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うたかた

 暗い水底に、小さな家が建っていた。貝や珊瑚で出来た家は、それ自体がうっすらと光を放っている。

 家の中では藍染の襤褸の着物を纏った少女が、魔法の鏡をのぞいていた。

 鏡の中には、抱きかかえた若者を海面へ押し上げようとするリュリの姿と、その奥で繰り広げられる人魚たちの凄惨な食事風景が映っていた。

「せっかくいい月夜だったのに、台無しね」

 少女の指が鏡面を滑ると、映し出されていた光景は消えた。

 代わりに映るのは、少女自身の顔である。

 痩せた頬に吊り上った大きな目。頭のてっぺんで結わえた黒髪が四方に散っている。着物の合わせから伸びるのは、魚のしっぽだ。

「あの子、どうすると思う?」

 突然聞こえただみ声に、少女は周囲を見回した。

 すぐ隣で、吸盤のついた八本足の足をくねらせ、タコがこちらを見上げている。

「いつの間に入り込んだのよ!」

 少女は腕組みをしてタコを見下ろした。

「今頃気が付くなんて、藍色の魔女の名前が泣くね」

 タコはひしゃげた笑い声をあげた。

「藍色の魔女だなんて、あんたが変な名前を付けるから、みんながそう呼ぶじゃないの」
「だって、名前を教えてくれないんだからしょうがないだろう」
「名前なんて、あってもしょうがないでしょ?」
「変わり者、なんて呼ばれるよりはいいんじゃないの?」

 確かに。

 藍色の魔女は、人魚たちの間でどうやら『変わり者』と呼ばれているらしい。

 狩りにも出ず、群れにも入らない人魚は変わり者に違いない。

 それをこのタコが『藍色の魔女』なんて呼び始めたせいで――タコにいわせれば「おかげ」で――今ではその名前で海の中の生き物たちには知られた存在となっている。

 タコとの出会いは偶然である。

 天敵に襲われ、逃げ延びたものの瀕死でのたうっていたタコを、気まぐれに助けてしまったのだ。薬の調合が得意だったこともあり、タコは見る間に回復した。頼んでもいないのに藍色の魔女の噂をあちらこちらに流してくれた「おかげ」で、今では少女の調合する薬を頼って訪ねてくる生き物も増えている。

 海底に住み着くようになってから、誰とも付き合わずに生きてきたというのに。

『なみ』

 そんな名前で呼ばれたのは、いつのことだったか。もう数えることもやめた。

「人間の世界に、戻りたいのかい?」

 藍色の魔女は、足元のタコを太い尻尾で跳ね飛ばした。

「戻りたいわけがないでしょ! あたしを拾って育ててくれたおじいさんもおばあさんも、愛しているといった男も、やさしい顔をして、みんなあたしをだましたのよ!」

 それどころか、食べようとしたやつもいる。

 考えるだけでおぞましい。

 見世物小屋の連中に連れられて、檻の中で過ごした日々を、藍色の魔女は忘れたことがない。

 次の巡業に向かうために、海岸沿いの崖を通ったのが彼らの運の尽きだった。

 必死に歌を歌った藍色の魔女は嵐を起こし、高い崖から一直線に海の中へと逃げたのだ。

「あんたのせいで、嫌なことを思い出したわ」

 タコを部屋から追い出して、藍色の魔女は眠りについた。

 久しぶりに昔のことを思い出したからだろうか。その夜、人間と暮らしていたころの夢を見た。

 おじいさんとおばあさんが用意してくれた盥の中で、幼い藍色の魔女は水遊びをした。なみという名前を付けてくれたのも、人間だ。海の底と同じだよと、藍染の着物をくれた。漁師のあの人を好きになって、あの人も藍色の魔女を「大好きだよ」と言ってくれた。

 夢ならば、幸せなまま終わってくれればいいのに。夢の中でも人間は彼女を裏切る。

 欲に血走った瞳で「俺のために、身を売ってくれ」と懇願する!

 飢饉と流行り病が引き金だったとはいえ、何の相談もなくなみ一人が売り飛ばされた。仲間だと思っていた。家族だと思っていた。それなのに……。

「あたしは、人間じゃないんだ。だからあたしだけが売られるんだ!」

 拾って育ててくれた恩も、交わした愛の言葉も、あっという間になみの腕をすり抜けていった。
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