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六助

「ああ、忘れちまったかねえ。あんた、ここのお屋敷を立て直す時に来てくれてた六助さんだろ?」
「おりきさんですか!」
 小柄だが気の強そうな痩せた女が、にこりと笑った。口元からは黒く塗られた歯が、こぼれていた。
 まだ若かった六助を随分と気に入ってくれて、ときどきみんなに内緒で菓子を食べさせてくれた。
 差し出されたまんじゅうや羊羹を受け取りながら、自分のことをずいぶん子どもだと思われているようで、あの頃の六助は、実はそれを素直に喜べないでいた。
 おりきの顔を見た途端、そんなことがいっきに思い出されて、六助の心の臓がきゅうと疼いた。
「おぼえていてくれたかい? まあまあ、六助さんずいぶんと男っぽくなって! 旦那様に用ですか? 残念ながら、今日もどこかへおでかけなんですけどね……」
「いや、おりきさん。いや、なんというか……」
 もごもごと言いよどむ六助に「ちょいと寄っておいでよ」と屋敷の中に招き入れてくれる。
 六助が土間の式台に腰を掛けていると、おりきがお茶を運んできてくれた。
 ぬるめの番茶が、乾いた喉にありがたかった。
 喉を潤うと、気持ちもずいぶんと落ち着いてくる。
 ずずっと茶をすすり、おりきに話しかけた。
「おりきさん、今日小さい女の子がこの屋敷を尋ねて来やせんでしたか?」
 単刀直入に尋ねると、りきは少し釣り上がった目をくりっと大きくして、首を傾げた。
「さあ、あたしがいる間にはいなかったねえ……ねえ! 茂助さん、あたしのいない間に、だれかお客があったかね?」
 おりきが家の奥に向かって声を張り上げると、少し腰の曲がった下男が奥から顔を出し、六助に挨拶をしながら「いや、誰も尋ねてきちゃいないよ」と、答えた。
 どこまで探りを入れたものかと、六助は思案する。
「おりきさん、ちょっと尋ねますが、ここにおみつちゃんっていう名の娘がいるかと思うんですが」
「おみつちゃん!」
 おりきの声がひときわ跳ね上がり、大きく見開かれた目が、らんらんと輝き出した。
 あ、こりゃあまずい。
 こりゃあなにか勘違いされている。
 あわてた六助は、おりきの顔の前に手のひらを向けて、一生懸命に興奮を押し止めようとした。
「ちが……! おりきさん、違うんでえ! あっしは、おみつさんとは会ったこともねえんですから!」
「あら、そうなの?」
 途端におりきの声色はもとに戻り、いくぶんつまらなそうに、手にした茶をズズズッと啜った。
「いえね、あっしはおみつちゃんの妹の方と知り合いなんでして、その妹……おとよちゃんって言うんですがね、藪入にも姉ちゃんが戻ってこなかったって、心配してやして。ああっ、おとよちゃんはまだほんの子どもで」
 六助は手のひらでとよの背丈を示した。変な誤解をされてはたまらない。
「ああ……」
 合点がいったというように、おりきは頷いた。
「そういや数日前にも、そんな事を聞いてきたお侍がいたねえ。よほどおみつの実家には、心配かけちまったみたいだ」
「で? おみつちゃんは?」
「ああ、体調が悪くて臥せってたんだよ。昼間はまだいいんだけど、夜になると熱を出してうなされるのさ」
 そこまで言うとおりきはぶるぶるっと震えながらこの暑さだというのに、自分の腕を抱えた。
「いえねえ、みつの枕元に女の影を見たなんて奉公人もいてさ、なにか悪いもんにでも取り憑かれちまったんじゃないかって話になってたんだけど……でも、昨夜から元気でね。明日にも実家へ戻れるんじゃないかと思うよ。おとっつぁんや妹たちに土産物でも買っていってやりなさいって、旦那様にお小遣いを頂いてね、今は出ちまってるからさ」
「……なんですって?」
 六助はギクリとした。
 みつは、明日にも在所に帰る。
 有吾はまだ帰ってこない。
 いったい、江戸から井沢村までの間に巣食ったという化けものは、どうなったのか。
 まだ退治されていないのだとしたら?
 考えてもみなかったことだったが、もしも有吾が化けもの退治に失敗していたら?
 みつはどうなる?
 みつに取り憑いてたっていう女も、ここまで来たら、有吾が帰ってくるまでしっかり取り憑いていればいいものを!
「おりきさん、ありがとう」
 茶碗を式台の上に置き立ち上がる。
 ゆっくりしている場合ではなかった。
 みつを救うためにとよは江戸までやって来たのだ。そのために有吾も化け物退治を請け負ったのだ。
「おみつさんが明日帰るってんなら、いらぬ心配をかけちゃなんねえや。今の話は内緒にしておいてくれるかい?」
 そう言って六助は、隠居家を後にした。



 その後の六助の行動は早かった。
 まずは休みをもらうために、親方の住む家へと向かう。
 まだ半人前のくせに、親方に向かって「休みたい」などと言うことは、普通なら考えられないことだ。
 六助にだって相当な覚悟が必要だったのだが、ここで有吾やとよの事を見て見ぬ振りをして日々を過ごすなんて、できるわけがない。
 だいたい、こんな気持で仕事をしても、集中できないだろうし、そのせいで失敗をして親方に叱られるくらいなら、きちんと説明をして、休みを貰おう。そう腹をくくった。
「なんだと?」
 それでも、もともと鬼瓦のような顔をした親方、辰之助たつのすけの額に縦じわが刻まれるさまを見ると、六助のきもはきゅっと悲鳴を上げて縮こまった。
「まあまあおまえさん、そう頭ごなしに叱るもんじゃないよ。ねえ、六助さん」
 おかみさんが、隣から助け舟を出してくれる。
 江戸っ子というのは、たいていかかあ天下である。江戸の町には女のほうが少なくて、男が溢れかえっているのだ。結婚してもらえるだけでも御の字。そんな空気がある。
 その上辰之助の妻であるつたは、器量よしで情が深くきっぷが好い。辰之助だとて、鳶の棟梁でもあり、火消しの頭でもあり、祭りとなれば気の荒い香具師やしたちを取り仕切る器量を持ち合わせた人物だったが、どうにもつたには頭が上がらないらしい。
「あんた、六助さんが今まで自分から休みたいなんて言ってきたことがあるかい? 働きぶりだって、いつも真面目じゃないか。ちゃんと理由くらい聞いておあげよ」
「……」
 親方は横目でちらと六助をにらみ、話してみろ、というように顎をしゃくった。
 六助はとよと出会ってからの顛末を、順を追って語る。
 化けもの屋の名が出ると、親方の顔色が幾分青くなったような気がする。
 実は六助には勝算があった。
 辰之助は、かつて化けもの屋としての有吾の世話になったことがあるのだ。
 仔細はわからないが、親方のちょっとした浮気が元だったと聞いている。おかみさんに内密で解決してくれた有吾には恩があるはずなのだ。
「あの化けもの屋が、化けもの退治に出たまま戻らねえってえのかい?」
「へえ。なもんで……あっしが井沢村の方へ確認に行きてえと思いやして。それにおとよの姉さんというのも、道中化けものに襲われないように守ってやりてえし」
「あらやだ、ちょいと、危ないんじゃないのかい?」
 話を聞いていたおかみさんが心配そうな顔をしながら、切った西瓜を出してくれた。
 いただきますと、手を合わせて少しひびの入った真っ赤な果肉を口に含む。
 甘い汁が口に広がり、五臓六腑に染み渡っていく。乾いていたのだと思いだして、一切れをあっという間に食ってしまった。
「……ったく、しょうがねえなあ……」
 辰之助は不満たらたらといった口調だが、これはいつものことだ。しょうがねえなあ。これが出たら許してもらえると六助は知っている。
「しかし、化けもの屋がやられちまうような化けものだったら、おめえにどうこうできるわけがないんじゃないかねえ」
「本当だよ。だいたい化けものに出くわしたらどうしようっていうんだい? おおこわい。でもそのさ、いなくなっちまったとよって子も心配だねえ」
 腕をさするつたの横で、辰之助は腕組みをして顎を引き、上目遣いで六助を睨んでいた。しかしこれは、怒っていると言うより、六助を心配しているらしい。
「とよについちゃあ、あっしも心配なんですが。化けもの長屋のおかみさんたちも気にかけてくれていやす。だったらあっしは、おみつちゃんの方を、なんとかしてやりたいなと……。おみつちゃんは、なんにも知らないわけですし。いやあ、あっしも化けものは苦手なんで、もし出会ったりしたら、一目散に逃げてくるしかねえんですが。山瀬の旦那を見つけられるといいんですがね」
「しょうがねえなあ……」
 辰之助の太いため息が聞こえた。
「おい、おつた。旅の支度をしてやんな」
 辰之助の声におつたは「あいよ!」と答えると、待ってましたとばかりに立ち上がった。

 ◇

 そんなわけで、六助は今、中山道をおみつの後をつけるようにして、歩いているのである。
 なにも事情を知らないみつに「危ないから在所まで送りますよ」なんて言うわけにもいかない。
 だから六助は早朝に親方の家を出ると、みつの奉公先を少し離れたところから、見張っていたのだ。
 まるで張り込みをする岡っ引きにでもなった気分だった。
 半時ほど待っただろうか、絣の着物に風呂敷を背負った奉公人が、屋敷から出てきた。おそらくあれがおみつだろう。
 遠目ではあったが、とよによく似ているような気がした。
 歩いていくみつの後ろ姿をしばらく見送りながら、六助は気を引き締めて、そっとその後姿を追った。
 そして、街道から井沢村へと続く脇道へとみつが入っていこうとする頃に、六助は思い切って声をかけたのだった。
 人気の少なくなった道を、黙って後をつけるのは、逆に不審に思われるのではないかと考え、声をかけることにした。
「お嬢さんも、井沢村へ行きなさるんで?」
「はい?」
 振り返ったみつがあまりにとよに似ていたので、六助は思わず立ち止まる。とよと同じ、びっくりしたような大きなまあるい目が、六助を見上げていた。
 とよが成長したら、きっとこんなふうになるのだろうと、思わず緩んでしまいそうになる頬を、六助は必死で引き締めるのだった。
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