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依頼人

 雨音は消え、夜空にかかる雲も、どこかに消えたのだろう。
 外と内を隔てる障子紙が、ぼんやりと明るく浮き上がって見える。
 ひっきりなしに聞こえていた近隣の生活音は消え、そのかわりにゲコゲコという蛙の声が聞こえていた。
 目を閉じて耳を澄ませていると、雨上がりの威勢のいい蛙の声の中から、規則的な別の音が聞こえだす。
 すっ、すっ、すっ、すっ……。
 と、一定の速さで近づいてくるそれは、足音だろう。
 旦那だな。
 そう思った六助が身を起こしたのと同時に、長屋の入り口がガタガタと音を立てて開いた。
「お帰りなさい。遅かったじゃねえですか。とよぼうはすっかり寝ちまいやしたよ」
「六助さん。すいません。すっかり遅くなってしまって。そろそろ四つですから、木戸もしまってしまいます、今日は泊まっていってください」
「ええ、そうさせていただくつもりでしたよ」
 部屋に入ってきた有吾は、雨の匂いを纏っていた。
「旦那は今まで、何をなさっていたんで?」
 部屋に上がり、有吾は六助と向かい合わせに腰を下ろした。
「とよの姉さんの、奉公先に行ってきました」
「え!?」
 大きな声をあげそうになり、六助は自分自身の口を手で塞いだ。
 とよが身じろぎ一つせずに寝ているのを確認すると、ささやき声でたずねる。
「どうやってみつの奉公先がわかったっていうんです? それも、化けもの退治するときみてえな、不思議な力ですかい?」
「いえ、簡単なことですよ。みつは江戸で奉公していたということですよね。口入れ屋の中には人さらいみたいな奴らもいますが、みつはちゃんとしたお屋敷に勤めていたらしい、ということは口入れ屋もきちんとしたところを通したに違いない」
「ははあなるほど。口入れ屋をあたったんですね?」
「ええ、きちんとしたところなら、記録をとっているはずです。何年も前のことでしたら時間がかかるかもしれませんが、今年世話した奉公人のことです。出身も名前もわかっているのですからね、少し調べればすぐに分かります」
「で、奉公先に?」
「ええ、行ってきました」
 やはり旦那はすごい。
 六助は知らず前のめりになって「で? わかりやしたか!」と、有吾に先を促した。
「井沢村のみつという奉公人は、きちんと実在してましたよ。とよのいうとおり、熱を出したために、在所に帰るのを延期されることになってました。ただ……」
 有吾が無精髭の生えた顎を撫で擦る。
「なにか、解せないことがあるんで?」
「とよは、藪入りの日にみつが帰ってこなかったから江戸に探しに出てきたと言ってましたね」
「へえ、そのとおりでさあ」
「しかし奉公先では、同じ村に帰る男に、みつの具合がわるいことと、実家に帰る日を遅らせるということは、ことづけたと言うんですよ。そうなると、その男は井沢村に戻っていないのか……それともわざと、伝えなかったか……、伝え忘れるということはないと思いますけどねえ」
 奉公人が主人に頼まれたことを忘れた、という可能性は、たしかに少ないだろう。
 六助には周囲から聞こえる蛙の声が一層大きくなったようなきがした。
『そしたらさ、家の奥の方から何か、きらきらしたもんでぐるぐる巻きにされた男が飛び出してきたんだよ。それで、逃げろって言われたんだ』
 蛙のゲロゲロという音の中から、とよの言葉が、不意に思い出された。
 悪夢にうなされていた、とよの言葉だ。
 江戸から井沢村への通り道に巣食った化け物。
 奉公先から村へ帰る男。
 化け物の家で、きらきらしたものにぐるぐる巻きにされた男。
 六助は思わず自分の膝を叩いていた。
「……あ! 旦那、その男!」
「どうしました? 六助さん」
「そうだ、そうだよ旦那! とよは江戸に来る途中、化け物と、その男に会ってるんだ!」
 六助は、とよから聞いたことを有吾に伝えた。
 とよに『逃げろ』と言った男。それがとよの家族にみつの病気を知らせるはずだった男ではないのか? だからみつについての知らせがとよの家族にもたらされることはなかったのだ。だから、とよはみつに合うために江戸へ向かったのだ。それに違いない。
「なるほど」
 有吾は無精髭をなでながら、何度も頷いている。
「ええ、おそらくそうでしょう」
 六助は胸を張った。
「でしょう?」
「だとすると、その男はもう生きていないかもしれませんね」
「ええっ!」
 大きく驚いてしまったが、よく考えれば確かにと思う。
 想像したくもないものを想像してしまい、急に寒気を覚えた六助は、裸の腕を抱えて身震いをした。
「それからみつの奉公先で、もう一つ不思議なことを聞きました」
「ま、まだなにかあるんで?」
 寒くなってきた六助は、生乾きの着物に袖を通す。
「ええ。昨夜なんですけどね、みつの部屋の前に立つ、きれいな女を見たという奉公人がいるんですよ」
「きれいな、おんな」
 ごくり。六助の喉が鳴った。
「ええ、若くはないがなかなかきれいな女がだったそうですよ。みつの寝ている部屋の前に立っていたそうなんですが、見ているうちに、ふっと消えてしまったそう……」
「ひえええぇぇぇぇぇ!」
 かすれた悲鳴を上げながら、六助は有吾の腕にしがみついた。
 有吾が無言で六助を見下ろす。
「おおお、驚かさないでくださいよ? あっしはどうも化け物は苦手でいけねえや。生身の人間相手ならいいんですけどねえ」
 すいませんと、有吾の腕を離す。
「いいえ、六助さんは、いい人ですね」
「はい?」
「人間より、化け物が怖いだなんて」
 どういうことだろうと、六助は首をひねる。
「化け物っていうのは、人間がいなけりゃそこまで悪さをしたりしないんですよ。悪いことを引き寄せるのは、たいてい人間の持つ嫉妬だったり怨念だったりするわけで……」
「残念ながら旦那!」
「なんでしょう」
「人間の嫉妬が恐ろしいってえのは、あっしにもわかりやす。それはわかってる。けど、嫉妬で人は死にゃあしませんよ。だいたい嫉妬なんてものは、そのへんにゴロゴロ転がってるんですよ。そんなんで死んでたんじゃあ、江戸に人はいなくなっちまいやすよ」
 なんと言われようと、六助は得体の知れない化け物なんかより、人間のほうが怖くない。
 有吾は何やら考え込んでいるようだった。しかし明日は化け物退治に向かうのだ。いつまでも話し込んでいるわけにもいかないだろう。
「とにかく、寝てくださいよ、布団はとよが使っちまってますが」
「いや、かまいませんよ」
 二人はとよの右と左にごろりと横になると、その日はそれ以上議論することなく、床についたのだった。
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