依頼人
その後、有吾は調べたいことがあるからと先に店を出たので、六助ととよは二人でゆっくりと飯を食った。
飯を食い終わる頃になると、六助はいい気分である。
「よし、旦那が帰ってくるまであっしが江戸の町を案内してやろうじゃないか。そうだなあ、とよは銭湯に行ったことはあるかい?」
「な……ないよ?」
「よっし、まずは風呂に入って綺麗になるか!」
だいたい江戸っ子というのは風呂好きが多くて、銭湯は町のいたるところにある。熱い湯に一日に二度も三度も入る人もいるくらいだ。
はじめての銭湯にはしゃぐとよと一緒に湯船につかり、こざっぱりとしたところで「旦那の化け物退治が成功するように、神社にお参りに行こうじゃないか?」と、六助はとよを誘った。
神社が近くなってくると、二人は手をつないで歩いた。
とよは恥ずかしがったが、参道は人でごった返しており「迷子にならねえようにだよ」と六助が言うと、はにかみながら手を差し出した。
実は六助は生粋の江戸っ子ではない。とよと同じように江戸近郊の農村出身で、知り合いのつてで江戸に出てきて、頭のもとに弟子入りしたのだ。
江戸の町を頼りなげに歩くとよの姿が、かつての自分自身の姿と重なるような気がした。一緒に手を繋いで歩けば、在に残してきた、小さな弟妹を思い出した。
とよの手のあたたかさに、柄にもなく鼻の奥がツンとしてきたところで「なあ、六助あんちゃん、今日はお祭りか!?」というとよの声にはっと我に返った。
「お祭りかぁ……ちげえねえや。江戸の町ってのは、毎日がお祭りなんだ」
「へええぇぇ。いつ働くんだい?」
六助は笑った。
「おじちゃんは鳶だから、火事のときは大忙しさ。家が燃えちまうから、火事の後も、大忙しかな」
「へええ」
返事をしながら、とよはただでさえ丸い目をことさら大きくして、江戸の町をきょろきょろと眺めていた。
せっかく銭湯に入ったというのに、二人はあっという間に汗だくだった。
午後になって少しずつ雲が出てくる。太陽の光は遮ってくれたのだが、湿気が多いのだろう、肌にまとわりつくような暑さだ。
「一雨来そうだ」
二人は慌ててお参りを済ませると、有吾の長屋へと足早に向かった。
ポツポツと降り出した雨は、次第に激しさを増す。ついにはゴロゴロと雷までなりだした。
「とよ、ヘソちゃんと隠しとけよ。ようし、旦那の長屋まで走るぞ!」
雨にぬれて、それでもとよの表情はどこか楽しげだった。しっぱねを跳ね上げながら走る。思ったより近くで雷が鳴るときゃあきゃあと声をあげが、それでも顔は笑っていた。
「そら! 旦那の家だよ!」
二人は転がるようにして、目の前の長屋に転がり込んだ。
雨のせいだろう。部屋の中はずいぶんと暗かった。
勝手知ったるで、六助は部屋の隅の行灯に火を灯す。何しろ狭いので、行灯一張もあれば、十分に部屋の隅まで照らしてくれる。
濡れた着物を手ぬぐいで払っていると「ちょいと、旦那、戻ったのかい?」と、戸口の方から声がした。
返事をする間もなく、戸が開く。
「おやぁ、六助さんじゃあないか~」
現れた人物は、六助の姿を確認すると、鼻にかかったような声を出して身をくねらせた。
隣に住んでいるおかみさんだ。名前までは覚えてないが、見たことのある顔だ。
「旦那はまだ帰ってねえんで」
「ふうん、あれまあ! どこの子だい!」
早速とよを見つけたらしい。
「まさか六助さん、子どもが……」
「旦那のお客だよ」
あわてて否定する六助に冗談だよと、隣の女将さんは笑った。
「あら、びしょ濡れじゃないかい? ちょっと、待ってなよ」
あっという間に部屋を出ていったと思えば、外からわいわいと騒がしい声がする。今度は別のおかみさんが有吾の家に顔を出し「子どもの着物だってえ? これで小さくないかい?」と言いながらずかずかと部屋に上がってきた。
とよがきょろきょろと目を泳がせているうちに、ちょっと太めのおかみさんのもちもちした手が、とよから濡れた着物を剥ぎ取ると、持ってきた着物を着せる。
「どうかねえ?」
土間に立って様子を眺めていた女が「いいじゃないか」と満足そうな笑顔を浮かべた。
「よかったよ。うちの子のがまだあってさあ。古着屋に売ろうかと思ってたところさ」
よく見ると戸口から部屋を覗く、数人の子どもたちの姿も見えた。
雨が降っているからこれくらいですんだが、そうでなければ、有吾の家の戸口には人だかりができていただろう。長屋なんていうのは、みんな家族みたいなもんだ。
「あ……ありがとう」
おかみさんたちの勢いに飲まれていたとよがようやく口を開いた。
「ちゃんとありがとうが言えるなんて偉いねえ」
「いくつだい?」
「旦那のお客?」
「お客って、化けもの屋のかい?」
数人のおかみさん連中が一気に話し出すものだから、答える暇もない。しばらくの間大騒ぎだったのだがおしゃべりが多少収まってきたところで「とよぼうは、江戸に出てきたばっかで疲れてるんだ、ちょっと休ませてやってくれるとありがてえんだがねえ」と、六助はすかさず言った。
折よく暮六つの鐘が鳴る。
「あらやだよう」
「ごめんねえ」
「うちの人もそろそろ帰ってくるわあ」
土間に陣取っていたおかみさんたちは、愛想笑いを振りまきながら、姿を消した。
室内は一気に静かになる。とはいえ、雨の音やら隣近所の生活の音やら会話やらが小さな部屋の外側からひっきりなしに聞こえていた。
とよはよほど疲れていたのだろう。
おひつに残っていた冷や飯を食っているうちに、箸を握りしめたままこっくりこっくりと舟を漕ぎだした。
◇
すっかりと日は落ちたらしい。
いつの間にやら雨音は聞こえなくなっていた。
とよは、六助が敷いてやった布団の中ですやすやと眠っている。
まだ、有吾は帰らない。
まさか小さな子どもを一人だけ置いて帰るわけにもいかない。六助は暗闇の中で壁にもたれた姿勢のまま、わずかに眠ってしまっていたらしい。
「う……うう……っ!」
とよの声にハッとして、目が覚めた。
「とよ?」
とよは汗をびっしりとかいていた。
「うぅっ……」
食いしばる歯の間から、言葉にならないうめきがもれる。
「くるな……こっち、来るなあっ!」
「とよ! とよぼう! おいっ!」
六助はとよの小さな体を抱き起こして、ぎゅっと腕の中に抱き込んだ。
小さな手が、六助の肌にしがみつこうとする。
「あいつが……あいつが……」
「大丈夫だよ、おとよぼう。ここは江戸で、化けもの屋の旦那の住んでいなさる長屋だ。どんな怖い化けものだってやっつけてくださる旦那の家だよ」
耳元でそう言い聞かせ、腕に力を込めてやると、しだいにとよの身体の震えは治まっていった。
とよの目が開き、焦点があってくる。
「……六助あんちゃん?」
「そうだよ、六助あんちゃんだ。もうすぐ旦那も帰って来なさる。それまであんちゃんがとよの側についてるよ」
六助は濡れた着物を乾かすために脱いだので、裸である。直接肌に触れるとよの暖かさが、胸の奥をジンとさせた。こんな年端もいかない娘が、うなされて飛び起きるほどの、どんな恐ろしい思いをしたというのだろう。
「よく頑張ったな……こんなに小さいのによう……さあ、あんちゃんがちゃんとここにいるから、眠っちまいなよ」
そっと布団に横たえてやると、背中に回っていたとよの手から力が抜けていく。
「あいつは、おれに声をかけてきたんだ……」
「うん」
「初めは、きれいな女の人の姿だった」
「うん」
「江戸までは遠いよって、家で休んできなよって……」
「うん」
「おれ、あいつの家に入ろうとしたんだ。そしたらさ、家の奥の方から何か、きらきらしたもんでぐるぐる巻きにされた男が飛び出してきたんだよ。それで、逃げろって言われたんだ」
そこまで話したとよは、ぶるりと身を震わせた。
「それで……それで……そうしたら……あいつが、その男を……」
また暗い恐怖の中に落ちていきそうだったとよの頬を六助はなでた。
「とよ、わかったよ。その男がひどい目にあったんだな? とよはそれを見たんだな? それでここまで逃げてきたんだな? 大丈夫だよ」
六助の腕の中で固まっていたとよの恐怖が、ゆるゆると弛緩していく。
「六助あんちゃん……」
「うん。ちゃんとそばにいるよ」
「……」
眠気がとよを包んでいく。
すっかりととよが寝入るまで、六助は添い寝をしながら、じっととよを見つめていた。
飯を食い終わる頃になると、六助はいい気分である。
「よし、旦那が帰ってくるまであっしが江戸の町を案内してやろうじゃないか。そうだなあ、とよは銭湯に行ったことはあるかい?」
「な……ないよ?」
「よっし、まずは風呂に入って綺麗になるか!」
だいたい江戸っ子というのは風呂好きが多くて、銭湯は町のいたるところにある。熱い湯に一日に二度も三度も入る人もいるくらいだ。
はじめての銭湯にはしゃぐとよと一緒に湯船につかり、こざっぱりとしたところで「旦那の化け物退治が成功するように、神社にお参りに行こうじゃないか?」と、六助はとよを誘った。
神社が近くなってくると、二人は手をつないで歩いた。
とよは恥ずかしがったが、参道は人でごった返しており「迷子にならねえようにだよ」と六助が言うと、はにかみながら手を差し出した。
実は六助は生粋の江戸っ子ではない。とよと同じように江戸近郊の農村出身で、知り合いのつてで江戸に出てきて、頭のもとに弟子入りしたのだ。
江戸の町を頼りなげに歩くとよの姿が、かつての自分自身の姿と重なるような気がした。一緒に手を繋いで歩けば、在に残してきた、小さな弟妹を思い出した。
とよの手のあたたかさに、柄にもなく鼻の奥がツンとしてきたところで「なあ、六助あんちゃん、今日はお祭りか!?」というとよの声にはっと我に返った。
「お祭りかぁ……ちげえねえや。江戸の町ってのは、毎日がお祭りなんだ」
「へええぇぇ。いつ働くんだい?」
六助は笑った。
「おじちゃんは鳶だから、火事のときは大忙しさ。家が燃えちまうから、火事の後も、大忙しかな」
「へええ」
返事をしながら、とよはただでさえ丸い目をことさら大きくして、江戸の町をきょろきょろと眺めていた。
せっかく銭湯に入ったというのに、二人はあっという間に汗だくだった。
午後になって少しずつ雲が出てくる。太陽の光は遮ってくれたのだが、湿気が多いのだろう、肌にまとわりつくような暑さだ。
「一雨来そうだ」
二人は慌ててお参りを済ませると、有吾の長屋へと足早に向かった。
ポツポツと降り出した雨は、次第に激しさを増す。ついにはゴロゴロと雷までなりだした。
「とよ、ヘソちゃんと隠しとけよ。ようし、旦那の長屋まで走るぞ!」
雨にぬれて、それでもとよの表情はどこか楽しげだった。しっぱねを跳ね上げながら走る。思ったより近くで雷が鳴るときゃあきゃあと声をあげが、それでも顔は笑っていた。
「そら! 旦那の家だよ!」
二人は転がるようにして、目の前の長屋に転がり込んだ。
雨のせいだろう。部屋の中はずいぶんと暗かった。
勝手知ったるで、六助は部屋の隅の行灯に火を灯す。何しろ狭いので、行灯一張もあれば、十分に部屋の隅まで照らしてくれる。
濡れた着物を手ぬぐいで払っていると「ちょいと、旦那、戻ったのかい?」と、戸口の方から声がした。
返事をする間もなく、戸が開く。
「おやぁ、六助さんじゃあないか~」
現れた人物は、六助の姿を確認すると、鼻にかかったような声を出して身をくねらせた。
隣に住んでいるおかみさんだ。名前までは覚えてないが、見たことのある顔だ。
「旦那はまだ帰ってねえんで」
「ふうん、あれまあ! どこの子だい!」
早速とよを見つけたらしい。
「まさか六助さん、子どもが……」
「旦那のお客だよ」
あわてて否定する六助に冗談だよと、隣の女将さんは笑った。
「あら、びしょ濡れじゃないかい? ちょっと、待ってなよ」
あっという間に部屋を出ていったと思えば、外からわいわいと騒がしい声がする。今度は別のおかみさんが有吾の家に顔を出し「子どもの着物だってえ? これで小さくないかい?」と言いながらずかずかと部屋に上がってきた。
とよがきょろきょろと目を泳がせているうちに、ちょっと太めのおかみさんのもちもちした手が、とよから濡れた着物を剥ぎ取ると、持ってきた着物を着せる。
「どうかねえ?」
土間に立って様子を眺めていた女が「いいじゃないか」と満足そうな笑顔を浮かべた。
「よかったよ。うちの子のがまだあってさあ。古着屋に売ろうかと思ってたところさ」
よく見ると戸口から部屋を覗く、数人の子どもたちの姿も見えた。
雨が降っているからこれくらいですんだが、そうでなければ、有吾の家の戸口には人だかりができていただろう。長屋なんていうのは、みんな家族みたいなもんだ。
「あ……ありがとう」
おかみさんたちの勢いに飲まれていたとよがようやく口を開いた。
「ちゃんとありがとうが言えるなんて偉いねえ」
「いくつだい?」
「旦那のお客?」
「お客って、化けもの屋のかい?」
数人のおかみさん連中が一気に話し出すものだから、答える暇もない。しばらくの間大騒ぎだったのだがおしゃべりが多少収まってきたところで「とよぼうは、江戸に出てきたばっかで疲れてるんだ、ちょっと休ませてやってくれるとありがてえんだがねえ」と、六助はすかさず言った。
折よく暮六つの鐘が鳴る。
「あらやだよう」
「ごめんねえ」
「うちの人もそろそろ帰ってくるわあ」
土間に陣取っていたおかみさんたちは、愛想笑いを振りまきながら、姿を消した。
室内は一気に静かになる。とはいえ、雨の音やら隣近所の生活の音やら会話やらが小さな部屋の外側からひっきりなしに聞こえていた。
とよはよほど疲れていたのだろう。
おひつに残っていた冷や飯を食っているうちに、箸を握りしめたままこっくりこっくりと舟を漕ぎだした。
◇
すっかりと日は落ちたらしい。
いつの間にやら雨音は聞こえなくなっていた。
とよは、六助が敷いてやった布団の中ですやすやと眠っている。
まだ、有吾は帰らない。
まさか小さな子どもを一人だけ置いて帰るわけにもいかない。六助は暗闇の中で壁にもたれた姿勢のまま、わずかに眠ってしまっていたらしい。
「う……うう……っ!」
とよの声にハッとして、目が覚めた。
「とよ?」
とよは汗をびっしりとかいていた。
「うぅっ……」
食いしばる歯の間から、言葉にならないうめきがもれる。
「くるな……こっち、来るなあっ!」
「とよ! とよぼう! おいっ!」
六助はとよの小さな体を抱き起こして、ぎゅっと腕の中に抱き込んだ。
小さな手が、六助の肌にしがみつこうとする。
「あいつが……あいつが……」
「大丈夫だよ、おとよぼう。ここは江戸で、化けもの屋の旦那の住んでいなさる長屋だ。どんな怖い化けものだってやっつけてくださる旦那の家だよ」
耳元でそう言い聞かせ、腕に力を込めてやると、しだいにとよの身体の震えは治まっていった。
とよの目が開き、焦点があってくる。
「……六助あんちゃん?」
「そうだよ、六助あんちゃんだ。もうすぐ旦那も帰って来なさる。それまであんちゃんがとよの側についてるよ」
六助は濡れた着物を乾かすために脱いだので、裸である。直接肌に触れるとよの暖かさが、胸の奥をジンとさせた。こんな年端もいかない娘が、うなされて飛び起きるほどの、どんな恐ろしい思いをしたというのだろう。
「よく頑張ったな……こんなに小さいのによう……さあ、あんちゃんがちゃんとここにいるから、眠っちまいなよ」
そっと布団に横たえてやると、背中に回っていたとよの手から力が抜けていく。
「あいつは、おれに声をかけてきたんだ……」
「うん」
「初めは、きれいな女の人の姿だった」
「うん」
「江戸までは遠いよって、家で休んできなよって……」
「うん」
「おれ、あいつの家に入ろうとしたんだ。そしたらさ、家の奥の方から何か、きらきらしたもんでぐるぐる巻きにされた男が飛び出してきたんだよ。それで、逃げろって言われたんだ」
そこまで話したとよは、ぶるりと身を震わせた。
「それで……それで……そうしたら……あいつが、その男を……」
また暗い恐怖の中に落ちていきそうだったとよの頬を六助はなでた。
「とよ、わかったよ。その男がひどい目にあったんだな? とよはそれを見たんだな? それでここまで逃げてきたんだな? 大丈夫だよ」
六助の腕の中で固まっていたとよの恐怖が、ゆるゆると弛緩していく。
「六助あんちゃん……」
「うん。ちゃんとそばにいるよ」
「……」
眠気がとよを包んでいく。
すっかりととよが寝入るまで、六助は添い寝をしながら、じっととよを見つめていた。