妖異
◆
ぴちゃ……ぴちゃり……ぴた……
数歩先の様子すら確認できないほど、周囲は薄暗かった。
小さな歩幅で、一歩ずつ足を動かすたびに、湿った水音が聞こえる。
わらじを履いていると思っていたのに、いつの間にやら有吾は素足になっていた。足下の湿った苔を踏みしめると、じわりと水が染み出した。
鬱蒼とした木の匂い、土の匂い、それを覆う苔の匂いに包まれて、ひたひたとあるき続ける。
ふっと、それまでになかった生臭い匂いが、森の匂いの中に交じった。
視界が限られている分、他の感覚が鋭敏になっているのだろう。
この臭いを、有吾は知っている。
血だ。
足を進める程に、匂いは濃くなっていく。
気がつけば、思わず顔を背けたくなるほど濃厚な血の匂いとそこに混じる腐臭が、木々や土の匂いをかき消していた。
今までひんやりとしていた空気が、一変した。気温が高くなったのだろうか、それとも、己自身の内側から、熱が発散されたのだろうか。じっとりと汗が浮き出てくる。
目の前に、僅かな光の差し込む場所が見えて、有吾はそちらへと足を向けた。
木々が、そこだけ途切れているのだろう。
空から月の光が差し込んだような蒼い空間だ。
歩みを早めたとたん、なにかを踏んだ。
見下ろすと、棒のようなものが落ちていた。
なんだろう。
屈んで、顔を近づける。
蒼い光に暗く浮かび上がるそれは、人の腕だった。
有吾の足に手のひらを踏みつけられて、苔にめり込んでいる。踏まれてもぴくりとも反応を返さない。
はっとして周囲に目を凝らすと、人間の体の一部分が、辺り一面に散らばっていた。
何かを叫びそうになった口元を手で覆い空を仰ぐ。
木々の枝葉に縁取られた空には、月がいつもと変わらない顔で浮かんでいた。
見上げたまま、手を踏みつけたままであったことを思い出し、足を上げたところでぬるりと滑って、有吾はそのまま尻餅をついてしまった。
人の骸。
そう言ってもいいのだろうか。
あまりにも損傷の激しいそれらは、もう、骸というより肉片だ。
尻餅をついたまま、自分の周囲に散らばらる腕やら足やら、顔の左半分やら、臓物を眺めているうちに、有吾はそれらが小さく動いていることに気がついた。
いや、肉片自体が動いているのではない、肉片の中になにか白い繭のようなものが見えて、その繭から小さな虫が這い出そうとしているのだ。小さな虫の落とす影が、その巣食った肉片の中で蠢き、小刻みに動いているのだ。
にちにちと、小さな音が聞こえだす。
なんの音なのだろうと周囲を見回して、有吾はようやく理解した。
喰って、いるのだと。
◆
ひゅっ!
自分自身の喉の鳴る音で目が覚めた。
まずはじめに感じたのは、暑さだった。そして、有吾の汗を吸い、肌に張り付く着物の感触。それから煤けて黒くなった天井が視界いっぱいに広がる。
乾いた日向の匂いがして、大きく息を吐きだした。
――なんて悪夢だ。
隣を見ると、みやぎが布団の上で眠っている。自分はといえば布団にも入らずに、あのまま寝入ってしまったらしい。
ぎしぎしする腕や首を回しながら有吾は身を起こした。
江戸の長屋で眠るときは、夢など殆ど見たことはなかった。それが昨日と今日と、立て続けに二晩も夢を見た。
昨晩聞かされた羅刹の話が、有吾にこんな夢を見せたのだろうか。
どちらにしろ、悪夢であることに変わりはない。
とよが見たという、なにかにぐるぐる巻きにされた男は何処に消えたのか。
卵を産み付けられたのが、その男なのだろうか。だとすると、その男は死んだのか生きているのか。
とよの姉のみつについても、有吾は不可解なものを感じる。
みつの奉公先は、商家の隠居が住まうこじんまりとした屋敷だ。
口入れ屋からの情報を得て、屋敷を尋ねた有吾は、自分をみつの親の知り合いだということにした。
みつが藪入りの日に帰省しないのを心配した親に様子を見てくるように頼まれたと言う筋書きで、屋敷を尋ねたのだ。
当のご隠居さんは友人たちと見世物小屋見物にでかけて留守であり、奉公人たちを束ねているらしい年増の女中が有吾の相手をしてくれた。
「いえねえ、熱もそれほど高くはないようだったし、お医者様にも見てもらったんですよ」
縁側で、出してくれた茶をすすりながら女中の話を聞いた。
「藪入りの日が……おとといでしたから、その日にお医者様にみてもらいましてね、お薬ももらって、夕方には熱が下がってたんですよ。旦那様も二、三日したら在所に帰っていいって、言ってくださってましたし。それがねえ、その夜急にまた、高熱を出しましてねえ」
女は困ったことだと頭を振った。
「それ以来、夕方になると熱が上がるんです。それに……」
女は声を潜めて、口元に手を当てると、そっと有吾に顔を寄せた。
「見ちまったんですよ。あの子の枕元に、蒼い顔したきれいな女の幽霊が立ってるのを!」
女はだんだん早口になり、それだけ言うとさっと有吾から体を離した。
「いえね、あたしの他にも、見たって子がいるんですから、ホントですよ。お医者様にみてもらうより、お祓いでもしてもらったほうがいいんじゃないかなんて、最近では奉公人たちの間でも噂になってきちまってね、ちょいと困ってるんですよ……」
あの女中の話が本当だとするならば、みつに取り憑いているらしい女というのは、何者なのか。
わからないことが多すぎる。
が、今は、とにかく暑かった。
勇吾は寝室を後にすると、家の中に風を入れるために、雨戸を開け放した。
朝の爽やかな空気を部屋の中に取り入れようとしたのだが、太陽は高く、空気ももうすでに生あたたくなっている。それでも開いた戸から入ってくる光と風は、薄暗い部屋の中に淀んでいたものを、浄化してくれた。
昨日みやぎと二人で草むしりやら薪割りに精を出したおかげで、庭はずいぶんとこざっぱりとしていた。
有吾がはじめてこの家を訪れたときは、人が住んでいるのかどうかも怪しい廃墟のような佇まいだったが、今はとりあえず、人が住んでいるようには見えるだろう。
ふと、崩れかけた鶏小屋が目に入る。
この家以上にいつ壊れてもおかしくないような、少し傾きかけた小さな小屋だ。
長い間放っておかれたのだろう。黒っぽく変色した材木は、ところどころ腐りかけている。鶏を飼わなくなってから、いったいどれほどの年月が経ったのだろうか。
椿の垣根の向こう、その一帯だけは有吾の腰の高さほどの草がぼうぼうと生えていた。
小屋の後ろには大きな栗の木が立っていて、鶏小屋に影を投げかけている。夏の名残の暑さの中で、その一帯だけがひんやりと湿っているように見えた。
有吾が縁側から庭に降りていこうとした時、家の中から人の動く気配がした。
「おはようございます、有吾様!」
乱れた髪をまとめながら、みやぎが顔を出した。
「みやぎさん……おはようございます」
返事をしたものの、有吾はそれ以上なんとみやぎに声をかけてよいのかわからなかった。
家の奥から日の差し込む縁側にやってきたみやぎは、けれども昨夜の激しさなど微塵も感じさせないような、さっぱりとした笑顔を浮かべている。
「まあ……お日様がもうこんなに高くなって……」
有吾の脇を通り過ぎ、縁側から身を乗り出すようにして空を見上げた。
「ゆうべお酒を飲みすぎてしまったのかしら。私、途中から記憶がなくて」
みやぎは顔を赤らめながら肩をすぼめる。
今目の前にいるみやぎは、昨夜男が憎いと暗い炎を燃え上がらせていた人物とは、まるで別人のように見える。
「なにか粗相をいたしませんでしたか?」
「……」
本当に記憶が無いのだろうか。それともなかったことにするための演技なのだろうか。
有吾には判断がつかなかった。
「いえ、粗相なんて……」
やっとの思いで、それだけ絞り出す。
「いやだわ、恥ずかしい」
有吾の戸惑いを、どう受け取ったものか。みやぎはぽっと頬を赤らめ下を向いた。その仕草も、男に抱いてくれなどと自分からせがんだ女のものとは思われない。
「少し待っていてくださいね、残り物ですが朝ごはんを用意してきましょう。もう、お昼ご飯かしら。あの、私、いつもはこんなに寝過ごしたりしないんですよ!」
顔を赤く染めたまま、みやぎは有吾に背を向けると、土間へと消えた。
昨夜の出来事は、有吾の見た悪夢のうちの一つだったのだろうか?
身構えていた自分がまるで阿呆ではないか。
ますます女性というものを恐ろしく感じてしまいそうだ。
みやぎの姿を見送りった有吾は、大きく頭を振った。
と、視界の端に、人影が映ったような気がして、ぎょっとした。
あの鶏小屋の前の、草むらの中だ。
ゆっくりと視線を戻すと、黒っぽい影のような人影が確かそこにあった。
草むらの中に隠れてしまうのではないかと思うほどの小さな人影。大人ではない。子どもだろう。
「と……よ?」
とよだ。草むらの中から、とよが有吾を見つめている。
「とよ? なぜここに? 江戸で待っているようにと……!」
縁側に降りていこうとしながら、有吾は立ち止まる。
とよは一人でここに来たのか?
子どもの足で?
空を見上げる。太陽の位置は真上にある。
有吾がこの宿に辿り着いた時刻よりもだいぶ早い。
なにか、おかしくはないか?
どくん、どくん、と、こめかみの辺りの血管が脈打っているのを、感じた。
落ち着こうと、胸の合わせのあたりを手のひらで掴む。
栗の木が落としたひんやりとした影の中で、一層濃く、まるで影が寄り集まって人の形になったかのように、とよは佇んでいた。
たしかにとよだ。けれども、こちらをみている瞳には、まるで生気が感じられないのだ。じいっと、ただこちらを見ている。なぜ、声をかけてこないのか。なぜあの場所から動かないのか。
「とよ。どうしたんだ!」
「有吾様?」
背後から、みやぎの明るい声がした。
振り返った有吾の顔を見たみやぎが、ぎょっとしたように固まる。
よほど恐ろしい顔をしていたのだろうか。
「あ……の……話し声が聞こえたものだから、来てみたんです。誰か……来ましたか?」
有吾は、なんとか唇の端を釣り上げようと努力すると「ええ……知り合いの子どもが」と鶏小屋の方を振り返った。
「こども?」
不思議そうなみやぎの声。
あそこにと、指をさそうとしたのだが、光のあふれる庭や畑はもちろん、あのひっそりとした鶏小屋の前の茂みの中にも、とよの姿はなかった。
わけが解らなくなる。
「いや……気のせいだったようです」
そう言うしかない。
「そうですか」
そうだ、とよがこんな場所にいるはずはないのだ。
今頃江戸で有吾の帰りを待っているはずなのだから。六助も仕事があるから、ずっと一緒にいるわけにはいかないだろうが、日に一度は様子を見てくれると言った。それからあの長屋のおかみさんたちが面倒を見てやろうじゃないかと、胸を叩いて約束したのだ。とよ自身も、ちゃんと一人で留守番をしていると、言っていた。
こんなところに、いるわけがない。
有吾は今一度、あのひっそりとした茂みに、視線を走らせた。
とよの身に、なにか起きたのだろうか。
それを知らせるための生霊。いわゆる虫の知らせとでも言うやつだったのだろうか。
「ご飯の用意ができましたよ」
無邪気な雰囲気を纏いながら、みやぎが有吾を呼びにやってきた。
今すぐにでも羅刹に語りかけ、とよのことを問いただしたかった。しかし、事情を知らないみやぎの前でいきなり羅刹に語りかけるわけにはいかない。
有吾はみやぎに手を引かれるまま、膳の前に座るしかないのだった。
ぴちゃ……ぴちゃり……ぴた……
数歩先の様子すら確認できないほど、周囲は薄暗かった。
小さな歩幅で、一歩ずつ足を動かすたびに、湿った水音が聞こえる。
わらじを履いていると思っていたのに、いつの間にやら有吾は素足になっていた。足下の湿った苔を踏みしめると、じわりと水が染み出した。
鬱蒼とした木の匂い、土の匂い、それを覆う苔の匂いに包まれて、ひたひたとあるき続ける。
ふっと、それまでになかった生臭い匂いが、森の匂いの中に交じった。
視界が限られている分、他の感覚が鋭敏になっているのだろう。
この臭いを、有吾は知っている。
血だ。
足を進める程に、匂いは濃くなっていく。
気がつけば、思わず顔を背けたくなるほど濃厚な血の匂いとそこに混じる腐臭が、木々や土の匂いをかき消していた。
今までひんやりとしていた空気が、一変した。気温が高くなったのだろうか、それとも、己自身の内側から、熱が発散されたのだろうか。じっとりと汗が浮き出てくる。
目の前に、僅かな光の差し込む場所が見えて、有吾はそちらへと足を向けた。
木々が、そこだけ途切れているのだろう。
空から月の光が差し込んだような蒼い空間だ。
歩みを早めたとたん、なにかを踏んだ。
見下ろすと、棒のようなものが落ちていた。
なんだろう。
屈んで、顔を近づける。
蒼い光に暗く浮かび上がるそれは、人の腕だった。
有吾の足に手のひらを踏みつけられて、苔にめり込んでいる。踏まれてもぴくりとも反応を返さない。
はっとして周囲に目を凝らすと、人間の体の一部分が、辺り一面に散らばっていた。
何かを叫びそうになった口元を手で覆い空を仰ぐ。
木々の枝葉に縁取られた空には、月がいつもと変わらない顔で浮かんでいた。
見上げたまま、手を踏みつけたままであったことを思い出し、足を上げたところでぬるりと滑って、有吾はそのまま尻餅をついてしまった。
人の骸。
そう言ってもいいのだろうか。
あまりにも損傷の激しいそれらは、もう、骸というより肉片だ。
尻餅をついたまま、自分の周囲に散らばらる腕やら足やら、顔の左半分やら、臓物を眺めているうちに、有吾はそれらが小さく動いていることに気がついた。
いや、肉片自体が動いているのではない、肉片の中になにか白い繭のようなものが見えて、その繭から小さな虫が這い出そうとしているのだ。小さな虫の落とす影が、その巣食った肉片の中で蠢き、小刻みに動いているのだ。
にちにちと、小さな音が聞こえだす。
なんの音なのだろうと周囲を見回して、有吾はようやく理解した。
喰って、いるのだと。
◆
ひゅっ!
自分自身の喉の鳴る音で目が覚めた。
まずはじめに感じたのは、暑さだった。そして、有吾の汗を吸い、肌に張り付く着物の感触。それから煤けて黒くなった天井が視界いっぱいに広がる。
乾いた日向の匂いがして、大きく息を吐きだした。
――なんて悪夢だ。
隣を見ると、みやぎが布団の上で眠っている。自分はといえば布団にも入らずに、あのまま寝入ってしまったらしい。
ぎしぎしする腕や首を回しながら有吾は身を起こした。
江戸の長屋で眠るときは、夢など殆ど見たことはなかった。それが昨日と今日と、立て続けに二晩も夢を見た。
昨晩聞かされた羅刹の話が、有吾にこんな夢を見せたのだろうか。
どちらにしろ、悪夢であることに変わりはない。
とよが見たという、なにかにぐるぐる巻きにされた男は何処に消えたのか。
卵を産み付けられたのが、その男なのだろうか。だとすると、その男は死んだのか生きているのか。
とよの姉のみつについても、有吾は不可解なものを感じる。
みつの奉公先は、商家の隠居が住まうこじんまりとした屋敷だ。
口入れ屋からの情報を得て、屋敷を尋ねた有吾は、自分をみつの親の知り合いだということにした。
みつが藪入りの日に帰省しないのを心配した親に様子を見てくるように頼まれたと言う筋書きで、屋敷を尋ねたのだ。
当のご隠居さんは友人たちと見世物小屋見物にでかけて留守であり、奉公人たちを束ねているらしい年増の女中が有吾の相手をしてくれた。
「いえねえ、熱もそれほど高くはないようだったし、お医者様にも見てもらったんですよ」
縁側で、出してくれた茶をすすりながら女中の話を聞いた。
「藪入りの日が……おとといでしたから、その日にお医者様にみてもらいましてね、お薬ももらって、夕方には熱が下がってたんですよ。旦那様も二、三日したら在所に帰っていいって、言ってくださってましたし。それがねえ、その夜急にまた、高熱を出しましてねえ」
女は困ったことだと頭を振った。
「それ以来、夕方になると熱が上がるんです。それに……」
女は声を潜めて、口元に手を当てると、そっと有吾に顔を寄せた。
「見ちまったんですよ。あの子の枕元に、蒼い顔したきれいな女の幽霊が立ってるのを!」
女はだんだん早口になり、それだけ言うとさっと有吾から体を離した。
「いえね、あたしの他にも、見たって子がいるんですから、ホントですよ。お医者様にみてもらうより、お祓いでもしてもらったほうがいいんじゃないかなんて、最近では奉公人たちの間でも噂になってきちまってね、ちょいと困ってるんですよ……」
あの女中の話が本当だとするならば、みつに取り憑いているらしい女というのは、何者なのか。
わからないことが多すぎる。
が、今は、とにかく暑かった。
勇吾は寝室を後にすると、家の中に風を入れるために、雨戸を開け放した。
朝の爽やかな空気を部屋の中に取り入れようとしたのだが、太陽は高く、空気ももうすでに生あたたくなっている。それでも開いた戸から入ってくる光と風は、薄暗い部屋の中に淀んでいたものを、浄化してくれた。
昨日みやぎと二人で草むしりやら薪割りに精を出したおかげで、庭はずいぶんとこざっぱりとしていた。
有吾がはじめてこの家を訪れたときは、人が住んでいるのかどうかも怪しい廃墟のような佇まいだったが、今はとりあえず、人が住んでいるようには見えるだろう。
ふと、崩れかけた鶏小屋が目に入る。
この家以上にいつ壊れてもおかしくないような、少し傾きかけた小さな小屋だ。
長い間放っておかれたのだろう。黒っぽく変色した材木は、ところどころ腐りかけている。鶏を飼わなくなってから、いったいどれほどの年月が経ったのだろうか。
椿の垣根の向こう、その一帯だけは有吾の腰の高さほどの草がぼうぼうと生えていた。
小屋の後ろには大きな栗の木が立っていて、鶏小屋に影を投げかけている。夏の名残の暑さの中で、その一帯だけがひんやりと湿っているように見えた。
有吾が縁側から庭に降りていこうとした時、家の中から人の動く気配がした。
「おはようございます、有吾様!」
乱れた髪をまとめながら、みやぎが顔を出した。
「みやぎさん……おはようございます」
返事をしたものの、有吾はそれ以上なんとみやぎに声をかけてよいのかわからなかった。
家の奥から日の差し込む縁側にやってきたみやぎは、けれども昨夜の激しさなど微塵も感じさせないような、さっぱりとした笑顔を浮かべている。
「まあ……お日様がもうこんなに高くなって……」
有吾の脇を通り過ぎ、縁側から身を乗り出すようにして空を見上げた。
「ゆうべお酒を飲みすぎてしまったのかしら。私、途中から記憶がなくて」
みやぎは顔を赤らめながら肩をすぼめる。
今目の前にいるみやぎは、昨夜男が憎いと暗い炎を燃え上がらせていた人物とは、まるで別人のように見える。
「なにか粗相をいたしませんでしたか?」
「……」
本当に記憶が無いのだろうか。それともなかったことにするための演技なのだろうか。
有吾には判断がつかなかった。
「いえ、粗相なんて……」
やっとの思いで、それだけ絞り出す。
「いやだわ、恥ずかしい」
有吾の戸惑いを、どう受け取ったものか。みやぎはぽっと頬を赤らめ下を向いた。その仕草も、男に抱いてくれなどと自分からせがんだ女のものとは思われない。
「少し待っていてくださいね、残り物ですが朝ごはんを用意してきましょう。もう、お昼ご飯かしら。あの、私、いつもはこんなに寝過ごしたりしないんですよ!」
顔を赤く染めたまま、みやぎは有吾に背を向けると、土間へと消えた。
昨夜の出来事は、有吾の見た悪夢のうちの一つだったのだろうか?
身構えていた自分がまるで阿呆ではないか。
ますます女性というものを恐ろしく感じてしまいそうだ。
みやぎの姿を見送りった有吾は、大きく頭を振った。
と、視界の端に、人影が映ったような気がして、ぎょっとした。
あの鶏小屋の前の、草むらの中だ。
ゆっくりと視線を戻すと、黒っぽい影のような人影が確かそこにあった。
草むらの中に隠れてしまうのではないかと思うほどの小さな人影。大人ではない。子どもだろう。
「と……よ?」
とよだ。草むらの中から、とよが有吾を見つめている。
「とよ? なぜここに? 江戸で待っているようにと……!」
縁側に降りていこうとしながら、有吾は立ち止まる。
とよは一人でここに来たのか?
子どもの足で?
空を見上げる。太陽の位置は真上にある。
有吾がこの宿に辿り着いた時刻よりもだいぶ早い。
なにか、おかしくはないか?
どくん、どくん、と、こめかみの辺りの血管が脈打っているのを、感じた。
落ち着こうと、胸の合わせのあたりを手のひらで掴む。
栗の木が落としたひんやりとした影の中で、一層濃く、まるで影が寄り集まって人の形になったかのように、とよは佇んでいた。
たしかにとよだ。けれども、こちらをみている瞳には、まるで生気が感じられないのだ。じいっと、ただこちらを見ている。なぜ、声をかけてこないのか。なぜあの場所から動かないのか。
「とよ。どうしたんだ!」
「有吾様?」
背後から、みやぎの明るい声がした。
振り返った有吾の顔を見たみやぎが、ぎょっとしたように固まる。
よほど恐ろしい顔をしていたのだろうか。
「あ……の……話し声が聞こえたものだから、来てみたんです。誰か……来ましたか?」
有吾は、なんとか唇の端を釣り上げようと努力すると「ええ……知り合いの子どもが」と鶏小屋の方を振り返った。
「こども?」
不思議そうなみやぎの声。
あそこにと、指をさそうとしたのだが、光のあふれる庭や畑はもちろん、あのひっそりとした鶏小屋の前の茂みの中にも、とよの姿はなかった。
わけが解らなくなる。
「いや……気のせいだったようです」
そう言うしかない。
「そうですか」
そうだ、とよがこんな場所にいるはずはないのだ。
今頃江戸で有吾の帰りを待っているはずなのだから。六助も仕事があるから、ずっと一緒にいるわけにはいかないだろうが、日に一度は様子を見てくれると言った。それからあの長屋のおかみさんたちが面倒を見てやろうじゃないかと、胸を叩いて約束したのだ。とよ自身も、ちゃんと一人で留守番をしていると、言っていた。
こんなところに、いるわけがない。
有吾は今一度、あのひっそりとした茂みに、視線を走らせた。
とよの身に、なにか起きたのだろうか。
それを知らせるための生霊。いわゆる虫の知らせとでも言うやつだったのだろうか。
「ご飯の用意ができましたよ」
無邪気な雰囲気を纏いながら、みやぎが有吾を呼びにやってきた。
今すぐにでも羅刹に語りかけ、とよのことを問いただしたかった。しかし、事情を知らないみやぎの前でいきなり羅刹に語りかけるわけにはいかない。
有吾はみやぎに手を引かれるまま、膳の前に座るしかないのだった。