余燼
「どうしたもこうしたもありませんよ、山瀬の旦那ぁ! ちょ! ちょいと旦那、笑ってる場合じゃあ、ありませんぜ!」
つかつかと近づいてきながら、堰を切ったようにまくしたてる六助の口調の中にも、安堵が混じっているようだった。
「旦那はなかなか帰って来ねえし、おとよちゃんはいなくなっちまうし、おみつちゃんは在に帰ることになったって言うし……って、旦那、すごい怪我じゃあ……」
「……おとよ!」
六助と一緒にいた娘が声を上げた。
ようやく有吾の腕の中にいるとよに気づいたらしい。六助は口ごもり、娘はとよを抱く有吾へと走り寄ってきた。
「とよじゃないの! どうしたの?」
跪いた娘は、ぐったりとしたとよの頬をさすったり、体を触ったりしている。
おそらくこの娘がとよの姉のみつなのだろう。
くりっとした目が似ている。
みつは有吾の腕からとよをもぎ取ると、そのくりっとした目を吊り上げて有吾と六助を交互に睨んだ。
「あなたたち……誰なんですか? とよとはどういう関係で? あたしのことも、知ってるんですか? 六助さん、あたしのこと、もしかして最初から騙してたの!」
みつの凛とした大きな声が空きっ腹に響いて、有吾はめまいを覚えた。
「おみつちゃん。説明する。ちゃんと説明するよ。だから少し落ち着いて。あっしたちはおとよちゃんに頼まれて……おわあ! 旦那!」
混乱から立ち直ったらしい六助がみつをなだめにかかったが、ばったりと仰向けに倒れた有吾に驚きの声を上げる。
「旦那、旦那、どうしたんで? 死にゃあしませんよね? しっかりしてくださいよ。化けもののやつは倒したんで?」
六助に揺さぶられ、ますます気が遠くなる。
みつはとよを撫でたりさすったりして、あちこち確認していたが、とりあえず大きな傷もなく、息をしていることを確認したらしい。
「ちょっと、六助さん、落ち着いて」
そう声をかけたのはみつだった。六助よりもよほど早くに落ち着きを取り戻している。
「まず一つ聞かせて。六助さんたちは、とよを知ってるの?」
「知ってるも何も、山瀬の旦那はおとよちゃんに頼まれて、化けもの退治に出かけたんで……」
そう答えながら六助はあたりを周囲に視線を走らせた。化けものを警戒しているのかもしれない。
「化けもの?」
「……もう、いない」
「退治しなすったんで!?」
有吾のつぶやきに、六助が飛びついた。
声をだすのも億劫で、有吾はわずかに顎を引いた。
ふう、というみつのため息が聞こえる。
「それより山瀬様? どうしたの? 具合が悪いの?」
とよを抱いたまま、みつは首を伸ばして有吾を見下ろしていた。その瞳から、もう怒りの色は消えている。
「腹が……減りました」
有吾の言葉を証明してくれるかのように、ぐるるるると、腹の虫が盛大に鳴いた。腹が減っているのだと言葉に出した途端に、空腹感はますます激しくなる。
「まあ!」
元来優しい娘なのだろう。
もしくは、有吾のあまりにも情けない姿に同情したのかもしれない。
みつはそっととよを大岩の上に横たえると、背負っていた風呂敷包みを開き始めた。
「持ってきてて、よかった」
ごそごそと荷物を弄っていたみつが、はい、と有吾の前に手を差し出した。手のひらには、竹皮の上に白い握り飯が乗っていた。沢庵までついている。
「かたじけない」
有吾はむくりと起き上がると、飲み込むようにして、握り飯を腹の中へと詰め込んだ。
あまりに急いで飲み込んだので、げほげほとむせ返り、慌てて沢へと向う。飯を吹き出さないように必死で唇を引き結び、少し落ち着いたところで沢の水を手ですくった。喉につかえた米粒を大量の水で流し込むと、なんとか一息つくことができた。
腹いっぱいには遠く及ばないが、それでも体の奥から力が湧いてくるような気がする。
有吾が落ち着くと、三人はとよを寝かせてある大岩の周囲に腰を下ろした。傍らに立つ巨木の葉陰が、網の目のような影を落としてくれている。
「で? 山瀬の旦那。あっしにはどうして江戸にいたおとよちゃんがこんなところで旦那に背負われているのか、見当が付きゃしないんですがね」
せっつく六助に、有吾はこれまでの出来事を語って聞かせた。
藪の中で見つけた一軒の荒屋に泊めてもらったこと。その家の女主人がとよの言っていた化けものであり、蜘蛛の妖であったこと。そして化けものに囚われていたとよの腹の中に、卵が産み付けられていることなどを二人に伝えた。
話がややこしくなるだろうと、羅刹の存在や、せんやみやぎの話はしていない。
話している自分自身ですら、荒唐無稽だと感じる話だ。六助はともかくみつが信じてくれるかどうかは甚だ疑問だったが、みつは反論することもなく、ただ黙って有吾の話を聞いてくれていた。
六助の方は青い顔をして有吾の話に聞き入っていたが、妖の卵の話になると「ひいっ」と小さな声を上げた。この暑さの中だというのに、肩をすぼめて腕をさすっている。
「ちょっと待ってくださいよ? おとよ坊は妖に捕まって、ずっと鶏小屋の中にいたわけですよね? え?……じゃああっしと数日間一緒に暮らしていたおとよ坊は、一体誰なんで?」
「六助さんは、もうわかってると思っていましたが」
「生……霊……」
六助はとよを振り返る。
「怖い、ですか?」
有吾の問にしばらくの間をおいて、六助は「いいえ」と答えた。
その後六助の方でも、自分がどうしてみつの後を追って旅に出ることになったのかを、とよが姿を消したところから順を追って話してくれた。
有吾にとって目新しいこ情報はなかったが、自分がみやぎやせんから聞かされた話をもう一度頭の中で整理することができた。
「では、とよを助けるには、腹に刀を入れるしかないと?」
話をあらかた聞き終えたみつが初めて口を開く。
「残念ながら、それ以上の策を思いつかないのです……。ところで、おみつさんは私や六助さんの話を、信じてくれるのですか?」
有吾の疑問に、みつは妹の様子に目をやりながら「はい」と答えた。
「信じます。おとよは、小さい頃から不思議な子だったんです。ですから私も、おとよの不思議な話には驚いたりしません」
細い記憶をたぐるように、みつは眉間にシワを寄せると、あっちに行ったりこっちに行ったりしながらも、とよの起こした不思議な話を二人に教えてくれた。その間にもとよの腕をさすったりしながら、優しい眼差しで妹を見つめている。
みつの話してくれた不思議な話には、そうたいした話があったわけではなかった。
例えばちょっとした失せ物をおとよが探し出したという話や、親戚の死を、その知らせが届くより先に告げたといった、おかみさんたちの井戸端会議でよく聞く類の、細々とした不思議の数々だ。それでも、噂でただ聞くのと、自分の妹が実際に不思議を目の前で見せてくれるのとでは、大きな違いがあるだろう。
「だから私には、山瀬様のおっしゃることが嘘ではないと思います。それに、私が藪入りの日に里帰りできなかったことも間違いありませんし。私があの日に帰れないように引き止めていたのも、きっとそういうちょっとした不思議じゃないかと思うんです。だって私、熱なんか小さい頃以来出したことないんだもの」
みつは眠るように横たわるとよから視線を外すと、有吾に向き直った。
「お願いします。とよを、助けてください」
そして、強い眼差しで有吾を見上げる。
「もちろんです。助けたいと思っています。ただ、助けられるという確証はありません。私がとよの腹に刀を入れることで、卵を取り出すことはできると思いますが、そのことでとよの死を早めてしまうかもしれない……」
そのことが、恐ろしい。
「なぁに言ってるんですか」
六助が有吾の逡巡を遮った。
「もし、卵を取り出さなかったらとよは確実に死ぬんですよ? しかも、蜘蛛の子に喰われるってんでしょう? そんなの、絶対嫌に決まってまさぁ。それに、生きているって言っても、このまま話すことも、笑いあうことも、喧嘩したりもできねえってんなら、そんなもん、死んでるのと変わりねえじゃありませんか!」
言い終わるとすっくと立ち上がる。
「さあ、山瀬の旦那。あっしにもできることがあるなら手伝いましょう」
と、腕まくりをしている。
「そう、そうね。山瀬様。改めてお願いします。とよを助けてください」
みつがもう一度手をついて頭を下げた。
有吾は、そっととよの額に手のひらを乗せてみた。
少しひんやりとしたとよの体温が伝わってくる。
まだ、生きている。
自分の剣で、とよを生かすことができるだろうか。
何人もの人や妖を、屠ってきた剣である。
そんなことが……。
「行きましょう」
有吾は意を決した。
「おみつさん、家まで案内してください」
「よっしゃ、おとよちゃんはあっしがおぶっていきますよ」
話が決まると、三人は涼やかな小川の岸を後にした。
つかつかと近づいてきながら、堰を切ったようにまくしたてる六助の口調の中にも、安堵が混じっているようだった。
「旦那はなかなか帰って来ねえし、おとよちゃんはいなくなっちまうし、おみつちゃんは在に帰ることになったって言うし……って、旦那、すごい怪我じゃあ……」
「……おとよ!」
六助と一緒にいた娘が声を上げた。
ようやく有吾の腕の中にいるとよに気づいたらしい。六助は口ごもり、娘はとよを抱く有吾へと走り寄ってきた。
「とよじゃないの! どうしたの?」
跪いた娘は、ぐったりとしたとよの頬をさすったり、体を触ったりしている。
おそらくこの娘がとよの姉のみつなのだろう。
くりっとした目が似ている。
みつは有吾の腕からとよをもぎ取ると、そのくりっとした目を吊り上げて有吾と六助を交互に睨んだ。
「あなたたち……誰なんですか? とよとはどういう関係で? あたしのことも、知ってるんですか? 六助さん、あたしのこと、もしかして最初から騙してたの!」
みつの凛とした大きな声が空きっ腹に響いて、有吾はめまいを覚えた。
「おみつちゃん。説明する。ちゃんと説明するよ。だから少し落ち着いて。あっしたちはおとよちゃんに頼まれて……おわあ! 旦那!」
混乱から立ち直ったらしい六助がみつをなだめにかかったが、ばったりと仰向けに倒れた有吾に驚きの声を上げる。
「旦那、旦那、どうしたんで? 死にゃあしませんよね? しっかりしてくださいよ。化けもののやつは倒したんで?」
六助に揺さぶられ、ますます気が遠くなる。
みつはとよを撫でたりさすったりして、あちこち確認していたが、とりあえず大きな傷もなく、息をしていることを確認したらしい。
「ちょっと、六助さん、落ち着いて」
そう声をかけたのはみつだった。六助よりもよほど早くに落ち着きを取り戻している。
「まず一つ聞かせて。六助さんたちは、とよを知ってるの?」
「知ってるも何も、山瀬の旦那はおとよちゃんに頼まれて、化けもの退治に出かけたんで……」
そう答えながら六助はあたりを周囲に視線を走らせた。化けものを警戒しているのかもしれない。
「化けもの?」
「……もう、いない」
「退治しなすったんで!?」
有吾のつぶやきに、六助が飛びついた。
声をだすのも億劫で、有吾はわずかに顎を引いた。
ふう、というみつのため息が聞こえる。
「それより山瀬様? どうしたの? 具合が悪いの?」
とよを抱いたまま、みつは首を伸ばして有吾を見下ろしていた。その瞳から、もう怒りの色は消えている。
「腹が……減りました」
有吾の言葉を証明してくれるかのように、ぐるるるると、腹の虫が盛大に鳴いた。腹が減っているのだと言葉に出した途端に、空腹感はますます激しくなる。
「まあ!」
元来優しい娘なのだろう。
もしくは、有吾のあまりにも情けない姿に同情したのかもしれない。
みつはそっととよを大岩の上に横たえると、背負っていた風呂敷包みを開き始めた。
「持ってきてて、よかった」
ごそごそと荷物を弄っていたみつが、はい、と有吾の前に手を差し出した。手のひらには、竹皮の上に白い握り飯が乗っていた。沢庵までついている。
「かたじけない」
有吾はむくりと起き上がると、飲み込むようにして、握り飯を腹の中へと詰め込んだ。
あまりに急いで飲み込んだので、げほげほとむせ返り、慌てて沢へと向う。飯を吹き出さないように必死で唇を引き結び、少し落ち着いたところで沢の水を手ですくった。喉につかえた米粒を大量の水で流し込むと、なんとか一息つくことができた。
腹いっぱいには遠く及ばないが、それでも体の奥から力が湧いてくるような気がする。
有吾が落ち着くと、三人はとよを寝かせてある大岩の周囲に腰を下ろした。傍らに立つ巨木の葉陰が、網の目のような影を落としてくれている。
「で? 山瀬の旦那。あっしにはどうして江戸にいたおとよちゃんがこんなところで旦那に背負われているのか、見当が付きゃしないんですがね」
せっつく六助に、有吾はこれまでの出来事を語って聞かせた。
藪の中で見つけた一軒の荒屋に泊めてもらったこと。その家の女主人がとよの言っていた化けものであり、蜘蛛の妖であったこと。そして化けものに囚われていたとよの腹の中に、卵が産み付けられていることなどを二人に伝えた。
話がややこしくなるだろうと、羅刹の存在や、せんやみやぎの話はしていない。
話している自分自身ですら、荒唐無稽だと感じる話だ。六助はともかくみつが信じてくれるかどうかは甚だ疑問だったが、みつは反論することもなく、ただ黙って有吾の話を聞いてくれていた。
六助の方は青い顔をして有吾の話に聞き入っていたが、妖の卵の話になると「ひいっ」と小さな声を上げた。この暑さの中だというのに、肩をすぼめて腕をさすっている。
「ちょっと待ってくださいよ? おとよ坊は妖に捕まって、ずっと鶏小屋の中にいたわけですよね? え?……じゃああっしと数日間一緒に暮らしていたおとよ坊は、一体誰なんで?」
「六助さんは、もうわかってると思っていましたが」
「生……霊……」
六助はとよを振り返る。
「怖い、ですか?」
有吾の問にしばらくの間をおいて、六助は「いいえ」と答えた。
その後六助の方でも、自分がどうしてみつの後を追って旅に出ることになったのかを、とよが姿を消したところから順を追って話してくれた。
有吾にとって目新しいこ情報はなかったが、自分がみやぎやせんから聞かされた話をもう一度頭の中で整理することができた。
「では、とよを助けるには、腹に刀を入れるしかないと?」
話をあらかた聞き終えたみつが初めて口を開く。
「残念ながら、それ以上の策を思いつかないのです……。ところで、おみつさんは私や六助さんの話を、信じてくれるのですか?」
有吾の疑問に、みつは妹の様子に目をやりながら「はい」と答えた。
「信じます。おとよは、小さい頃から不思議な子だったんです。ですから私も、おとよの不思議な話には驚いたりしません」
細い記憶をたぐるように、みつは眉間にシワを寄せると、あっちに行ったりこっちに行ったりしながらも、とよの起こした不思議な話を二人に教えてくれた。その間にもとよの腕をさすったりしながら、優しい眼差しで妹を見つめている。
みつの話してくれた不思議な話には、そうたいした話があったわけではなかった。
例えばちょっとした失せ物をおとよが探し出したという話や、親戚の死を、その知らせが届くより先に告げたといった、おかみさんたちの井戸端会議でよく聞く類の、細々とした不思議の数々だ。それでも、噂でただ聞くのと、自分の妹が実際に不思議を目の前で見せてくれるのとでは、大きな違いがあるだろう。
「だから私には、山瀬様のおっしゃることが嘘ではないと思います。それに、私が藪入りの日に里帰りできなかったことも間違いありませんし。私があの日に帰れないように引き止めていたのも、きっとそういうちょっとした不思議じゃないかと思うんです。だって私、熱なんか小さい頃以来出したことないんだもの」
みつは眠るように横たわるとよから視線を外すと、有吾に向き直った。
「お願いします。とよを、助けてください」
そして、強い眼差しで有吾を見上げる。
「もちろんです。助けたいと思っています。ただ、助けられるという確証はありません。私がとよの腹に刀を入れることで、卵を取り出すことはできると思いますが、そのことでとよの死を早めてしまうかもしれない……」
そのことが、恐ろしい。
「なぁに言ってるんですか」
六助が有吾の逡巡を遮った。
「もし、卵を取り出さなかったらとよは確実に死ぬんですよ? しかも、蜘蛛の子に喰われるってんでしょう? そんなの、絶対嫌に決まってまさぁ。それに、生きているって言っても、このまま話すことも、笑いあうことも、喧嘩したりもできねえってんなら、そんなもん、死んでるのと変わりねえじゃありませんか!」
言い終わるとすっくと立ち上がる。
「さあ、山瀬の旦那。あっしにもできることがあるなら手伝いましょう」
と、腕まくりをしている。
「そう、そうね。山瀬様。改めてお願いします。とよを助けてください」
みつがもう一度手をついて頭を下げた。
有吾は、そっととよの額に手のひらを乗せてみた。
少しひんやりとしたとよの体温が伝わってくる。
まだ、生きている。
自分の剣で、とよを生かすことができるだろうか。
何人もの人や妖を、屠ってきた剣である。
そんなことが……。
「行きましょう」
有吾は意を決した。
「おみつさん、家まで案内してください」
「よっしゃ、おとよちゃんはあっしがおぶっていきますよ」
話が決まると、三人は涼やかな小川の岸を後にした。