妖異
ぷつりと糸の切れるようにして倒れ込んだみやぎを、有吾は布団まで運んだ。
笄一つで束ねた簡易な髷はすっかり崩れてしまっている。頬に落ちかかる細いほつれげを、有吾が指で払うと、先程までの様子がまるで幻ででもあったかのよな安らかな寝顔が顔を出した。あどけないとさえ見えるその寝顔に、夢の中でまで、悲しい思いをしていなければ良いと思う。
とん。
寝室の入り口で小さな音がした。
有吾が振り返ると、柱に体を預けるようにして、若い男がそこに立っていた。
真っ赤な髪を長く垂らした男だった。
ざんばらな髪があまりにも異様で、そこにばかりに目が向いてしまうが、よく見ると涼やかな顔立ちの美男子だ。しかし、どこか見たものをぞっとさせるような雰囲気がある。底のない夜のような瞳のせいかもしれない。暗く透明なそれは、あまりにも澄んで揺らがないから、見つめていると、だんだん恐ろしくなってくるのだ。
なんの前触れもなく現れた男に、しかし有吾が動じる様子はなく「羅刹」と、当たり前のように声をかける。
「以前会った時とはまた、ずいぶんと姿形が違うようですね」
忽然と現れた男は腕組みを解くと、自分の姿を見下ろした。
足元の|開《はだ》けた着物。ただ伸びるに任せたような髪は真っ赤で、胸のあたりまで垂れている。この姿で江戸の街を歩こうものなら、目立ってしかたがないに違いない。下手をしたら、しょっ引かれてしまうかもしれない。
『以前の姿のほうがよかったか?』
「いや、どちらでも」
別にここは江戸の町中ではないし、隣近所さえないような、山の中の一軒家である。姿形など、気にするものはいない。
それに
「あなたがどんな姿をしていても、私以外には見えないのでしょう?」
羅刹と呼ばれた男は『違いない』と答えた。
『お前のお友達の、六助とかいうやつに似せてみたんだがなあ』
と言うから、有吾は思わず身を乗り出して、羅刹の顔をまじまじと見上げてしまった。
じっくり眺めてみると、たしかに顔の作りは六助に似ている。ただ、印象があまりにも違うから、全く別人にしか見えない。
だいたい六助は粋で|鯔背《いなせ》であるということに、思いの外こだわりを持っているから、こんなだらしのない格好は絶対にしないだろう。
『それにしても、据え膳食わぬとは、お前さんもまだまだお子様だね。もったいないじゃねえか。お前さん、若いといっても、世帯を持ったっておかしくない年じゃないのか? 抱いてやりゃあよかったのによ』
羅刹は有吾の隣までやってくるとみやぎの顔を見下ろした。
『美人じゃあねえか』
「何を言ってるんですか。お子様だとか、関係ないでしょう。お互い知り合ったばかりです。それに……みやぎさんはいったい何者なのか、まだ私にはわからない」
ふふふふっと、嗤う羅刹は楽しげだ。
『女、ではあるな』
その言い様が、ひっかかった。
「人間ではない?」
『おいおいおいおい』
寝ているみやぎの横で安座する有吾の肩に、羅刹は足を乗せて揺さぶる。
『人間じゃなきゃ抱けねえとかいうのかよ? 了見のせまい男だ』
羅刹の喉の奥から『けっ』という音が聞こえた。
『ずいぶんと年増だが、いい女じゃねえかよ。筆下ろしにゃ、申し分ないだろう』
「私だって、女くらい知ってます」
『ぶふっ! 知ってるかもしれんけど、前のはあれ、襲われたようなもんだろう。あ、今回もか? お前ほんとに、年増に好かれるよなあ』
「……私のことをどこまで知ってるんです」
『なぁんでもお見通しさ。知ろうとさえ思えばな』
「なんでも?」
『あたりまえだ。俺を誰だと思ってやがる』
「……では、今回の黒幕は何者です。とよが私に討ってくれと頼んだ化け物は……みやぎさんなんですか……?」
羅刹は有吾の肩に置いていた足に力を入れて蹴飛ばすと、その勢いのままくるりと有吾に背を向けた。
『かつて俺は、お前との勝負に負けた』
「あれは……」
あれは有吾にかなり有利な条件だった。本来の力で戦ったのなら、有吾が羅刹に勝つ可能性など、まったくなかったに違いない。
羅刹と初めて出会ったとき、有吾は死の淵の、一歩手前にいたのかも知れなかった。
ことの発端は辻斬りであった。
幾人かの犠牲者が出るうちに、犯人は人ではない、妖しなのだという恐ろしげな噂が広がっていく。
領内の家々は、日が暮れると扉をぴたりと締めて、しんと静まり返る。その異様さが更に人々の心を暗く沈ませていく。
そんな日々が続いた。
一方、腕に覚えのある者たちは、妖しなぞいるものか、吾こそは下手人をひっ捕らえてやるのだと、頭に鉢巻を巻き、たすき掛けをして、領内の夜警を始めた。有吾もそんな若者たちのうちの一人だった。
夜警を初めてしばらくのうちは、辻斬りも鳴りを潜めていた。今になってよくよく考えてみると、下手人はこちら(夜警団)の動きをよく理解しているようだったのだ。夜警団が組織された途端に、辻斬りが出なくなったのだから。
だがあの時、そのことに気がつく者はいなかった。
下手人も恐れをなしたのだと、こちらが恐れるほどのやつではないに違いないと、小さな恐怖心を覆い隠すように、若者たちは高揚していた。
再び辻斬りが現れたのは、夜警を初めてそろそろひと月が経とうかというときだった。夜警団の中にも、もう辻斬りは出ないのではないかという、楽観的な空気が流れ始めていた。
彼らが雑木林の中に追い詰めた下手人は、それは恐ろしい形相をしたいた。
異様に黒い肌。ぎょろりと光る眼。むきむきと盛り上がった筋肉。そして、額から伸びた血濡れた角。
鬼。
驚きに腰の引ける若者たちを、その黒き鬼は手にした刀で斬り殺していく。
「おい、有吾、おい! 逃げよう」
隣りにいた友が有吾の袖を引いた。
有吾は動けなかった。鬼に魅入られたように、その姿から視線を外すことができなかった。
反応を返さない有吾についに緊張の糸がきれた友人は、刀を投げ捨て、奇声を発してその場から走り出した。と、同時に、有吾の脇を黒い風が通り抜けていった。
はっとして振り返ったときにはもう、友は地面に倒れ伏し、ぐっしょりと血に塗れた鬼が、こちらを見ていた。
その後のことは、実はよく覚えていない。
気がつくと、恨めしげな形相でかっと目を見開き、事切れていたのは、鬼ではなく、藩主の末の息子であった。
「ひぃ!」
自分の上げる悲鳴すら、どこか遠くから聞こえる。
「大丈夫か!」
林の向こうから、別の夜警団の近づいてくる声が聞こえた。
有吾に迷っている時間はなかった。
逃げ出したのだ。何もかも放り投げて。
父は蟄居を申し付けられ、自ら腹を切ったのだという風の噂を聞いた。
何をしているのだと思った。今頃領内では有吾が辻斬りの下手人であったということになっているのだろう。
自分にはこうして生きている価値もない。
そして荒れ寺の境内で、ただぼんやりと空を見上げていた時、あいつが現れたのだ。
そいつは『おいお前、ここでくたばるのかよ』といいながら、にやにやと有吾を見下ろしていた。
「……鬼?」
目の前に鬼がいた。だが、あの時斬った鬼とは違う鬼のようだ。あいつは漆黒の鬼だったが、自分を見下ろす鬼は、赤い。
『鬼などと、俗な名で呼ぶではないわ』
不機嫌そうな声だが、だからといって名を名乗るつもりはないらしい。
「羅刹」
と有吾がつぶやいたのは、どこかで見た西南方の護法神羅刹天の絵に、目の前の鬼の風貌が似ていたからだ。
赤鬼は呵った。羅刹という呼び名が気に入ったらしい。
『あいつを斬らんでよいのか? お前が斬ったのは憑依されていた人間だけだぞ』
その言葉に、有吾の心が揺さぶられた。
「なんと、いいました?」
赤鬼が呵った。有吾の動揺を見て、かかと呵った。
『あの黒鬼を、討った気でいたのか! ははは……!』
ひとしきり呵って、赤鬼はまた有吾を見下ろし、真顔になった。
『吾が力を貸してやろうか?』
むくり。
もう何ものにも心が動かないと思っていたのに、心のなかが大きく波打ち泡立つ。有吾は起き上がると「どうやって?」と、鬼に尋ねていた。
『普通の刀では、妖しは斬れぬ。吾がお主の持つ刀に宿ってやるわ。さすればお主は仇を討つことが出来る。実は吾は、封印されし身なのだ。己一つで力を振るうことはできぬのよ。
『普通の刀では、妖しの者は斬れぬ。吾がお前持つ刀に宿ってやるわ。ただし、お前が吾に勝つことができたならな……』
我の力を貸してやろう。そのかわり、お前の力も吾に貸さぬか?
有吾は刀を使って良い。羅刹は素手。しかも特殊な能力は使わない。有吾の刀が少しでも鬼に触れれば有吾の勝ち。
そんな極めて有吾に有利な条件のもと、有吾は羅刹との戦いに勝ち、それ以降羅刹は有吾とともにあるのだった。
『俺は、お前に力を貸してやると契約した』
それまで六助に似せていたらしい声色が変化していた。地の底から響くような低く太い声だ。
『だが、何もかも吾がお前に教えてやるなどとは約束していないぞ。吾に頼るな。自分で考えろ。吾はお前が斬りたいと思ったものしか斬ってはやらんぞ』
羅刹の答えを聞いた有吾の背中が、小さくなる。
「私は本当は、何も斬りたくははないんだがなあ」
ため息を吐く。
あのときの黒鬼を求めて化けもの退治などをしながら、それでも心のうちでは誰かを切ることに、消すことのない恐れがあるのだった。
『人間の魂だけならな、放っておいたってそのうち成仏する。まあ、この女はかなり複雑なようだがな、時間はかかってもいつかは成仏するだろうし、霊のまま残ったとしても、そうそう悪さをするもんではないわ』
「……」
『だがな、厄介なのは、人間の魂が妖しを取り込んじまった状態さ』
「はい」
それは有吾もわかっている。
恐ろしいのは、人間なのだ。
化け物屋を営む間に、身に染みた。本当に人間に悪さをしているのは、妖しではない。人間の心だ。
人間の持つ、恨み、憎しみ、未練、悲しみ。そう言った負の感情が、妖しの力を取り込んだときに、大きな怪異を引き起こす。
「一つ聞きたいことがあるのですが。羅刹?」
『お前、あきらめが悪すぎるぞ』
「ああ、いえ、今回のことじゃないんです」
ダン!
羅刹が部屋の柱に勢いよく足の裏を打ち付けた。
『まったくくめんどくせえ男を宿主にしちまったもんだ!』
怒っているらしいが、彼が本当に怒ったら、こんなものでは済まないはずだ。
ならば一つぐらい質問しても構わないだろうと有吾は判断する。
「人間の魂が妖しを取り込んでも、悪をなさない場合はあるのですか? それならば、切る必要もないのでは?」
羅刹は再び腕組みをして、天を振り仰ぐような仕草をした。
下唇を突き出して『むう』と唸る。
『だめだな』
思いがけず大きな否定の声だった。
『本来、人が持つべきじゃない力を手に入れるんだ。歪んでいく。狂っていく。人が勝つか、妖しが勝つか。どちらがどちらを取り込むかはその時次第かもしれない。妖が勝てばいい。人間は取り込まれて消滅する。だが人間の感情が勝てば、そいつの魂は、本来自分が持つはずではなかった大きな力を持つことになる。それ故に、いつかは、狂う』
羅刹の答えを聞いた有吾は、頭を抱えた。
視線の先にはみやぎの寝顔がある。
「斬りたくない」
ははははっ!
羅刹の笑い声が響いた。
「斬らなきゃいいじゃねえか! はははは! そうしたら女はまた、通りすがりの旅人を襲うだろうさ。旅人と交わり、そうして孕んだ卵を、人間に産み付けるだろうさ! はははは!」
「なんといいました?」
抱えていた顔を上げ、有吾は羅刹を振り返った。
が、羅刹はもう姿を消していた。
笄一つで束ねた簡易な髷はすっかり崩れてしまっている。頬に落ちかかる細いほつれげを、有吾が指で払うと、先程までの様子がまるで幻ででもあったかのよな安らかな寝顔が顔を出した。あどけないとさえ見えるその寝顔に、夢の中でまで、悲しい思いをしていなければ良いと思う。
とん。
寝室の入り口で小さな音がした。
有吾が振り返ると、柱に体を預けるようにして、若い男がそこに立っていた。
真っ赤な髪を長く垂らした男だった。
ざんばらな髪があまりにも異様で、そこにばかりに目が向いてしまうが、よく見ると涼やかな顔立ちの美男子だ。しかし、どこか見たものをぞっとさせるような雰囲気がある。底のない夜のような瞳のせいかもしれない。暗く透明なそれは、あまりにも澄んで揺らがないから、見つめていると、だんだん恐ろしくなってくるのだ。
なんの前触れもなく現れた男に、しかし有吾が動じる様子はなく「羅刹」と、当たり前のように声をかける。
「以前会った時とはまた、ずいぶんと姿形が違うようですね」
忽然と現れた男は腕組みを解くと、自分の姿を見下ろした。
足元の|開《はだ》けた着物。ただ伸びるに任せたような髪は真っ赤で、胸のあたりまで垂れている。この姿で江戸の街を歩こうものなら、目立ってしかたがないに違いない。下手をしたら、しょっ引かれてしまうかもしれない。
『以前の姿のほうがよかったか?』
「いや、どちらでも」
別にここは江戸の町中ではないし、隣近所さえないような、山の中の一軒家である。姿形など、気にするものはいない。
それに
「あなたがどんな姿をしていても、私以外には見えないのでしょう?」
羅刹と呼ばれた男は『違いない』と答えた。
『お前のお友達の、六助とかいうやつに似せてみたんだがなあ』
と言うから、有吾は思わず身を乗り出して、羅刹の顔をまじまじと見上げてしまった。
じっくり眺めてみると、たしかに顔の作りは六助に似ている。ただ、印象があまりにも違うから、全く別人にしか見えない。
だいたい六助は粋で|鯔背《いなせ》であるということに、思いの外こだわりを持っているから、こんなだらしのない格好は絶対にしないだろう。
『それにしても、据え膳食わぬとは、お前さんもまだまだお子様だね。もったいないじゃねえか。お前さん、若いといっても、世帯を持ったっておかしくない年じゃないのか? 抱いてやりゃあよかったのによ』
羅刹は有吾の隣までやってくるとみやぎの顔を見下ろした。
『美人じゃあねえか』
「何を言ってるんですか。お子様だとか、関係ないでしょう。お互い知り合ったばかりです。それに……みやぎさんはいったい何者なのか、まだ私にはわからない」
ふふふふっと、嗤う羅刹は楽しげだ。
『女、ではあるな』
その言い様が、ひっかかった。
「人間ではない?」
『おいおいおいおい』
寝ているみやぎの横で安座する有吾の肩に、羅刹は足を乗せて揺さぶる。
『人間じゃなきゃ抱けねえとかいうのかよ? 了見のせまい男だ』
羅刹の喉の奥から『けっ』という音が聞こえた。
『ずいぶんと年増だが、いい女じゃねえかよ。筆下ろしにゃ、申し分ないだろう』
「私だって、女くらい知ってます」
『ぶふっ! 知ってるかもしれんけど、前のはあれ、襲われたようなもんだろう。あ、今回もか? お前ほんとに、年増に好かれるよなあ』
「……私のことをどこまで知ってるんです」
『なぁんでもお見通しさ。知ろうとさえ思えばな』
「なんでも?」
『あたりまえだ。俺を誰だと思ってやがる』
「……では、今回の黒幕は何者です。とよが私に討ってくれと頼んだ化け物は……みやぎさんなんですか……?」
羅刹は有吾の肩に置いていた足に力を入れて蹴飛ばすと、その勢いのままくるりと有吾に背を向けた。
『かつて俺は、お前との勝負に負けた』
「あれは……」
あれは有吾にかなり有利な条件だった。本来の力で戦ったのなら、有吾が羅刹に勝つ可能性など、まったくなかったに違いない。
羅刹と初めて出会ったとき、有吾は死の淵の、一歩手前にいたのかも知れなかった。
ことの発端は辻斬りであった。
幾人かの犠牲者が出るうちに、犯人は人ではない、妖しなのだという恐ろしげな噂が広がっていく。
領内の家々は、日が暮れると扉をぴたりと締めて、しんと静まり返る。その異様さが更に人々の心を暗く沈ませていく。
そんな日々が続いた。
一方、腕に覚えのある者たちは、妖しなぞいるものか、吾こそは下手人をひっ捕らえてやるのだと、頭に鉢巻を巻き、たすき掛けをして、領内の夜警を始めた。有吾もそんな若者たちのうちの一人だった。
夜警を初めてしばらくのうちは、辻斬りも鳴りを潜めていた。今になってよくよく考えてみると、下手人はこちら(夜警団)の動きをよく理解しているようだったのだ。夜警団が組織された途端に、辻斬りが出なくなったのだから。
だがあの時、そのことに気がつく者はいなかった。
下手人も恐れをなしたのだと、こちらが恐れるほどのやつではないに違いないと、小さな恐怖心を覆い隠すように、若者たちは高揚していた。
再び辻斬りが現れたのは、夜警を初めてそろそろひと月が経とうかというときだった。夜警団の中にも、もう辻斬りは出ないのではないかという、楽観的な空気が流れ始めていた。
彼らが雑木林の中に追い詰めた下手人は、それは恐ろしい形相をしたいた。
異様に黒い肌。ぎょろりと光る眼。むきむきと盛り上がった筋肉。そして、額から伸びた血濡れた角。
鬼。
驚きに腰の引ける若者たちを、その黒き鬼は手にした刀で斬り殺していく。
「おい、有吾、おい! 逃げよう」
隣りにいた友が有吾の袖を引いた。
有吾は動けなかった。鬼に魅入られたように、その姿から視線を外すことができなかった。
反応を返さない有吾についに緊張の糸がきれた友人は、刀を投げ捨て、奇声を発してその場から走り出した。と、同時に、有吾の脇を黒い風が通り抜けていった。
はっとして振り返ったときにはもう、友は地面に倒れ伏し、ぐっしょりと血に塗れた鬼が、こちらを見ていた。
その後のことは、実はよく覚えていない。
気がつくと、恨めしげな形相でかっと目を見開き、事切れていたのは、鬼ではなく、藩主の末の息子であった。
「ひぃ!」
自分の上げる悲鳴すら、どこか遠くから聞こえる。
「大丈夫か!」
林の向こうから、別の夜警団の近づいてくる声が聞こえた。
有吾に迷っている時間はなかった。
逃げ出したのだ。何もかも放り投げて。
父は蟄居を申し付けられ、自ら腹を切ったのだという風の噂を聞いた。
何をしているのだと思った。今頃領内では有吾が辻斬りの下手人であったということになっているのだろう。
自分にはこうして生きている価値もない。
そして荒れ寺の境内で、ただぼんやりと空を見上げていた時、あいつが現れたのだ。
そいつは『おいお前、ここでくたばるのかよ』といいながら、にやにやと有吾を見下ろしていた。
「……鬼?」
目の前に鬼がいた。だが、あの時斬った鬼とは違う鬼のようだ。あいつは漆黒の鬼だったが、自分を見下ろす鬼は、赤い。
『鬼などと、俗な名で呼ぶではないわ』
不機嫌そうな声だが、だからといって名を名乗るつもりはないらしい。
「羅刹」
と有吾がつぶやいたのは、どこかで見た西南方の護法神羅刹天の絵に、目の前の鬼の風貌が似ていたからだ。
赤鬼は呵った。羅刹という呼び名が気に入ったらしい。
『あいつを斬らんでよいのか? お前が斬ったのは憑依されていた人間だけだぞ』
その言葉に、有吾の心が揺さぶられた。
「なんと、いいました?」
赤鬼が呵った。有吾の動揺を見て、かかと呵った。
『あの黒鬼を、討った気でいたのか! ははは……!』
ひとしきり呵って、赤鬼はまた有吾を見下ろし、真顔になった。
『吾が力を貸してやろうか?』
むくり。
もう何ものにも心が動かないと思っていたのに、心のなかが大きく波打ち泡立つ。有吾は起き上がると「どうやって?」と、鬼に尋ねていた。
『普通の刀では、妖しは斬れぬ。吾がお主の持つ刀に宿ってやるわ。さすればお主は仇を討つことが出来る。実は吾は、封印されし身なのだ。己一つで力を振るうことはできぬのよ。
『普通の刀では、妖しの者は斬れぬ。吾がお前持つ刀に宿ってやるわ。ただし、お前が吾に勝つことができたならな……』
我の力を貸してやろう。そのかわり、お前の力も吾に貸さぬか?
有吾は刀を使って良い。羅刹は素手。しかも特殊な能力は使わない。有吾の刀が少しでも鬼に触れれば有吾の勝ち。
そんな極めて有吾に有利な条件のもと、有吾は羅刹との戦いに勝ち、それ以降羅刹は有吾とともにあるのだった。
『俺は、お前に力を貸してやると契約した』
それまで六助に似せていたらしい声色が変化していた。地の底から響くような低く太い声だ。
『だが、何もかも吾がお前に教えてやるなどとは約束していないぞ。吾に頼るな。自分で考えろ。吾はお前が斬りたいと思ったものしか斬ってはやらんぞ』
羅刹の答えを聞いた有吾の背中が、小さくなる。
「私は本当は、何も斬りたくははないんだがなあ」
ため息を吐く。
あのときの黒鬼を求めて化けもの退治などをしながら、それでも心のうちでは誰かを切ることに、消すことのない恐れがあるのだった。
『人間の魂だけならな、放っておいたってそのうち成仏する。まあ、この女はかなり複雑なようだがな、時間はかかってもいつかは成仏するだろうし、霊のまま残ったとしても、そうそう悪さをするもんではないわ』
「……」
『だがな、厄介なのは、人間の魂が妖しを取り込んじまった状態さ』
「はい」
それは有吾もわかっている。
恐ろしいのは、人間なのだ。
化け物屋を営む間に、身に染みた。本当に人間に悪さをしているのは、妖しではない。人間の心だ。
人間の持つ、恨み、憎しみ、未練、悲しみ。そう言った負の感情が、妖しの力を取り込んだときに、大きな怪異を引き起こす。
「一つ聞きたいことがあるのですが。羅刹?」
『お前、あきらめが悪すぎるぞ』
「ああ、いえ、今回のことじゃないんです」
ダン!
羅刹が部屋の柱に勢いよく足の裏を打ち付けた。
『まったくくめんどくせえ男を宿主にしちまったもんだ!』
怒っているらしいが、彼が本当に怒ったら、こんなものでは済まないはずだ。
ならば一つぐらい質問しても構わないだろうと有吾は判断する。
「人間の魂が妖しを取り込んでも、悪をなさない場合はあるのですか? それならば、切る必要もないのでは?」
羅刹は再び腕組みをして、天を振り仰ぐような仕草をした。
下唇を突き出して『むう』と唸る。
『だめだな』
思いがけず大きな否定の声だった。
『本来、人が持つべきじゃない力を手に入れるんだ。歪んでいく。狂っていく。人が勝つか、妖しが勝つか。どちらがどちらを取り込むかはその時次第かもしれない。妖が勝てばいい。人間は取り込まれて消滅する。だが人間の感情が勝てば、そいつの魂は、本来自分が持つはずではなかった大きな力を持つことになる。それ故に、いつかは、狂う』
羅刹の答えを聞いた有吾は、頭を抱えた。
視線の先にはみやぎの寝顔がある。
「斬りたくない」
ははははっ!
羅刹の笑い声が響いた。
「斬らなきゃいいじゃねえか! はははは! そうしたら女はまた、通りすがりの旅人を襲うだろうさ。旅人と交わり、そうして孕んだ卵を、人間に産み付けるだろうさ! はははは!」
「なんといいました?」
抱えていた顔を上げ、有吾は羅刹を振り返った。
が、羅刹はもう姿を消していた。