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帰趨

 ◇

 今年の夏は暑かった。

 それでも秋彼岸近くになると随分と過ごしやすい日が増え、河原の土手やあぜ道には、曼珠沙華の花が赤赤と咲いている。
 六助は川岸の柳の並木のたもとに一軒の茶屋を見つけた。
 まだお日さまは真上から少し西に傾き始めたばかりだったが、今日は親方に頼まれたお使いを終えたら、そこで仕事を終いにしてよいことになっている。
 なにしろ先日手前勝手な都合で仕事を休んでしまったものだから、ここしばらくは親方にはこき使われっぱなしだったのである。
 だからこんな早い時間に仕事を上がれるのは井沢村から帰って以来初めてのことだった。
 いつもなら早く仕事の終わった日には、煮売り居酒屋にでも出向いて、酒を飲みながらゆっくり飯を食うのだが、帰り道の途中で見つけた水茶屋で一服したくなったのは、このところの疲れが溜まっていたせいだろう。
 店先の縁台に腰を下ろせば、目の前を流れる小さな川のせせらぎが気持ち良い。野点傘などはなくとも、大きな柳の木がちょうどいい具合に影を落としてくれている。
 お茶を運んでき給仕の女に、団子を一つ頼んだ。
 頬にできる笑窪と、口元から覗く八重歯が可愛らしい娘だ。
 六助は熱い茶をすすりながら、柳の葉がそよ風に揺れる葉音に耳をそばだてる。茶を味わいながら目を閉じれば、さわさわという音と一緒に、瞼の裏の光も、ゆらゆらと揺れた。
「おまちどうさま」
 元気な娘の声が聞こえてはっと目を開けると、いたずらめいた笑顔を浮かべた娘の顔が、思いの外近くにあった。
「お、ありがとうよ。腹が減ってたんだ。へえ。こりゃあうまそうだ」
 串に刺さった団子をひとつ、早速頰張る。
「でしょう? おとっつぁんの団子は美味しいのよ。毎日食べてても飽きないもの」
 団子を置いて立ち去ると思った娘はそのまま六助の隣に腰を下ろしてしまった。
「ねえ、あんた……」
「六助だ」
「ふうん、六助さん? お腹が減ってるって、これからお昼ごはん? お仕事は? もう上がりかい?」
 娘が僅かに六助の方に身体を近づけてきたのは、勘違いではあるまい。
 いい男だねぇ。そう言われつけている六助である。女から誘われることにも慣れている。だからこの娘の意図を察するのも、早かった。
 いつもだったら、ここでしばらく娘との会話を楽しんだ後に、周辺の散策にでも誘っていただろう。もちろんその後のことも込で。
 しかし、このところどうも色恋の方に気持ちが向かない。
「ん? ああ、これからまだちょいと、野暮用があるんだよ。今日はゆっくり飯を食えそうもねぇや」
 嘘も方便、というやつだ。
「あらそうなの? ざんねんね」
 六助の笑顔に、娘の方もあっさりと引き下がる。
 茶碗を手に娘の背中をしばらくぼおっと見送ると、六助はまた団子を口に運んだ。
 木漏れ日揺れる通りをぼんやり眺めていると、行き交う人々の中から、頭一つ飛び出した身体の大きな男がこちらに向かってくるのに気がついた。
 随分と着古した着物のようだが、ぴしっと着ているのがあの人らしい。大きな歩幅で、まっすぐ前を見て歩いているから、まだ六助に気が付かない。
「旦那! 山瀬の旦那ぁ!」
 六助は立ち上がると、口元に手を当てて、大きな声で呼びかけた。
 呼びかけられた浪人は、ちょうど影のきれた日差しの中にあって、眩しそうに目を細めている。額に手をかざし、自分の名を呼んだ相手を探そうと、きょろきょろとあたりを見回していた。
 
 ◇

「あらぁ、六助さん、久しぶりじゃあないかあ!」
「いやあ、親方にこき使われてたんですよ。ようやく今日は早くに仕事を上がれましてね」
「おう、六助じゃあねえか。最近見なかったな」
「いや、どうも」
 化けもの長屋で六助を知らないものはもういない。
 数日のこととはいえ、有吾のいない間毎日のようにこの長屋に通っていたのだ。
 六助自身も、愛想の良い男であるから、みな六助の顔を見るとにこにこと話しかけてきた。
「いいねえ、今日は二人で飲み明かすのかい。あっしも混ざりてえもんだ」
 二人の下げている貧乏徳利を指差しながら長屋に住む男が言うと、その男の女房が「ちょいとあんた、ずうずうしいんだよ」と、旦那の首根っこをむんずとつかんだ。
「いやすみません。私も今日は久しぶりに六助さんと飲むので……」
「おとよちゃんがいなくなっちまって、六助さんも探しに行ったっきりだったろう? 化けもの屋の旦那は解決しました、なぁんて言うがよぉ……」
 なおも言い募ろうとする男は、おっかあに引きずられて行く。
「まったくお前さんは、気遣いってもんが、ないんだから」
 という甲高い声が、少し遠くから聞こえた。
 ふと気がつくと辺りから人気がなくなっている。
「さあ、六助さんどうぞ」
 有吾はどこかばつが悪そうに月代をポリポリと掻きながら、六助に部屋に入るように促した。
 開いた引き戸の先には薄暗いガランとした部屋がある。
 小さい部屋のはずなのに、戸口から中を覗いた六助は、やけに広く感じた。
 とよがいない。
 とよと一緒に、この部屋で過ごしたのはたったひと月前の、しかもほんの数日のことだというのに、懐かしく思うなんておかしなものだ。
「へえ、じゃあ、ちょいとお邪魔しますよ」
 六助は寂しさを断ち切るように草履を脱ぐと、九尺二間、畳の部分に至っては四畳半しかない部屋に上がり込んだ。
 有吾は茶碗を一つ六助に渡すと、酒屋から借りてきた徳利から六助の手の中の茶碗へと、なみなみと酒を注ぐ。
「おっとっと」
 六助は顔を近づけて、零れそうになる酒をすすり「じゃあ、今度はあっしが!」と、有吾から徳利を受け取り酌をする。
 酒の肴は、途中の屋台で買ってきたいなり寿司と、天麩羅と胡麻揚げだ。串に刺さった天麩羅をかじると、まだ温かい。
「かー、うめえ」
 ちょうど腹が空いていた。思わずそう声を上げたが、後はふたりとも言葉少なだった。
 二人で顔を揃えれば、どうしてもあのやけに暑かった日のことを思い出してしまうからかも知れなかった。

 井沢村から江戸に帰ってきて、今の今まで有吾に会わなかったのは、あのときのことを思い出したくはなかったからではないのか。それを仕事のせいにして逃げていたのではないのか。そんな思いが六助の中に湧き上がってくる。
 そして、それに気がついてしまえば、知らないふりをしてやり過ごせるような六助ではなかった。
「とよは、無事なんでしょうかねえ」
 声に出してしまうと、幾分気が楽になった。今まで、六助自身が語らなかったものだから、周りのみんなも気を使って詳しいことを聞いてこようとしなかったのだ。
 親方にしろ、女将さんにしろ、口うるさいようでいて、変なところに気が回る。いや、周りのせいにするわけにも行かない。確かにいままで六助は、あの日のことを思い出したくないと思っていたのだ。
 酒を傾けていた有吾の手が止まった。瞬きするほどの間の後に、有吾は酒を煽ると
「さあ、どうでしょうか……」
 と、静かに言った。
 有吾が飲み干した椀に、六助はまたなみなみと酒を注いでやる。
「おみつの奉公先に探りを入れれば、少しは様子もわかるのでしょうが」
「ああっ! そうですよ旦那。もうひと月だ、おみつが江戸に戻ってるならなにか連絡があったっておかしくねえや」
 六助は思わず腰を浮かせた。
「連絡がねえってことは、まだ江戸に戻ってない?」
「かも知れませんね。奉公先にくらいは連絡を入れてるでしょうから、どんな理由でみつがまだ江戸に戻っていないのか探りを入れればいいのですけど」
 そこで有吾は大きな肩を少し竦めた。
「実は、理由を知ってしまうのが怖いのです。とよの看病のためにまだ戻っていないというのならいいのですが、とよの弔いのためだと言われたらと思うと……」
 有吾の言葉は、そのまま六助の気持ちに重なる。
 有吾と自分は同じだ。忙しいという言い訳で、時間を作ろうともせずに有吾に会おうとしなかったのは、怖かったからだ。
 知らなければ、とよは六助の中で生きている。そう思えたからだ。

 しかしそれとは別に、六助はあの事件だけではなく、有吾からも逃げていたのだ。
 自分でも薄々気づいていた。あの事件の後、極力見ないように目を背けていた自分の気持ちに。
 ――それは、自分の中に生まれた、有吾に対する冷たくゴロリとした、暗い感情の塊だ。この塊をなんと表現したら良いのか、六助にもわからない。自分の中にこんな感情があると、初めて知ったのだから。
 まるで何かに憑かれたようにとよの腹に刃を向けた有吾を、恐ろしいと感じたのだ。
 あの晩、有吾はとよの腹に刀を当てると、すうっと目を閉じた。
 目を閉じ、なにかに耳を傾けるような仕草をしながら少しずつ刀の位置や傾きを変えていく、そしてピタリとその動きが止まる。
「行きます」
 一言六助とみつに声をかけたと思った途端に、刀は真っ直ぐにとよの体内へ飲み込まれていった。
 その時だ。
 有吾の体が真っ黒な炎となって燃え上がるのを、六助が見たのは。
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