藪の宿
文月十九日。
有吾は裁付袴 に草履という旅装で、とよの家があるという井沢村へと向かった。
五街道の一つである中山道を途中から離れ、奥へ奥へと分け入っていくほどに、人の往来はなくなり、道は細くなっていく。
昼過ぎになると、あたりはもうすっかり林の中だった。
この日は朝から晴れ渡り、遮るもののない陽の光が降り注いでいたが、林の中は網の目のような影が落ちており、幾分涼しく感じられる。
有吾は額から流れ落ちる汗を拭い、ほっと一息ついた。
手頃な倒木をみつけ腰を下ろすと、背中に回した風呂敷の中から大きな握り飯を取り出す。
とよが握ってくれたものだ。
今朝、有吾と六助ととよは、三人揃って炊きたての御飯を食べた。
井沢村までならそう遠くはないはずである。有吾は六助を送り出してから、ゆっくりと家を出ることにした。
一人になってしまうとよのことは心配だったが、長屋のおかみさんたちが気にしてくれているはずだ。
「掃除も洗濯も飯炊きだって一人で出来るし、留守番だってちゃんとできる」と、とよは胸を叩き、化け物退治に向かう有吾のために、握り飯を作ってくれた。
すこしいびつな形に、ほのかに温かみを感じて。有吾の口元に小さい笑みが浮かぶ。
湿り気を帯びた土の匂いを菜にして、握り飯にかぶりついた。
腹が満たされると、林の中に流れる小川で喉を潤す。冷たい清水を体の中に取り込めば、蓄積された熱が冷やされていくようで、元気が湧いてくる。
簡単な昼飯を終え、再び歩き始めた有吾は、ほんのしばらく歩いたところで足を止めた。
周囲には蝉時雨が間断なく降り注いでいたが、有吾の耳はもうそれを音であると意識することをやめていた。
蝉の声を意識の外に追い出してしまうと、林の中は静謐であると言っても差し支えない。
静か、ではあるが、そこここに数え切れないほどの気配が潜んでいる。
生あるものの気配だけだろうか? もしかすると圧倒されそうなほどの林の気の中に、この世のものではない存在も紛れているのではないのだろうか。
林の中に迷い込み、途方に暮れて足を止めてしまえば、密度を持った大気に押しつぶされてしまいそうになる。
実際己の持つ「気」の弱いものであったなら、あっという間に周囲に取り込まれてしまうかもしれない。
林や森、山という場所には、そう言う危うさがあると有吾は感じている。
それにしても、木立の中に入ったと言うだけではなく、空にも雲がかかりはじめたらしい。明るかった木漏れ日が、ずいぶんと淡くなっている。今日も午後から一雨来るのかもしれない。
歩みを止め、周囲の気配を探っていた有吾が「ここですか?」と言葉を発した。
誰かにものを尋ねるような口調であったが、この林の中に有吾以外の人間はいない。
有吾はまるで籠細工にでもなってしまったように、その場に佇んでいた。太い眉の下の目だけがキョロキョロと動いて、あたりを見回している。
「わかりました」
誰にともなくそう答えると、草木を手で掻き分けながら、藪の中へと入っていった。
藪をしばらく進むと、また、先ほどと同じような細い道に出る。
ぽつ、ぽつ、ぽっ、ぽっ、ぽっ……
「降り出してきましたね。まだ距離はありそうですか?」
またもや一人で話し始める。
「ではしかたありません。濡れていきましょう。まあ、その方が相手の懐に入り込みやすいかもしれませんね」
つぶやくように話しながら、有吾の手は腰に差した刀の柄袋を握っていた。
しばらくすると、降り出した雨に呼吸すら苦しくなっていく。口だろうが鼻だろうが目だろうが、情け容赦なく雨粒は叩きつける。
笠をかぶっているにもかかわらず、目を開けていることすら難しくなってくる。
路に落ちた雨粒の矢は勢い良く跳ね返り、足元が見えないほどで、跳ね返った泥のせいで足袋の中はじゃりっと嫌な感触がした。
雨音にまじり、遠雷の音が聞こえたような気がした。
もう少し近くなればはっきりと聞こえるのだろうが、何しろ今の状態では、激しい雨音に、雷様の打ち鳴らす轟すら、打ち消されてしまうらしい。
これ以上進むのは、難しいのではないか?
そう考えた時、その家が現れたのだ。ふと気づいたら、忽然と、小さな一軒家が、有吾の目の前に建っていた。
今にも崩れ落ちそうな、家というよりも、小屋とでも言ったほうが似合いのような家である。
いったい人が住んでいるのだろうかと疑いたくなるような佇まいだった。
だが、外にいるよりは数百倍もましに違いない。
「すいません! だれか! いませんか!」
どんどんと戸を叩いたが、返事がない。
この雨のせいで、聞こえていないのかもしれない。
「すいません! だれも住んでいませんか!」
何度か力を込めて叩いたが応えがないので、有吾は引き戸に手をかけると、家の中へと入っていった。
小屋の引き戸に手をかけると、するりと扉が開いた。
着物も肌も、頭からとっぷりと水を含んでいたが、雨粒の直撃にさらされなくなっただけでも安堵する。有吾は飛び込んだ土間で、大きく息を吐きだした。
濡れそぼった着物は体に張り付き、笠をかぶっていたにもかかわらす、髪も顔も、びしょ濡れだった。滝のように流れてくる水滴に、目を開けていることすら辛い。
「だれか、いませんか?」
問いかけながら、顔を手で拭う。
ぴたりと閉まった板戸は静かだったが、ふいに何かの気配が、その奥で動いたような気がした。雨音がひどくて声が届いていないのかもしれないと、有吾は声を大きくした。
「どなたか、お住いではありませんか?」
古びた板戸が、思いのほかするりと開く。
「はい……どちらさまでしょうか?」
顔をのぞかせたのは女であった。
年の頃はそう若くもなさそうだが、美しい顔立ちの女だ。
「まあ!」
有吾の様子を目にした女は、驚きの表情を作った。
「びしょ濡れではありませんか。いま、手ぬぐいをお持ちします」
小走りに部屋の奥に消えたが、すぐに戻ってくる。
「これで、体を拭いてくださいませ」
差し出された手ぬぐいはあっという間に水気を吸い、有吾は何度絞らなければならなかった。存分に雨水を吸った袴は、ちょっとやそっと手ぬぐいで拭ったからといって、肌にぴたりと張り付いたままである。
「どうぞ、上がってお休みになっていってください」
と言われたが、濡れた着物のまま上がり込むことは、ためらわれた。
「いや、雨を凌ぐことができれば十分です。申し訳ありませんが、土間でしばらく雨宿りさせていただいてもよろしいでしょうか?」
女は「ご遠慮なさらずに」と、さらに家の中へ入るように勧めたが、それでも有吾が遠慮していると、何かを思いついたように小さく手を叩いて、再び部屋の中へと消えていった。
今度は奥へ入ったきり、しばらく出てこない。
有吾が着物を絞っていると、女の声がすぐ背後に聞こえて、慌てて振り返った。
女の手の中には一枚の着物があった。
「どうぞこちらを」
男物であるらしい。亭主のものでもあるのだろうか。
それにしても、家の中からは女の他に、誰かいるような気配は感じられない。
「これにお着替えになってください。お侍様には、少し短いかもしれませんが……」
「いえ、そんな……」
ためらう有吾に女は着物を押し付け、板戸を閉めると、奥へと戻っていってしまう。
「お茶を淹れます。着替えたらいらしてください」
閉まった板戸の向こうから、くぐもった女の声が言った。
「すいません! ではありがたくお借りいたします」
それ以上の遠慮はしなかった。
古びた着物ではあるが、きれいに洗濯され、しっかりと乾いている。
袖を通せばふわりと太陽の匂いが鼻腔に届き、有吾は乾いた着物の心地よさを、じっくりと噛みしめるのだった。
有吾は
五街道の一つである中山道を途中から離れ、奥へ奥へと分け入っていくほどに、人の往来はなくなり、道は細くなっていく。
昼過ぎになると、あたりはもうすっかり林の中だった。
この日は朝から晴れ渡り、遮るもののない陽の光が降り注いでいたが、林の中は網の目のような影が落ちており、幾分涼しく感じられる。
有吾は額から流れ落ちる汗を拭い、ほっと一息ついた。
手頃な倒木をみつけ腰を下ろすと、背中に回した風呂敷の中から大きな握り飯を取り出す。
とよが握ってくれたものだ。
今朝、有吾と六助ととよは、三人揃って炊きたての御飯を食べた。
井沢村までならそう遠くはないはずである。有吾は六助を送り出してから、ゆっくりと家を出ることにした。
一人になってしまうとよのことは心配だったが、長屋のおかみさんたちが気にしてくれているはずだ。
「掃除も洗濯も飯炊きだって一人で出来るし、留守番だってちゃんとできる」と、とよは胸を叩き、化け物退治に向かう有吾のために、握り飯を作ってくれた。
すこしいびつな形に、ほのかに温かみを感じて。有吾の口元に小さい笑みが浮かぶ。
湿り気を帯びた土の匂いを菜にして、握り飯にかぶりついた。
腹が満たされると、林の中に流れる小川で喉を潤す。冷たい清水を体の中に取り込めば、蓄積された熱が冷やされていくようで、元気が湧いてくる。
簡単な昼飯を終え、再び歩き始めた有吾は、ほんのしばらく歩いたところで足を止めた。
周囲には蝉時雨が間断なく降り注いでいたが、有吾の耳はもうそれを音であると意識することをやめていた。
蝉の声を意識の外に追い出してしまうと、林の中は静謐であると言っても差し支えない。
静か、ではあるが、そこここに数え切れないほどの気配が潜んでいる。
生あるものの気配だけだろうか? もしかすると圧倒されそうなほどの林の気の中に、この世のものではない存在も紛れているのではないのだろうか。
林の中に迷い込み、途方に暮れて足を止めてしまえば、密度を持った大気に押しつぶされてしまいそうになる。
実際己の持つ「気」の弱いものであったなら、あっという間に周囲に取り込まれてしまうかもしれない。
林や森、山という場所には、そう言う危うさがあると有吾は感じている。
それにしても、木立の中に入ったと言うだけではなく、空にも雲がかかりはじめたらしい。明るかった木漏れ日が、ずいぶんと淡くなっている。今日も午後から一雨来るのかもしれない。
歩みを止め、周囲の気配を探っていた有吾が「ここですか?」と言葉を発した。
誰かにものを尋ねるような口調であったが、この林の中に有吾以外の人間はいない。
有吾はまるで籠細工にでもなってしまったように、その場に佇んでいた。太い眉の下の目だけがキョロキョロと動いて、あたりを見回している。
「わかりました」
誰にともなくそう答えると、草木を手で掻き分けながら、藪の中へと入っていった。
藪をしばらく進むと、また、先ほどと同じような細い道に出る。
ぽつ、ぽつ、ぽっ、ぽっ、ぽっ……
「降り出してきましたね。まだ距離はありそうですか?」
またもや一人で話し始める。
「ではしかたありません。濡れていきましょう。まあ、その方が相手の懐に入り込みやすいかもしれませんね」
つぶやくように話しながら、有吾の手は腰に差した刀の柄袋を握っていた。
しばらくすると、降り出した雨に呼吸すら苦しくなっていく。口だろうが鼻だろうが目だろうが、情け容赦なく雨粒は叩きつける。
笠をかぶっているにもかかわらず、目を開けていることすら難しくなってくる。
路に落ちた雨粒の矢は勢い良く跳ね返り、足元が見えないほどで、跳ね返った泥のせいで足袋の中はじゃりっと嫌な感触がした。
雨音にまじり、遠雷の音が聞こえたような気がした。
もう少し近くなればはっきりと聞こえるのだろうが、何しろ今の状態では、激しい雨音に、雷様の打ち鳴らす轟すら、打ち消されてしまうらしい。
これ以上進むのは、難しいのではないか?
そう考えた時、その家が現れたのだ。ふと気づいたら、忽然と、小さな一軒家が、有吾の目の前に建っていた。
今にも崩れ落ちそうな、家というよりも、小屋とでも言ったほうが似合いのような家である。
いったい人が住んでいるのだろうかと疑いたくなるような佇まいだった。
だが、外にいるよりは数百倍もましに違いない。
「すいません! だれか! いませんか!」
どんどんと戸を叩いたが、返事がない。
この雨のせいで、聞こえていないのかもしれない。
「すいません! だれも住んでいませんか!」
何度か力を込めて叩いたが応えがないので、有吾は引き戸に手をかけると、家の中へと入っていった。
小屋の引き戸に手をかけると、するりと扉が開いた。
着物も肌も、頭からとっぷりと水を含んでいたが、雨粒の直撃にさらされなくなっただけでも安堵する。有吾は飛び込んだ土間で、大きく息を吐きだした。
濡れそぼった着物は体に張り付き、笠をかぶっていたにもかかわらす、髪も顔も、びしょ濡れだった。滝のように流れてくる水滴に、目を開けていることすら辛い。
「だれか、いませんか?」
問いかけながら、顔を手で拭う。
ぴたりと閉まった板戸は静かだったが、ふいに何かの気配が、その奥で動いたような気がした。雨音がひどくて声が届いていないのかもしれないと、有吾は声を大きくした。
「どなたか、お住いではありませんか?」
古びた板戸が、思いのほかするりと開く。
「はい……どちらさまでしょうか?」
顔をのぞかせたのは女であった。
年の頃はそう若くもなさそうだが、美しい顔立ちの女だ。
「まあ!」
有吾の様子を目にした女は、驚きの表情を作った。
「びしょ濡れではありませんか。いま、手ぬぐいをお持ちします」
小走りに部屋の奥に消えたが、すぐに戻ってくる。
「これで、体を拭いてくださいませ」
差し出された手ぬぐいはあっという間に水気を吸い、有吾は何度絞らなければならなかった。存分に雨水を吸った袴は、ちょっとやそっと手ぬぐいで拭ったからといって、肌にぴたりと張り付いたままである。
「どうぞ、上がってお休みになっていってください」
と言われたが、濡れた着物のまま上がり込むことは、ためらわれた。
「いや、雨を凌ぐことができれば十分です。申し訳ありませんが、土間でしばらく雨宿りさせていただいてもよろしいでしょうか?」
女は「ご遠慮なさらずに」と、さらに家の中へ入るように勧めたが、それでも有吾が遠慮していると、何かを思いついたように小さく手を叩いて、再び部屋の中へと消えていった。
今度は奥へ入ったきり、しばらく出てこない。
有吾が着物を絞っていると、女の声がすぐ背後に聞こえて、慌てて振り返った。
女の手の中には一枚の着物があった。
「どうぞこちらを」
男物であるらしい。亭主のものでもあるのだろうか。
それにしても、家の中からは女の他に、誰かいるような気配は感じられない。
「これにお着替えになってください。お侍様には、少し短いかもしれませんが……」
「いえ、そんな……」
ためらう有吾に女は着物を押し付け、板戸を閉めると、奥へと戻っていってしまう。
「お茶を淹れます。着替えたらいらしてください」
閉まった板戸の向こうから、くぐもった女の声が言った。
「すいません! ではありがたくお借りいたします」
それ以上の遠慮はしなかった。
古びた着物ではあるが、きれいに洗濯され、しっかりと乾いている。
袖を通せばふわりと太陽の匂いが鼻腔に届き、有吾は乾いた着物の心地よさを、じっくりと噛みしめるのだった。