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藪の宿

「お疲れになったでしょう」
 みやぎは立ち上がり、家の中へと戻っていく。
「お風呂と食事の用意をしますね」
 眩しさに目を眇め、空を眺めれば、もう日差しは西に傾いでいた。
 割った薪を軒の下に積み上げ終わると、ちょうど頃合いを見計らったかのように「お風呂を沸かしましたから、入ってくださいな」と声がかかる。
「ありがたい!」と額の汗を拭う。
 江戸っ子は風呂好きである。銭湯がいたるところにあり、毎日、いや、下手をしたら一日に数度は風呂に入る。有吾は根っからの江戸っ子ではないが、数年の江戸暮らしで、すっかり風呂好きになっていた。そうでなくても、絞ったら水が滴りそうなほど汗だくで、風呂のに入れることは素直にありがたい。
 この家の東側には五右衛門風呂があった。藪の中に埋もれるような、寂れた家だが、部屋数もあるし、鶏小屋に風呂もある。できたばかりの頃は立派な様子だったのかも知れない。
 少し熱めの湯に浸かり、みやぎが用意してくれていた新しい着物に着替えると、生まれ変わったように清々しい気持ちになる。
 風呂から上がると、飯の支度ができていた。
 飯と味噌汁と漬物。それにきんぴら。つやつやと輝くきんぴらからいい匂いがして、有吾の腹は『はやく、飯を食わせろ!』と大騒ぎを始める。
 飯は炊きたてではなかったが、壺の中から取り出した梅干しをのせ、茶漬けにしてくれた。
「お疲れになりましたでしょう? ゆっくりしてくださいな」
 と、酒が出てくる。
 注がれた液体は、白くにごり、ふくよかな香りが部屋の中に広がった。
 口に含めば、濃厚で、甘い。
「これは、うまいですね。どぶろくですか」
「ええ。私が作ったんですよ」
「おや、もしかするとみやぎさんもいける口なんですか」
 そう尋ねると、みやぎはわずかに頬を染めて、頷いた。
「なんだ、では一緒に飲みましょう」
 とくとくと酒を注いで差し出すと、みやぎは指先を揃えて受け取った。
 ちょっと突き出した唇になみなみと酒の注がれた茶碗を当てると、そのままくいっと飲み干してしまう。
「ああ、おいしい」
 口元を拭い、ほうっと深く息をつく。
「けっこういける口じゃあありませんか! さあ、飲みましょう」
「はい」
 二人で飲んだり食べたりしているうちに、いつの間にやら日は落ちて、空には昨日とはうってかわって、満天の星が揺らめいている。
 二人は縁側に並び、夜空を眺めていた。
「誰かと一緒に食卓を囲む……」
 みやぎのつぶやきが有吾の耳に聞こえる。
「ずいぶんと長い間忘れていたような気がします。いいものですね」
「ええ、いいものです」
 空を見上げたまま、有吾もみやぎに同意した。
 いいものだ。
 こんなふうにしみじみ思うのは、いつぶりだろうか。
「床の用意をしてまいります」
 みやぎは立ち上がった。
 思いがけなく訪れた心安らかな時間が終わろうとしている。
 小さな胸の痛みを感じながら、有吾も立ち上がると、片付けの手伝いをした。
 雨戸を閉めてしまうと、星の瞬きも、草木を揺らす風の音も、虫の声も、すうっと遠のいていき、部屋の中が静けさに包まれる。
 小さな行灯の光が、心もとなげに室内を暗く照らしていた。
「今日は本当に助かりました」
 有吾の寝床は座敷にとってある。
「いいえ、こちらこそ、本当に助かりました」
 就寝の挨拶をして、みやぎは座敷から寝室へと続く襖を開ける。
「有吾様……」
 しかし、襖を開けたままみやぎの足はとまった。
「明日は、本当にここを出ていかれてしまうのですか?」
「みやぎさん……」
「私はまた、ここで一人きりに戻ってしまうのですね……」
 ふすまに手をかけるみやぎの背中が、小さく震えているように見えた。
「すいません……」
 有吾は自分の不甲斐なさを呪いたくなる。こういう時気の利いた言葉の一つも出てこない。
 振り返ったみやぎの目には涙が浮かんでいた。
「行かないでください……」
 涙に声をつまらせながら、振り返り、そのまま有吾の胸に身を預けてくる。
 受け止めた柔らかな重みを、有吾は思わず抱きしめてしまいそうになった。
「お願いです、有吾様……もう、一人は嫌なんです」
 ささやき声が直接胸の奥を甘く震わせた。
「みやぎ、さん」
 厳つい外見をしているが、有吾はこれでも二十歳そこそこの青年である。みやぎのような美しく艶のある女性から言い寄られて平静を保つのはかなりの努力が要だった。
 身体の脇でためらっている両腕を、みやぎの背に回してしまえば、もう歯止めは効かないのではないか。
 ここにいるのが六助ならと、有吾の脳裏に役者のように線の細い、整った面差しの男の相貌が浮かんだ。
 六助だったなら、自分のようにぐだぐだと悩むことはないだろう。さっさと女を抱きしめ、その奥へ腕を伸ばしているに違いない。あっけらかんと幾人もの女を渡り歩きながらも、決して曇らない類の男もいるのだと、六助と知り合って有吾は知った。
 朴念仁。などと言われるが、果たして自分は朴念仁なのだろうか。
 恐ろしいのだ。女というものが。
 じっとりとまとわりついて、混ざり合ってしまいそうな情念が。その肌が、その芳香が。
 恐ろしいと思いながらも惹かれてしまう自分自身が。
「お願い……どうか……」
 ついと有吾の胸から顔を上げたみやぎを見下ろしてしまった。
 瞳と瞳がぶつかり、見つめ合う。
 有吾は自分の腕が、みやぎの細い背中に回されていくことにすら気がついていなかった。百姓女にしては白すぎるその頬。そのくせ赤い唇。
 女というものには、少なからず魔性の力というものが宿っているのかも知れない。
 虫を誘う甘い蜜のような、暗闇で灯る光のような、そんな仄かなものなのだが、男はどうしようもなく惹かれ、吸い寄せられてしまうのだ。
 小さく唇が触れた時、みやぎの腕が有吾の首筋に回った。
 こうして引き寄せられてしまうのを、女のせいにばかりするのはお門違いなのかもしれないな、などと、まだ往生際の悪い頭の片隅が余計なことを考える。
 みやぎの唇が開いて、小さな吐息が漏れた。
 ああ、だめだ。
 みやぎの中に開いた隙間を、埋めてしまいたい。この女の悲しみも、寂しさも、何もかもを自分こそが、埋めてやるのだ。
 嵐のような衝動が己の中を吹きすぎて、思わず腕に力がこもった。
 が、身体が火照れば火照るほど、キンと冷えた何かが、違和感を唱える。
 もうすでに、みやぎと自分自身の何かが、混じり合ってしまったのかも知れない。渾身の意志の力でもって、ぐいっとみやぎの身体を自分から引き剥がした時、有吾は痛みを感じていた。
 自分の中の理性というものを大急ぎで掻き集めようと、有吾は頭を大きく振る。
「すいません!」
 肩に手をかけたまま、みやぎの身体をなるべく自分から遠ざける。
「有吾様?」
 気持ちは戻ったが、みやぎと自分自身の荒い息遣いが、この沈んだ部屋にまだ聞こえていた。
「すすす……すいません」
 目を背けたまま謝る。
 みやぎはどんな表情をしているのか。今は見ることができなかった。
「私では、抱けませんか……」
「そんな、そういうわけでは。ですが、あなたには待っている人がいるのでしょう?」
 一番当たり障りのない言い訳がするりと出てくる。
「あの人は……もう、帰ってきません」
「え?」
「もう何年も、待っているのです。帰ってきませんでした。どこかで所帯でも持ったのか、それとも死んでしまったのか……。それすらもわからぬまま。私は置き去りにされたんです」
 思わずみやぎへ視線を戻したが、うつむいたみやぎの表情はうかがうことができなかった。
「私は汚い女です」
 ぽたりと水滴が落ちる。
「女一人で生きていくことがどれだけ大変か……」
 うつむいたまま、みやぎはとつとつと話し始めた。
「ある日ここから近くの村の庄屋様が、私の面倒を見てくれると言いました。そのかわり……庄屋様は私の体をよこせといいます。私は庄屋様の囲われものになりました」
 ぽたり。
 落下した涙が有吾には血の色をしているように見えた。
 だがそれは一瞬のことで、黒光りする床の上にできた丸い染みは、すぐに透明に変わった。
「けれども、庄屋様もしばらくすると通ってこられなくなりました。それからまたしばらくして、盗賊がこの荒れ果てた家にやってきました。有吾様のように降り出した雷雨に追われて。それから男たちは数日この家に留まりました。私は……」
 有吾はみやぎの身体を引き寄せた。
 床に落ちるはずだった涙が、有吾の胸を濡らす。
「賊の世話をさせられました。飯を作り、風呂を焚き、背中を流し、繕いをして、それから、昼といわず夜といわず、私の体は彼奴等に押し開かれるのです」
 腕の中でみやぎが顔を上げる。
 そこにはもう涙はなかった。
 挑むように有吾を見上げている。
「そして私は、ずっと死んだようにしてこのあばら家で、一人暮らしてきたのです。男なんて……!」
 みやぎの瞳に現れたのは、悲しみだとか絶望なんてものではなかった。真っ赤になって燃え上がる、怒りだ。男というものへの。みやぎを傷つけようとする者への。
 みやぎは、癒えることのない傷口から血を滴らせながら、それでも体中の毛を逆立てて威嚇する、野生の獣だ。
「だったら!」
 有吾の手は、細いみやぎの体を揺さぶっていた。
「だったら私があなたを大切にします。このあばら家に、また来ます。薪割りも、草刈りも手伝いましょう。あなたにその代償を求めたりはしません!」
 揺さぶられるみやぎの顔から、表情が抜けていった。
 そして……。
「ああああああああ!」
 眉間にシワがより、苦悶の表情になる。
「どうしました? みやぎさん?」
「くっ……お前……まだ……いたのか! 渡さぬ、お前など……認めぬ……」
 有吾には理解できない言葉を漏らしながら、ガクガクと震えだすと、そのまま糸が切れたように気を失ってしまったのだった。
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