帰趨
井沢村のとよの家では、父親と小さな妹が有吾たち一行を出迎えてくれた。
とよがなにか恐ろしい事故、もしくは事件にでも巻き込まれたのではないかと考えていた父親は、六助に背負われたとよの姿を見ると「おとよじゃないか!」と、大声を上げて駆け寄ってきた。
もしかしたらもう二度と会えないのではないか、遺体すらみつからないのではないかと半ば諦めの境地であったらしく「よかった、いやあ、よかった」と、真っ先に口をついて出たのは、安堵の言葉だった。
とよの妹のひさは、ぐったりとした姉の姿を目にした途端、わんわんと泣きながら縋り付いてきた。
それを長女のみつがなだめる。
「ありがとうございます……」
こんな状態のおとよを連れ帰ったらなんとなじられるかと思案していた有吾であったが、その心配はまったくの杞憂と終わった。
みつが一緒にいてくれたということも大きいかもしれない。
「末の妹のひさが、とよ姉ちゃんは江戸に行くって言ってたと……。だから、もし無事ならみつと会ってるかもしれねえし……。帰ってくるときゃあ、一緒かもしれねえから……。でも、なんの連絡もねえんで……おらはもう……」
姉妹の父は、ひょろりと細くて少し腰の曲がった、温厚そうな人物だった。元気な娘たちとは違い、うつむきがちに、語尾が口の中に消えていくような話し方をする。好意的に言えば優しそうとなるのかもしれないが、その反面気の弱そうな人物にも見えた。
「いったい娘はどうしちまったんで……」
とよの身体には傷一つない。苦しげな呼吸をしているわけでもない。すやすやと安らかに寝ているように見えるが、声をかけても揺すっても決して目を覚まさない。
居間の囲炉裏のすぐ脇に床をとってもらい、とよをそこに寝かせる頃には、幼いひさも姉の様子がおかしいと感じたらしい。
「とよねえちゃん……とよねえちゃん?」
少し前までの大泣きを引っ込めて、訝しむような小さな声で呼びかけ、とよの腕を揺すっている。
「有吾様、六助さん、父へは私が説明します。少しの間ひさの面倒を見ていてくれませんか?」
みつは言うが早いか「はい!」とひさを抱き上げて、有吾の腕の中へと押し付けてきた。
「ひさ、あんちゃんたちに、外で遊んでもらってきな!」
そして、あっという間に三人は家の外へと出されてしまった。
そういえば、この家に着いてからというもの、有吾もろくすけも三姉妹の母らしき人物を見ていない。
「……」
家からつまみ出された三人は、しばし無言でお互いを見つめ合っていたが、真っ先に六助が口を開いた。
「おっかさんは留守なのかい?」と、ひさにたずねる。
口元を引き結び眉尻を上げ、目には涙をためて今日はじめて出会った見知らぬ男を見上げたひさだったが、当の六助がやんわりと笑いかけると、それまでの仁王像のような口元が緩み、頬を桃色に染めた。
どうやら六助の笑顔には、年端のゆかぬ子どもまで懐柔する威力があるらしい。
「おっかあはいないよ。おれが生まれてすぐ死んだんだって。けど、寂しくなんかないよ! おれにはみつねえちゃんととよねえちゃんがいるもん」
むきになるひさに、有吾の胸はちくりと傷んだ。
「そうかそうか。みつねえちゃんもとよねえちゃんも、しっかりものだし、やさしいものなあ」
六助は腰をかがめてひさの頭をぽんぽんと優しく叩いた。
さっきまで涙を浮かべていたひさが、満面の笑みでうなずいた。
「さて」
家の前を見回すと、のどかな田園風景げ広がっている。このあたりの農作物は、江戸にも出荷されている。
「おじさんは六助ってんだ。よろしくな」
「うん。おれはひさ。おじちゃんは?」
ひさの目が、こんどはじっと有吾を見上げていた。
「はい、私は山瀬有吾といいます」
自分の大きな体が小さな子どもに威圧感を与えぬように、有吾は腰をかがめ、なるべく小さくなって笑いかけた。
ひさの反応は「ふうん」というそっけないものだったが、泣き出されなかったので、努力は報われたのかもしれない。
「それじゃあね、おじちゃんたちはひさと一緒に畑のお仕事をするんだよ」
というと、ひさはずんずんと目の前の畑へ入っていく。
有吾と六助は、傾き始めてもまだかんかんと照りつける太陽の中へ、紅葉のようなぷくぷくとした手に引きずられて出ていった。
ひさに命じられるまま、もう実らなくなった苗を引き抜いたり、とうむぎやきゅうりや茄子といった夏野菜の収穫の手伝いをしていると、昨日までの怪異など、夢の中の出来事ではなかったのかと思えてくる。
しかし、世界が緋色に変化しようとする頃、戸口の前に静かに立つみつの姿を見つけると、有吾は幻と現実が反転したような心持になった。
土の匂い、太陽の日差し、額を流れる汗といった、今まで現実だと思っていたものが遠のいていき、影と闇と幻影が、大きな帳で天を覆っていく。
「みつねえちゃーん」
ひさがみつの膝にすがる。
「晩御飯にするから、汗を流しておいで」
「はぁい」
ひさが家の中へ入ってしまうと、みつは二人に頭を下げた。
家の中から腰を曲げた父親も出てくる。
「あらかた、みつから話は……。とよの様子を見てると……。おらにはよくわからねえんだが……信用するほかぁねえと……」
父親はぼそぼそとした口調で言いながら、有吾と六助にぺこぺこと頭を下げた。
「おとっつぁんは、優しくて気が弱い質なんです。もし、とよのことで手伝うことがあるなら私が」
みつは自分自身の胸をとんと叩いた。
「その前に、お二人とも汗を流してご飯にしましょう。うっかりしてたけど、有吾さんお腹が空いてたんですよね」
「いえ、おひさちゃんに許して頂いて、庭の野菜などを頂いてしまいました」
「まあ、よかった。遠慮せずにどうぞ。おとっつぁん、ひさをお願い」
みつに促されて、父親は今一度有吾たちに二、三度頭を下げると、家の中へと戻っていった。
父を横目で見送ったみつは顔を上げ、すっと姿勢をただす。
「有吾様、妹のひさには、とよの腹を切るところを見られたくはありません。おひさが寝てしまってからで、よろしいでしょうか」
真っ直ぐに見つめる瞳に向かって、有吾はゆっくりとうなずいた。
◇
その日は、文月二十三日。処暑である。
暦とは裏腹に、蒸し暑い一日だった。
それでも夜になると、そよぐ風には秋の気配が混じっていた。
有吾、六助と打ち解けたひさは、興奮したためかなかなか寝付けないようだった。寝たと思ってもちょっとした物音で目を覚ましてしまい、すっかり寝入るころにはもう下弦の月が顔を出し、文月二十四日がはじまろうとしていた。
「寝ましたか?」
寝間であるある奥の座敷の様子を見てきたみつに六助が声をかけた。
「ええ、すっかり寝てしまったみたいですね。おとっつぁんが、見てくれてます」
二人の会話を耳にしながら、有吾は刀の手入れをしていた。
「ところで、おみつちゃんたちのおっかさんは……」
みつたち姉妹の母親については、有吾も気になっていたことであったので、作業の手は止めずに耳をそばだてたが、みつの答えはなかなか聞こえない。
「いや、言い辛かったらいいんで! 余計なことを聞いちまった!」
「いえ、そうじゃないんです! ええと、何処から話したものか、悩んでしまって」
みつの慌てたような声が、六助の声に重なっていた。
「ええと……おっかさんはひさを産んでしばらくした頃、突然いなくなってしまったので。おっかさんは綺麗で、働き者で、とても優しい人でした。集落のみんなも一生懸命探してくれましたが、まるで神隠しにあったみたいに、いなくなってしまったんです。もともとおっかさんはこのあたりの出身の人ではないらしく、身よりもなかったので、あれは妖しではなかったかなんてその後噂になって……。私達も妖しの子ではないかという、変な噂になったりして……それで、そんな家に来てくれる人もいなかったものだから、おとっつぁんは後添いをもらうこともせずに、男で一つで私達を育ててくれたんです。」
ここまで一気に話し終えると、みつの言葉は途切れた。
「さあ、私たちの身の上話で夜が明けちゃいますよ」
言葉をかわしていた二人の視線は、自然と有吾に向いているようだ。
有吾はちょうど茎《なかご》を柄に収め、目釘を打ったところだった。
万が一のためにと、荷物の中に油紙に包んで打ち粉やら拭い紙といった刀の手入れに必要なものを用意していたのが、役に立った。
刀にこだわりはない。
山瀬家には、名刀と言われる刀があり、かつての有吾はそれを誇りにもしていた。
しかし、いくら業物だったとしても、人と切り結べば刃こぼれもするし錆もする。銘の打ってあるような美しい刀――あれは、実戦向きではないのだと思い知るのに時間はかからなかった。それ以来刀に対する執着はなくなった。よほどの鈍らでなければ、新しいもののほうがよい。血に曇れば捨てる。一本で何人とも切り結べるような刀があるとしたら、それこそ妖刀だ。
有吾にとっての刀は、羅刹であるのかもしれない。
どんな刀を手にしても、有吾が振るえば、そこには羅刹が宿る。
しかし、とよの腹を切るのだ。
少しでも良い状態の刀を使いたい。
――羅刹。
心のなかで呼びかければ、有吾の前に赤い巨躯が現れる。
上半身は裸であるが、下半身はいつものボロ布ではなく、やけにゆったりとした、白い股引きのようなものを身に着けていた。たっぷりとした布は柔らかに波打っており、羅刹の大きな体に似合っている。
額から突き出した角は歪に天を向き、黒い髪がごわごわと広がっていた。
六助とみつの二人には見えていないのだろう。二人の様子に変化はない。
有吾は腕を真っ直ぐに伸ばし、なるべく身体から離して、刀全体をじっくりと眺めた。
昨夜、蜘蛛の化けものと激しく切り結ぶようなことがなかったことが幸いして、刃こぼれもあまりしていない。
「では、そろそろはじめましょうか」
有吾が言うと、部屋の中には重苦しい緊張感が瞬く間に漲っていった。
土間の脇の囲炉裏のある板の間に布団を敷いて、とよは寝かされていた。黒く煤けた壁や天井に、行灯の灯りが三人の影を映す。
寝ているとよの脇には、みつが家中からかき集めてきた手ぬぐいやら、たらいになみなみと注がれた水などが用意されている。血を拭ったり、止血をするために必要なのではと、考えたらしい。今の有吾はとよの腹を切ることでいっぱいいっぱいなので、言わずとも動いてくれるみつの存在はありがたかった。
『有吾』
羅刹の声が聞こえた。目を上げると、腕組みをした羅刹が、白目のない真っ黒な瞳で有吾を見下ろしていた。
――なんでしょう。
『吾が斬ってやろうか?』
――あなたが?
『ああ、お前の身体を吾に明け渡せばいいのだ。お前が切るなら吾は刀に宿り、お前に必要なことを助言してやることができるだろうが、切るのはお前自身だぞ。お前、それを一生背負えるのか?』
声は淡々としていたが黒い羅刹の瞳が、わずかに光ったように見えた。口元には相変わらずにやにやとした笑みが浮かんでいる。
もしうまくいかなかったとき、お前はとよ殺しの事実を背負ってこれから生きていけるのかと問う羅刹は、有吾の逡巡を楽しんでいるのだろうか。
それとも――
「で? だんな、あっしたちはどうしたらいいんで?」
羅刹の瞳に引き込まれてしまいそうな感覚を断ち切ったのは、六助の声だった。
有吾ははっと息を吸い込む。
自分自身を落ち着けようと深い呼吸を数度繰り返した。
「ではおみつさん。まずは、とよの着物を脱がせてください」
神妙な表情でみつはうなずいた。
今のとよはいくら大声で話しかけようが、頬を張ろうが目を開けることはない。
それでもみつの指先は、静かにとよに触れた。ゆっくりと、みつが妹の着物を脱がし終えると今度はとよが舌を噛んでしまわないようにと、猿轡をかませる。
「私がとよに馬乗りになり、足を抑えますので、六助さんとおみつさんは、右と左の腕と肩を抑えておいてください。暴れて、おかしなところを傷つけてしまっては、おとよの命に関わります。しっかりとお願いします」
二人は神妙な顔でとよの右側と左側に別れた。
ごくりと生唾を飲み込む音がする。
「御免」
一言発すると、有吾はとよの腿のあたりへ馬乗りになり、腹の底に気合を込めた。
「羅刹。助言を――」
有吾は刀の切っ先をとよの腹へと向けた。
とよがなにか恐ろしい事故、もしくは事件にでも巻き込まれたのではないかと考えていた父親は、六助に背負われたとよの姿を見ると「おとよじゃないか!」と、大声を上げて駆け寄ってきた。
もしかしたらもう二度と会えないのではないか、遺体すらみつからないのではないかと半ば諦めの境地であったらしく「よかった、いやあ、よかった」と、真っ先に口をついて出たのは、安堵の言葉だった。
とよの妹のひさは、ぐったりとした姉の姿を目にした途端、わんわんと泣きながら縋り付いてきた。
それを長女のみつがなだめる。
「ありがとうございます……」
こんな状態のおとよを連れ帰ったらなんとなじられるかと思案していた有吾であったが、その心配はまったくの杞憂と終わった。
みつが一緒にいてくれたということも大きいかもしれない。
「末の妹のひさが、とよ姉ちゃんは江戸に行くって言ってたと……。だから、もし無事ならみつと会ってるかもしれねえし……。帰ってくるときゃあ、一緒かもしれねえから……。でも、なんの連絡もねえんで……おらはもう……」
姉妹の父は、ひょろりと細くて少し腰の曲がった、温厚そうな人物だった。元気な娘たちとは違い、うつむきがちに、語尾が口の中に消えていくような話し方をする。好意的に言えば優しそうとなるのかもしれないが、その反面気の弱そうな人物にも見えた。
「いったい娘はどうしちまったんで……」
とよの身体には傷一つない。苦しげな呼吸をしているわけでもない。すやすやと安らかに寝ているように見えるが、声をかけても揺すっても決して目を覚まさない。
居間の囲炉裏のすぐ脇に床をとってもらい、とよをそこに寝かせる頃には、幼いひさも姉の様子がおかしいと感じたらしい。
「とよねえちゃん……とよねえちゃん?」
少し前までの大泣きを引っ込めて、訝しむような小さな声で呼びかけ、とよの腕を揺すっている。
「有吾様、六助さん、父へは私が説明します。少しの間ひさの面倒を見ていてくれませんか?」
みつは言うが早いか「はい!」とひさを抱き上げて、有吾の腕の中へと押し付けてきた。
「ひさ、あんちゃんたちに、外で遊んでもらってきな!」
そして、あっという間に三人は家の外へと出されてしまった。
そういえば、この家に着いてからというもの、有吾もろくすけも三姉妹の母らしき人物を見ていない。
「……」
家からつまみ出された三人は、しばし無言でお互いを見つめ合っていたが、真っ先に六助が口を開いた。
「おっかさんは留守なのかい?」と、ひさにたずねる。
口元を引き結び眉尻を上げ、目には涙をためて今日はじめて出会った見知らぬ男を見上げたひさだったが、当の六助がやんわりと笑いかけると、それまでの仁王像のような口元が緩み、頬を桃色に染めた。
どうやら六助の笑顔には、年端のゆかぬ子どもまで懐柔する威力があるらしい。
「おっかあはいないよ。おれが生まれてすぐ死んだんだって。けど、寂しくなんかないよ! おれにはみつねえちゃんととよねえちゃんがいるもん」
むきになるひさに、有吾の胸はちくりと傷んだ。
「そうかそうか。みつねえちゃんもとよねえちゃんも、しっかりものだし、やさしいものなあ」
六助は腰をかがめてひさの頭をぽんぽんと優しく叩いた。
さっきまで涙を浮かべていたひさが、満面の笑みでうなずいた。
「さて」
家の前を見回すと、のどかな田園風景げ広がっている。このあたりの農作物は、江戸にも出荷されている。
「おじさんは六助ってんだ。よろしくな」
「うん。おれはひさ。おじちゃんは?」
ひさの目が、こんどはじっと有吾を見上げていた。
「はい、私は山瀬有吾といいます」
自分の大きな体が小さな子どもに威圧感を与えぬように、有吾は腰をかがめ、なるべく小さくなって笑いかけた。
ひさの反応は「ふうん」というそっけないものだったが、泣き出されなかったので、努力は報われたのかもしれない。
「それじゃあね、おじちゃんたちはひさと一緒に畑のお仕事をするんだよ」
というと、ひさはずんずんと目の前の畑へ入っていく。
有吾と六助は、傾き始めてもまだかんかんと照りつける太陽の中へ、紅葉のようなぷくぷくとした手に引きずられて出ていった。
ひさに命じられるまま、もう実らなくなった苗を引き抜いたり、とうむぎやきゅうりや茄子といった夏野菜の収穫の手伝いをしていると、昨日までの怪異など、夢の中の出来事ではなかったのかと思えてくる。
しかし、世界が緋色に変化しようとする頃、戸口の前に静かに立つみつの姿を見つけると、有吾は幻と現実が反転したような心持になった。
土の匂い、太陽の日差し、額を流れる汗といった、今まで現実だと思っていたものが遠のいていき、影と闇と幻影が、大きな帳で天を覆っていく。
「みつねえちゃーん」
ひさがみつの膝にすがる。
「晩御飯にするから、汗を流しておいで」
「はぁい」
ひさが家の中へ入ってしまうと、みつは二人に頭を下げた。
家の中から腰を曲げた父親も出てくる。
「あらかた、みつから話は……。とよの様子を見てると……。おらにはよくわからねえんだが……信用するほかぁねえと……」
父親はぼそぼそとした口調で言いながら、有吾と六助にぺこぺこと頭を下げた。
「おとっつぁんは、優しくて気が弱い質なんです。もし、とよのことで手伝うことがあるなら私が」
みつは自分自身の胸をとんと叩いた。
「その前に、お二人とも汗を流してご飯にしましょう。うっかりしてたけど、有吾さんお腹が空いてたんですよね」
「いえ、おひさちゃんに許して頂いて、庭の野菜などを頂いてしまいました」
「まあ、よかった。遠慮せずにどうぞ。おとっつぁん、ひさをお願い」
みつに促されて、父親は今一度有吾たちに二、三度頭を下げると、家の中へと戻っていった。
父を横目で見送ったみつは顔を上げ、すっと姿勢をただす。
「有吾様、妹のひさには、とよの腹を切るところを見られたくはありません。おひさが寝てしまってからで、よろしいでしょうか」
真っ直ぐに見つめる瞳に向かって、有吾はゆっくりとうなずいた。
◇
その日は、文月二十三日。処暑である。
暦とは裏腹に、蒸し暑い一日だった。
それでも夜になると、そよぐ風には秋の気配が混じっていた。
有吾、六助と打ち解けたひさは、興奮したためかなかなか寝付けないようだった。寝たと思ってもちょっとした物音で目を覚ましてしまい、すっかり寝入るころにはもう下弦の月が顔を出し、文月二十四日がはじまろうとしていた。
「寝ましたか?」
寝間であるある奥の座敷の様子を見てきたみつに六助が声をかけた。
「ええ、すっかり寝てしまったみたいですね。おとっつぁんが、見てくれてます」
二人の会話を耳にしながら、有吾は刀の手入れをしていた。
「ところで、おみつちゃんたちのおっかさんは……」
みつたち姉妹の母親については、有吾も気になっていたことであったので、作業の手は止めずに耳をそばだてたが、みつの答えはなかなか聞こえない。
「いや、言い辛かったらいいんで! 余計なことを聞いちまった!」
「いえ、そうじゃないんです! ええと、何処から話したものか、悩んでしまって」
みつの慌てたような声が、六助の声に重なっていた。
「ええと……おっかさんはひさを産んでしばらくした頃、突然いなくなってしまったので。おっかさんは綺麗で、働き者で、とても優しい人でした。集落のみんなも一生懸命探してくれましたが、まるで神隠しにあったみたいに、いなくなってしまったんです。もともとおっかさんはこのあたりの出身の人ではないらしく、身よりもなかったので、あれは妖しではなかったかなんてその後噂になって……。私達も妖しの子ではないかという、変な噂になったりして……それで、そんな家に来てくれる人もいなかったものだから、おとっつぁんは後添いをもらうこともせずに、男で一つで私達を育ててくれたんです。」
ここまで一気に話し終えると、みつの言葉は途切れた。
「さあ、私たちの身の上話で夜が明けちゃいますよ」
言葉をかわしていた二人の視線は、自然と有吾に向いているようだ。
有吾はちょうど茎《なかご》を柄に収め、目釘を打ったところだった。
万が一のためにと、荷物の中に油紙に包んで打ち粉やら拭い紙といった刀の手入れに必要なものを用意していたのが、役に立った。
刀にこだわりはない。
山瀬家には、名刀と言われる刀があり、かつての有吾はそれを誇りにもしていた。
しかし、いくら業物だったとしても、人と切り結べば刃こぼれもするし錆もする。銘の打ってあるような美しい刀――あれは、実戦向きではないのだと思い知るのに時間はかからなかった。それ以来刀に対する執着はなくなった。よほどの鈍らでなければ、新しいもののほうがよい。血に曇れば捨てる。一本で何人とも切り結べるような刀があるとしたら、それこそ妖刀だ。
有吾にとっての刀は、羅刹であるのかもしれない。
どんな刀を手にしても、有吾が振るえば、そこには羅刹が宿る。
しかし、とよの腹を切るのだ。
少しでも良い状態の刀を使いたい。
――羅刹。
心のなかで呼びかければ、有吾の前に赤い巨躯が現れる。
上半身は裸であるが、下半身はいつものボロ布ではなく、やけにゆったりとした、白い股引きのようなものを身に着けていた。たっぷりとした布は柔らかに波打っており、羅刹の大きな体に似合っている。
額から突き出した角は歪に天を向き、黒い髪がごわごわと広がっていた。
六助とみつの二人には見えていないのだろう。二人の様子に変化はない。
有吾は腕を真っ直ぐに伸ばし、なるべく身体から離して、刀全体をじっくりと眺めた。
昨夜、蜘蛛の化けものと激しく切り結ぶようなことがなかったことが幸いして、刃こぼれもあまりしていない。
「では、そろそろはじめましょうか」
有吾が言うと、部屋の中には重苦しい緊張感が瞬く間に漲っていった。
土間の脇の囲炉裏のある板の間に布団を敷いて、とよは寝かされていた。黒く煤けた壁や天井に、行灯の灯りが三人の影を映す。
寝ているとよの脇には、みつが家中からかき集めてきた手ぬぐいやら、たらいになみなみと注がれた水などが用意されている。血を拭ったり、止血をするために必要なのではと、考えたらしい。今の有吾はとよの腹を切ることでいっぱいいっぱいなので、言わずとも動いてくれるみつの存在はありがたかった。
『有吾』
羅刹の声が聞こえた。目を上げると、腕組みをした羅刹が、白目のない真っ黒な瞳で有吾を見下ろしていた。
――なんでしょう。
『吾が斬ってやろうか?』
――あなたが?
『ああ、お前の身体を吾に明け渡せばいいのだ。お前が切るなら吾は刀に宿り、お前に必要なことを助言してやることができるだろうが、切るのはお前自身だぞ。お前、それを一生背負えるのか?』
声は淡々としていたが黒い羅刹の瞳が、わずかに光ったように見えた。口元には相変わらずにやにやとした笑みが浮かんでいる。
もしうまくいかなかったとき、お前はとよ殺しの事実を背負ってこれから生きていけるのかと問う羅刹は、有吾の逡巡を楽しんでいるのだろうか。
それとも――
「で? だんな、あっしたちはどうしたらいいんで?」
羅刹の瞳に引き込まれてしまいそうな感覚を断ち切ったのは、六助の声だった。
有吾ははっと息を吸い込む。
自分自身を落ち着けようと深い呼吸を数度繰り返した。
「ではおみつさん。まずは、とよの着物を脱がせてください」
神妙な表情でみつはうなずいた。
今のとよはいくら大声で話しかけようが、頬を張ろうが目を開けることはない。
それでもみつの指先は、静かにとよに触れた。ゆっくりと、みつが妹の着物を脱がし終えると今度はとよが舌を噛んでしまわないようにと、猿轡をかませる。
「私がとよに馬乗りになり、足を抑えますので、六助さんとおみつさんは、右と左の腕と肩を抑えておいてください。暴れて、おかしなところを傷つけてしまっては、おとよの命に関わります。しっかりとお願いします」
二人は神妙な顔でとよの右側と左側に別れた。
ごくりと生唾を飲み込む音がする。
「御免」
一言発すると、有吾はとよの腿のあたりへ馬乗りになり、腹の底に気合を込めた。
「羅刹。助言を――」
有吾は刀の切っ先をとよの腹へと向けた。