでくる。
 障子戸を開けたまま、二人で膳を囲んだ。
「昔は|鶏小屋《とりごや》で鶏を飼っていたんです。まだいれば卵焼きを作って差し上げられたんですけど」
「ああ、あの椿の垣根の向こうの小屋ですか?」
「ええ、あの小屋はもう崩れかけていているんです。鶏もおりませんし、危険ですから、有吾様も近づかれませんように……」
 野菜ばかりで申し訳ないと、みやぎは恥ずかしそうにうつむいた。
「とんでもない。味噌汁も漬物も、とてもうまいです。それより、一晩泊めていただいたお礼に、なにか出来ることはありませんか。草むしりでも薪割りでも。それとも、ご主人が帰ってくる前にいなくなったほうが都合がよろしいでしょうか?」
 女はなんと答えるか。
 昨夜、女から亭主の話は一切なかった。ただ庭の荒れ方、崩れかけた鶏小屋、古びた竹垣から察するに、男手があるようには思えない。
「亭主は、上方に所用で出かけております。女手一つでは草むしりも薪割りも手が回りません。お手伝いして頂けるのなら、とても助かります」
「なんと、いや、泊めてもらった私が言うのもなんですが、女の一人暮らしとは、心細くはありませんか。その上周囲に民家もない様子。ご亭主が帰るまで、ご実家なりご親戚に身を寄せたほうがよろしいのでは?」
 有吾の言葉を聞くと、みやぎはくすくすと笑いだした。どこか暗い影を帯びた面にさあっと陽の光があたったような、晴れやかな笑みだった。
「大丈夫です。両親も親戚もいないのです。私の頼る人は主人だけなんです。ですからここで、ずっと帰りを待っているのです。寂しくはありませんよ、しなければならないことがたくさんありますし、こうして時々お客様が来てくださいますし」
「しかし……」
 食事を終えたみやぎは立ち上がり、縁側へと出ていった。額に手をかざしながら空を見上げている。
「雨は上がりましたが、ひどい降りでしたから、まだ道はぬかるんでいます。お出かけするのは危険でしょう。一晩の恩があるとお感じになるのなら、どうぞ、ゆっくりしていらしてください。草をむしろうにも、もう少し地面が乾かなければ、大変なことになりますでしょう?」
 それは確かにみやぎのいう通りだった。
 あまり乾いていても草を抜くのに力がいるが、ぬかるんでいても、また難しい。
「お急ぎですか?」
「いや」
 思わずそう答えていた。
「では決まりです」
 一晩過ごし、有吾が人畜無害であるとわかったからなのだろうか。今朝のみやぎは明るかった。
 有吾はご飯を口の中に放り込み、箸を持ったままの手で、首の後をごりごりと掻いた。
「いや、あなたの方でよいのなら……もう一晩泊めて頂けると助かりますが」
「まあ、うれしい。お茶の用意をいたしましょう」
 みやぎは幼女のように手を叩いて喜んだ。


 照りつける陽の光のせいで、湿っていた地面はあっという間に乾いていく。
 しとしとと長い時間に渡って降り続いた雨とは違い、ざっと短時間に降った雨は、地面の表層にしか染み込んでいなのだろう。
 庭の様子を確認した有吾は立ち上がった。
「薪割りを、やってしまいましょう」
「まあ、もう?」
「地面もだいぶ乾いてきました、遅くなると、今度は暑さにやられそうです」
 外はもうすでに気温が上がってきている。昨夜降った雨のせいで湿度も高い。午後になってからでは、仕事にならないに違いない。
 有吾は太い材木をいくつか土間から運び出すと、もろ肌を脱いだ。
 みやぎは縁側から物珍しげに有吾の様子を眺めている。
「そんなに見ないでください。恥ずかしくなります……」
 顔を隠すようにうつむくと、みやぎの方でも「あら」といって顔を背けた。
「ごめんなさい。でも、有吾様のように大きな体の方を見たのは初めてでしたので、びっくりしたんです。その、とても力強そうだったので、思わず見入ってしまいました……すいません」
 みやぎはそそくさと立ち上がり、家の奥へと消えていった。
 薪割りを始めると、あっという間に汗だくになる。
 みやぎは家の仕事をしていたり、針仕事をしていたり、かと思うと敷地の隅の小さな畑の草をむしったりしている。
 ただ一心に薪割りをしていると、今はもう戻ることのできないであろうふるさとの……山瀬家の家屋敷が思い出された。
 父は小さな藩とはいえ御用人を勤めていたから、このあばら屋とは比較にならないような立派な屋敷に住んでいたのだが、江戸にはないのどかな風景や濃い緑の匂いが、自分を過去へと誘うのだ。
 夏が置き忘れていったような湿った暑さのように、過去の思い出は自分自身に張り付いて、この先も、一生剥がれることはないのだろう。
 父がいて、母がいて、奉公人たちがいて、青年だった有吾はこうして薪割りの手伝いをすることもあった。
 薪割りなど下人にやらせればいいではないか、と友人たちに笑われたりもしたが、これも鍛錬の一つです、などと生真面目に答えたものだ。
 道場で一番の腕前だなどと、あの頃の自分は奢ってはいなかったか。
 他人の気持ちを踏みつけにしてはいなかったか……。
 今このような身分に自分を貶めたのは……。
 思考の路地に迷い込み、ふっと視線を上げると、畑の中にしゃがみこんだみやぎがこちらを見ていた。
 有吾は取り繕うこともできずに、ただ見つめ返した。
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