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余燼

 道に出たといっても、今まで通ってきた藪の中よりは幾分歩きやすいという程度の細い道だった。
 草は茫茫と生え、ただでさえ細い道だというのに、それさえ遮ろうとするかのようにあちこちから枝が突き出している。
 行く手を塞ぐ下草や枝を払おうにも、とよを背負った有吾は手が使えない。それでも、少しでもとよに枝が当たらないようにと、足や肩を使い、かき分けるようにして歩を進めた。
 むき出しになった傷に枝が当たる。痛さにうめき声をあげてしまいそうになるのを、唇を噛んで耐えた。
 つい先程までは爽やかだった空気が、重さを増し、ベタベタとまとわりつきはじめる。
 痛みのせいで吹き出す脂汗と、気温の上昇による汗が混じり合い、頭の天辺からたらたらと流れ落ちてくる。眉にとまった汗のしずくを拭おうにも、手を使うことのできない有吾は、瞬きをしてみたり顔を振ったりして、汗が目に入るのを防いだ。
 それだけでも十分に鬱陶しいというのに、小さい虫までまとわりついてくる。腕に止まった蚊を見つけたが、叩きたくても叩けない。
 ジリジリとする不快の底から蘇ってきたのは、幼い頃近所の婆さんから聞かされた、恐ろしい話だった。
 一晩中門扉の柱に縛り付けられ、蚊に血を吸い取られて亡くなってしまったという嫁の話だ。
 幼い時分には『そんなことあるもんか』と思いながも、腕や足に蚊がたかると、大騒ぎをしながら叩き潰した。潰れた蚊の腹から赤い血が滲み出しすのを目にすると、ああ、本当に自分は喰われていたのだと、妙な気分になったものだ。
 大人になってみると恥ずかしくなるような記憶だ。
 人一人蚊に食い殺されるなどということは、めったにあるものではないだろう。いや、この話自体が本当にあった話なのかどうかは、|甚《はなは》だ疑問である。もし似たようなことがあったのだとしても、嫁いびりを面白おかしくしたもので、死因が蚊に喰われたからなどというのは、眉唾ものに違いない。あの頃は蚊を恐ろしいと思ったものだが、この話だってよくよく考えれば本当に恐ろしいのは姑だろう。
 うつむきかけていた顔を振り起す。
 有吾は思い出に蓋をして、思考することを止めた。ただひたすら、足を交互に進めていくことに集中する。
 しかし今度は、自分自身の腹からぐるるるる、きゅるるるるという音がひっきりなしに鳴りだした。
 空腹を忘れようとしても、否が応にも耳に入ってくる切ない腹の音に、思わず笑いがこみ上げてしまった。
 今ここで死ぬのだとしたら、蚊に食われたせいではなく、十中八九飢餓のせいに違いない。死ぬには違いないのに、そのほうがまだ救いがあると思ってしまう自分自身にも、なぜか笑いたくなってしまう。
 死に救いも、優劣も無いだろうに。
 人というものは浅はかで恐ろしい。他人事のようにそんなことを口にしていたが、やはり自分もそのうちの一人なのだと、安堵と落胆の入り混じったような心持ちになる。
 ふと気配を感じて顔をあげると、今まで姿を消していた羅刹が、少し先で手招きをしていた。ざんばら髪の、六助崩れのような格好で、暑さなど感じていないらしい涼しい顔で、ついてこいとでもいうように手招きをしている。有吾と視線が合うと、道をそれて林の中に入っていった。
 有吾はとよを揺すり上げ、羅刹の跡を追った。
 有吾は自分に宿った羅刹という鬼のことを、基本信頼している。
 別に、お互いに好意を持っているというわけではない。
 出会って間もない頃、羅刹は有吾にこう漏らした。
「吾は、封印されし身。己一つで力を振るうことはできぬ」と。
 要するに羅刹は有吾を通さなければあの不可思議な力を振るうことができないらしい。有吾以上に条件に合う人物が現れぬ限り、羅刹は有吾に宿り続けるのに違いなく、そのために有吾を見殺しにするようなことはしないはずである。
 有吾は羅刹を追い、道を外れて再び木立の中へと入っていった。林の中ですら蒸し暑い。よほど気温が上がっていると見える。
 ほんの少し林の中を分け入ると、小さな沢が流れていた。
 羅刹は沢の辺りで腕組みをし、空を見上げるようにして立っていた。
 有吾はとよを苔むした大きな岩の上に下ろすと、吸い寄せられるように沢に飛び込んだ。
 水を掬い、浴びるように何度も顔を洗った。火照った頬が冷やされるたびに、有吾の中に生気が溢れていった。
 くるぶしより少し上までしかないような小川だったが、できることなら着物を脱ぎ捨てて、小川の中で転がりまわりたいくらいだった。
 水の冷たさをとっくりと味わい、再び両手いっぱいに水を掬った。
 ゴクリと喉が鳴る。
 清涼な清水は有吾の喉を通り抜け、腹の中へと落ちていく。
「うまい……」
 言葉が口をついて出た。
 着ていた着物は水浸しになっていたが、どうせ汗で濡れていたので、そう大した違いはない。
 乾きが収まった有吾は、ようやく我に返った。
 振り返れば、とよを寝かした大岩の上に、羅刹が腰を掛けている。
 有吾はとよにも水を飲ませようと、水を手にすくったが『その必要はない』と羅刹の声がした。
『卵が孵るまでは、とよは妖力に守られている』
 と言う。
 そう言えば、有吾に背負われて、この暑さの中を移動していたというのに、とよは汗をかいていない。有吾の背中がぐっしょりと濡れていたのは、自分自身の汗のせいだったらしい。
 つらい思いをしているのは自分だけだったようだ。
 有吾は冷えた手をとよの額の上においた。ほんの少しだけあたたかさを感じる。
「すいません、私のために。では、行きましょう」
 とよを抱き起こそうとした時、耳元で声が聞こえた。
『もうすぐ、来るよ』
 女の子の声だった。驚いた有吾はあわててとよの顔を覗き込んだが、とよが目を覚ました様子はない。多少青ざめているが、先ほどと全く変わらない静かな顔で、眠り続けている。
『ふん。まだ言葉を伝えるくらいの力は残っているのか。人にしておくには惜しいほどの娘だな』
「どういうことです?」
 とよを抱いた有吾に羅刹は『おい、少し休んでろよ。もうすぐ人手が向こうから来る』と、にやにやとした笑みを浮かべた。
 羅刹の言葉を飲み込むことができないうちに、近づいてくる人の気配がした。
 ガサガサと木立をかき分ける音の中に人の話し声が混じっている。
「へえ、こんなところに……」
「ええ、一休みするにはいい場所ですよ」
 男と女。旅の夫婦でもあろうか。
 しかし、街道から少し脇にそれたこの水辺は、地元の者でもなければ知らない場所ではなかろうか。有吾とて、羅刹の案内がなければここへたどり着くことはなかった。
 そう考えるとこのあたりの集落の人間かもしれない。ここからもう井沢村は近いはずだから、とよのことを知っている人かもしれない。
「人手」と羅刹は言ったが、そうすんなり協力してもらえるものだろうか。
 有吾は自分自身の姿を見下ろした。着物の片腕はちぎれ、あちこちほころび、破れ、血が滲みている。とよは怪我こそしていないものの、青い顔をしてぐったりとしている。気を失っているように見えるだろう。
 どこからどうみても尋常ではない。
 普通の人が、こんな状況の旅人に出くわしたらなんと思うだろうか。
 有吾は途方に暮れた。
 これから繰り広げられるであろう騒動を想像すると、安堵よりも先に気が重くなってくる。
「あっしまで、ご一緒させていただいて、すいませんねえ。でも暑くて参ってたところなんで、一休みできる場所ってえのは助かりやすねえ」
 男の声が、ずいぶんと近くなっていた。
 ぴんとはった若い勢いと、どこか和やかな雰囲気を持つ、聞き心地の良い声だ。
 有吾はその声に、おや? と首をかしげる。
 聞き覚えのある声だった。
 ガサガサと揺れる熊笹の木。その葉陰から見えた女は男を案内するために後ろを向いていて、まだ有吾に気づいていない。
「ここですよ」
 小柄な女だ。
 風呂敷を背負って、絣の着物を着ている。若い娘らしいはっきりとした声は、凛と澄んでいる。
 女の影から出てきた男は、有吾の姿を見た途端に、顔面に貼り付けていたにこやかさを凍りつかせた。一瞬固まった表情が次第に緩み、眉がハの字に下がる。
 そして「旦那ぁぁぁ!」と、なんとも情けない声を上げた。
「六助さん……」
 有吾の想像通りの人物がそこにいた。
「いったいどうしてここへ……」
「ど……ど……ど……」
 いつもなめらかにおかみさんたちを口説く六助が口ごもっているのが、どこかおかしかった。
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