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序章

 文月、十七日。
 先程まで遠くに聞こえていた暁八あかつきやつを知らせる鐘の音も、夜気の中へと消えていった。
 ここ数日間の賑わいなど、どこか遠い昔のような夜である。
 江戸の盆は、やかましい。
 手をつなぎ、歌い、踊りながら町を歩く女の子たち。
 盆市に盆用品を売り歩く振り売り。
 盆棚、迎え火、吉原の玉菊灯籠に、まるまると太った月の下での盆踊り。
 けれども、忙しく賑わしかった盆中も瞬く間に過ぎ、十六日の朝に送り火を焚いてご先祖様をお返しすれば、町はあっという間にもとの日常へと戻っていく。


 月明かりに照らし出された神社の境内。
 命あるものすべてが口をつぐんでしまったかのようなしじまの中から、小さな音が聞こえてきた。
 ひたひたひたひたひたひたひたひた。
 足音だ。
 遠くなっていったかと思えば、ひたひたひたひたひたひたひたひた、と、また近づいてくる。
 足音の主は、神社の入口から本堂までを、何度も何度も行き来しているようだった。
 女である。薄汚れた、継ぎ接ぎのある古い木綿の着物から伸びた素足が、石畳を踏んでいる。
 女は本堂の前で手を合わせ、神社の入り口へもどってくると、百度石の上に紙縒こよりを一つ置く。そして再び、本堂へと向かった。

 大きな楠木の陰で、鬼が一匹、盗み見していた。
 女はそれほど若くはないようだが、美しい面差しと、どこか憂いを帯びた色香を纏っている。
 そんな女が一人で、お百度を踏んでいるのである。
 盆が過ぎたばかりでまだ月が明るいとはいえ、丑三つ時の神社の境内を歩くなんて、大の男でさえ恐ろしいだろうに。
 どれほどの願いがあるというのか。
 興味をそそられて、鬼は思わず声をかけた。
「神仏がお前の願いなど、聞き届けてくれるものかよ」と。

 境内に響いた低い声に、女は足を止めた。ゆっくりと振り返り鬼と目が合うと、口元を手で抑えた。
 押えた指の隙間から「ひっ」と、息を呑むような音が聞こえる。
 それが鬼には面白く感じられた。
 鬼は大きな楠木の影の中から這い出して、月影の下に姿を晒す。筋骨隆とした、褐色のその体躯を。
 女の目は、吸い寄せられるように鬼の上にとまったまま動かないでいた。
 そうしてゆっくりと、口元を押えていた手を外した。
 驚いたのは一瞬のことだったようで、女はすでに落ち着きを取り戻していた。
「ならば」
 女の声は美しい面に似つかわしくないほどに、低く、暗く、かすれていた。見据える目に挑むような青白い炎が灯る。
 明日に向かって燃え盛る熱い炎ではなく、妬み、嫉み、恨み、後悔……、そんな感情のないまぜになった、決して熱のこもらぬ炎だ。それが鬼を見つめていた。
「ならば、お前様なら私の願いを聞き入れてくれるというのか?」
 鬼はしばしの間、考え込んだ。
 己の力を持ってすれば、大抵のことなら叶えてやることができると思われる。しかし、なぜ吾が女の願いを叶えてやらねばならぬのだ? まあ確かに美しい女ではあるが。
 それに……。
「俺が願いを聞き届けてやったとして、お前は吾に何を差し出す?」
 それが問題だ。
 鬼ともあろうものが、なんの見返りもなく、ただ力を貸すなどできようか。
 女がそれで躊躇するようなら、切って捨てれば良いだけのこと。
 さあ、泣くか? 縋るか? 逃げ出すか?
 しかし鬼の予想とは裏腹に、女の瞳の中に灯る炎の勢いは衰えることはなかった。
 わずかに風がそよぎ、湿った空気をかき混ぜていく。
「私の全てを。こんな私でいいのなら、おまえに全部くれてやる。骨一本残らずな」
 その申し出を、鬼はたいそう気に入った。
 じっと見つめた女の瞳には、嘘がないように思われた。
 鬼は……嘘をつく。そういったものだから仕方がない。鬼とは、息をするように嘘をつくものなのだ。
 だが困ったことに、鬼は真実を好むのだ。自分は嘘をつくが、他人に嘘をつかれるのは、嫌なのである。だから嘘のつけない小娘などが大好物なのだが、この女、ずいぶん年増のように見えるが、嘘のつけぬ性質らしい。いや、そのように見受けられる。
 それが鬼には好ましく思えた。そう。たいそう好ましい。食べてしまいたいほどに好ましい。
「よかろう」
「なら!」
 冴え冴えと燃えていた瞳に、喜色が浮かんだ。
 しかし鬼は大きな手のひらを女の顔の前にかざし、その言葉を遮る。
 まだだ。そうやすやすと望みを叶えてなるものか。
 差し出すのだ。
 お前というものを。
「化けもの退治屋だ」
「え?」
「化けもの屋を探せ」
「化けもの屋……?」
 さあ吾を見つけ出すことができるか否か。
 久方ぶりの、浮き立つような心持ちである。
「吾は化けもの屋の元に居る。願いを叶えてほしくば、お前から吾の元へとやってこい」
 咆哮のような鬼の笑い声が、神社の境内に響き渡った。
 ごおっと、音を立てて風が参道を通り過ぎていく。
 女が巻き上げられた髪を押えて一瞬目を閉じた。
 そして、次に目を開けたときにはもう、鬼の姿は消えていた。
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