晴夜
きいぃぃぃぃんん、と澄んだ音がして、銀の刃が怪しく光る。
跪いたまま、大きく目を見開き、その様子を見つめていたせんはゆっくりと目を閉じると、胸の前で手を合わせた。
そして、有吾の前に首を差し出すように身体を前に倒す。
『さあ、吾は何を斬ればいいのだ、宿主よ』
手にした刀から、鬼の本性に返った羅刹の声が、直に有吾の体の中に響いてきた。
『この女の望み通りにすればよいのか。お前が願わねば、吾は斬れぬ』
羅刹の声は、刀から手に伝わり、肩から脳天へと、有吾の体を震わせて、突き抜けていく。野太い咆哮のように有吾の体を揺さぶる。
これが本来の羅刹だ。
中段に構えた切っ先の向こうには、全てを受け入れたかのようにじっと白い項を差し出したせんがいる。
せんを斬れば、全ては終わるのか?
せんも、とよも救えずに、哀れな妖魔も救えずに……そんな結末しか、残らないのか。
『心の底から、願わねば、斬れぬ』
他に方法はないのか……。
踏み込もうとする足が、動かない。
心のゆらぎを写すように、刃の切っ先が、揺れた。
うなだれていたせんの顔が上がる。
閉じていた目が開き「斬れませんか……」とため息を吐く。
「仕方ありません……」
一度ふわりと微笑むと、せんの面から表情が抜け、糸の切れた繰り人形のようにその場に倒れた。
「おせんさん?」
思わず倒れたせんに近付こうとすると、手にした刀が勝手に動いた。
ぐっと体が持ち上がり、そのまま後ろに倒れる。あっという間の出来事だった。
倒れた有吾の上を何かが通り過ぎていく。
通り過ぎて行ったものを目で追おうとしたとき、せんの声が聞こえた。
「……してやられたわ!」
有吾が顔を上げると、つい先ほど倒れたはずのせんが、立っている。
有吾が顔を上げると、倒れたはずのせんが、そこに立っている。
「ずっと私の中で眠っていると思っていたら、せんのやつ!」
有吾の中に、ゾワゾワとした黒いものが広がっていった。
眼の前の女は、せんではない。
「みやぎ!」
有吾の声に振り返ったみやぎ(せん)は、目を細め、唇をきゅうっと引き上げにやりと笑った。
「有吾さま? 残念でしたわね。さっさとこの体、斬っておけばよろしかったのに。……ああ! いらつく! いらつくんだよ!」
叫びながら、みやぎは何かを投げつけるような仕草をした。その指の先から銀に輝く蜘蛛の糸が放たれる。
すうっと動いた刀が、とんできた蜘蛛の糸を払った。
有吾から動いたのではない。羅刹(刀)だ。羅刹が宿主を守ろうと、動いているのだ。訓練された有吾の体は、その動きにピタリと沿った。
ミシリ。
どこか粘着質な小さな音が聞こえ、みやぎの身体が二つに裂けていく。
想像外の光景を目にして、思わず後ずさった有吾は、何かに躓きそのまま仰向けに倒れた。
とっさに受け身をとり、大きな衝撃は免れたが、這いつくばった地面の先に、奇妙なものを見つけた。
やけに綺麗な白い骨だ。
何故。という疑問が沸き起こるが、ああ、鶏の骨だと思いこもうとする。
落ち着いて考えれば、どうみても鳥のものではない。
大きさといい形状といい、鶏の骨とは似ても似つかない。
有吾自身も、目が白骨を辿っていくにつれ、その骨がなんの骨なのか、理解しないわけにはいかなくなる。
大腿。肋。それから奥に綺麗な状態でぽつんと転がるのは、どう見ても人の頭蓋だ。ぽっかりと空いた二つの闇が、ちょうど有吾を見返しているようだ。
「それはね、卵の父親だよ」
背後からみやぎの声がして、背筋に悪寒が走った。
「種をもらって、食べてやったのさ。おや、怖い顔。交尾した後雌が雄を食らうのは、自然界じゃよくあることだろう?」
みしりと脳天から縦に亀裂の入ったまま、微笑み話しかけるみやぎはもう、人であるとは思えない。
もちろんみやぎとせんは、もともと生きた人ではない。
何年も、もしかしたら何十年も……何百年も前に死んだ女の怨霊で、今目の前にいるのは、その怨霊に乗っ取られた蜘蛛の妖怪なのだ。
「人は……人は……そんなことはしません!」
立ち上がるなり、羅刹の宿った刀をみやぎに向けて大きく振るった。
すっと後ろに下がって躱しながら、みやぎは一本の糸を放つ。
小屋の中に張り巡らされていた糸は、有吾が卵嚢へ駆け寄る際に、かなり取り払われていたが、その中に、また新しい糸が一本ぴいんと伸びた。
「よく言う! 何人女が殺されたと思う? 面白おかしく犯して殺すじゃないか、男は!」
言いながら、一本。また一本と、小屋の中に糸が張られていった。
「せんも馬鹿な女だよ。そんな男どもから、いい女だと思われたがってるなんてさ。反吐が出る」
みやぎの放つ糸を、右に左に飛び退きながら有吾は躱した。
が、気がつくと有吾の周囲はすっかり細い糸で囲まれていて、これ以上は逃げられないほどになっている。
しかし、たかが蜘蛛の糸だ。多少鬱陶しいが、薙ぎ払えば済むことだ。
左手に刀を握ったまま、有吾は右手で空を掻くように糸を払った。
手が糸に触れた途端に、みやぎの亀裂が更に深くなり、みしみしと嫌な音を立てた。みやぎの形をした薄皮が、くるりと丸まり縮れて剥がれ、巨大な一匹の蜘蛛がその中から現れ出す。
月明かりが、黒々とした蜘蛛の輪郭を縁取り、黄色い縞の模様がやけに明るく浮き上がって見えた。有吾は即座に刀を晴眼に構える。
ざしゅっっと、蜘蛛の足が空を切り、有吾は振り下ろされた足を刀で受けた。きん。という、硬質な音が鳴った。
「斬れない!?」
蜘蛛の足は八本。一本も欠けることなくわさわさと蠢いている。
『頭から腹、あやつの弱点は、そんなところであろう。背や足は、硬い』
羅刹の声が有吾の体を駆け抜けていく。
有吾の二倍ほどの大きさがあろうかという巨大な蜘蛛は、今の攻防でちぎれてしまった糸の修繕をはじめる。尻から放たれた糸が再び小屋の中を埋め尽くしていく。
「く……っ!」
有吾は起き上がりながら、目の前の蜘蛛の糸を払い除けた。
その途端に蜘蛛は有吾に迫り、鋼のような足で襲いかかってくる。
くうっっと、息を漏らし、何度も振り下ろされる足を羅刹と呼吸を合わせて凌いだ。
防戦一方で、いつ殺られるかと思っていたが、不思議なことに、打ち合わせるほどに蜘蛛の狙いが甘くなっていくように感じられる。ついには、もうあと一歩だというのに、蜘蛛は攻撃を止め、再び巣作りをはじめた。どういうわけだと混乱しつつも、小屋の隅で身を縮こまらせて呼吸を整える。
『糸に触れないように、蜘蛛に近づけ。一応物音は立てるな』
羅刹の声に、有吾はまだ乱れている呼吸を飲み込みながら、蜘蛛の放つ糸に触れないように近づいていった。
『やはりな』
蜘蛛はかなり近くまで来た有吾に気づきもせずに糸を放っている。
『蜘蛛の姿では、目がよく見えないらしい。放たれた糸がやつの目の代わりだ。そのまま近づいて、斬ればいい。簡単な仕事だ』
羅刹の声には笑いが含まれている。
有吾はそうっと息を吐き出した。
『さあ、宿主よ。早くせぬと、流石に気づかれるぞ』
もう、有吾のすぐ目の前に蜘蛛がいた。ただ刀を振り上げて、一直線に切り抜けばいい。
だが。
――この化けものを殺したら、おせんさんはどうなる? この化けものは、みやぎに操られていただけではないか? なのに殺してしまうのか?
「お斬りなさい。私は大丈夫です。さあ」
声が聞こえた。
有吾が驚いて顔をあげると、蜘蛛の向こうに立つせんの姿が見えた。実態ではないのだろう、薄っすらと透けたその姿は、まるで月の光が集まって出来た幻のように儚げだ。
「不思議なことです。かつて、私とみやぎが同時に現れることはありえませんでした。私とみやぎは裏と面。なのに今は、分離しているのです。どうぞ、有吾さま。あなたの目の前にいるのは、私ではありません」
しかし……。
蜘蛛が動き、有後の方へと一歩進み出てくる。
それに合わせて有吾が無意識に間合いをとった。
ふつ。
退がった有吾の体が、一本の蜘蛛の糸に触れた。
蜘蛛の顔が、はっきりと有吾に向けられる。
『さあ斬れ』
「斬って!」
迷っている間はなかった。刀の切っ先を女郎蜘蛛に向け、有吾は踏み込んでいく。
「羅刹、みやぎだけを斬れますか!」
『面倒なことを言う!』
羅刹の舌打ちと、刀が蜘蛛の顎に吸い込まれていくのは、ほぼ同時だった。
有吾は己の体重を刀にかけ、ずいっと一直線に、蜘蛛の腹を割った。
跪いたまま、大きく目を見開き、その様子を見つめていたせんはゆっくりと目を閉じると、胸の前で手を合わせた。
そして、有吾の前に首を差し出すように身体を前に倒す。
『さあ、吾は何を斬ればいいのだ、宿主よ』
手にした刀から、鬼の本性に返った羅刹の声が、直に有吾の体の中に響いてきた。
『この女の望み通りにすればよいのか。お前が願わねば、吾は斬れぬ』
羅刹の声は、刀から手に伝わり、肩から脳天へと、有吾の体を震わせて、突き抜けていく。野太い咆哮のように有吾の体を揺さぶる。
これが本来の羅刹だ。
中段に構えた切っ先の向こうには、全てを受け入れたかのようにじっと白い項を差し出したせんがいる。
せんを斬れば、全ては終わるのか?
せんも、とよも救えずに、哀れな妖魔も救えずに……そんな結末しか、残らないのか。
『心の底から、願わねば、斬れぬ』
他に方法はないのか……。
踏み込もうとする足が、動かない。
心のゆらぎを写すように、刃の切っ先が、揺れた。
うなだれていたせんの顔が上がる。
閉じていた目が開き「斬れませんか……」とため息を吐く。
「仕方ありません……」
一度ふわりと微笑むと、せんの面から表情が抜け、糸の切れた繰り人形のようにその場に倒れた。
「おせんさん?」
思わず倒れたせんに近付こうとすると、手にした刀が勝手に動いた。
ぐっと体が持ち上がり、そのまま後ろに倒れる。あっという間の出来事だった。
倒れた有吾の上を何かが通り過ぎていく。
通り過ぎて行ったものを目で追おうとしたとき、せんの声が聞こえた。
「……してやられたわ!」
有吾が顔を上げると、つい先ほど倒れたはずのせんが、立っている。
有吾が顔を上げると、倒れたはずのせんが、そこに立っている。
「ずっと私の中で眠っていると思っていたら、せんのやつ!」
有吾の中に、ゾワゾワとした黒いものが広がっていった。
眼の前の女は、せんではない。
「みやぎ!」
有吾の声に振り返ったみやぎ(せん)は、目を細め、唇をきゅうっと引き上げにやりと笑った。
「有吾さま? 残念でしたわね。さっさとこの体、斬っておけばよろしかったのに。……ああ! いらつく! いらつくんだよ!」
叫びながら、みやぎは何かを投げつけるような仕草をした。その指の先から銀に輝く蜘蛛の糸が放たれる。
すうっと動いた刀が、とんできた蜘蛛の糸を払った。
有吾から動いたのではない。羅刹(刀)だ。羅刹が宿主を守ろうと、動いているのだ。訓練された有吾の体は、その動きにピタリと沿った。
ミシリ。
どこか粘着質な小さな音が聞こえ、みやぎの身体が二つに裂けていく。
想像外の光景を目にして、思わず後ずさった有吾は、何かに躓きそのまま仰向けに倒れた。
とっさに受け身をとり、大きな衝撃は免れたが、這いつくばった地面の先に、奇妙なものを見つけた。
やけに綺麗な白い骨だ。
何故。という疑問が沸き起こるが、ああ、鶏の骨だと思いこもうとする。
落ち着いて考えれば、どうみても鳥のものではない。
大きさといい形状といい、鶏の骨とは似ても似つかない。
有吾自身も、目が白骨を辿っていくにつれ、その骨がなんの骨なのか、理解しないわけにはいかなくなる。
大腿。肋。それから奥に綺麗な状態でぽつんと転がるのは、どう見ても人の頭蓋だ。ぽっかりと空いた二つの闇が、ちょうど有吾を見返しているようだ。
「それはね、卵の父親だよ」
背後からみやぎの声がして、背筋に悪寒が走った。
「種をもらって、食べてやったのさ。おや、怖い顔。交尾した後雌が雄を食らうのは、自然界じゃよくあることだろう?」
みしりと脳天から縦に亀裂の入ったまま、微笑み話しかけるみやぎはもう、人であるとは思えない。
もちろんみやぎとせんは、もともと生きた人ではない。
何年も、もしかしたら何十年も……何百年も前に死んだ女の怨霊で、今目の前にいるのは、その怨霊に乗っ取られた蜘蛛の妖怪なのだ。
「人は……人は……そんなことはしません!」
立ち上がるなり、羅刹の宿った刀をみやぎに向けて大きく振るった。
すっと後ろに下がって躱しながら、みやぎは一本の糸を放つ。
小屋の中に張り巡らされていた糸は、有吾が卵嚢へ駆け寄る際に、かなり取り払われていたが、その中に、また新しい糸が一本ぴいんと伸びた。
「よく言う! 何人女が殺されたと思う? 面白おかしく犯して殺すじゃないか、男は!」
言いながら、一本。また一本と、小屋の中に糸が張られていった。
「せんも馬鹿な女だよ。そんな男どもから、いい女だと思われたがってるなんてさ。反吐が出る」
みやぎの放つ糸を、右に左に飛び退きながら有吾は躱した。
が、気がつくと有吾の周囲はすっかり細い糸で囲まれていて、これ以上は逃げられないほどになっている。
しかし、たかが蜘蛛の糸だ。多少鬱陶しいが、薙ぎ払えば済むことだ。
左手に刀を握ったまま、有吾は右手で空を掻くように糸を払った。
手が糸に触れた途端に、みやぎの亀裂が更に深くなり、みしみしと嫌な音を立てた。みやぎの形をした薄皮が、くるりと丸まり縮れて剥がれ、巨大な一匹の蜘蛛がその中から現れ出す。
月明かりが、黒々とした蜘蛛の輪郭を縁取り、黄色い縞の模様がやけに明るく浮き上がって見えた。有吾は即座に刀を晴眼に構える。
ざしゅっっと、蜘蛛の足が空を切り、有吾は振り下ろされた足を刀で受けた。きん。という、硬質な音が鳴った。
「斬れない!?」
蜘蛛の足は八本。一本も欠けることなくわさわさと蠢いている。
『頭から腹、あやつの弱点は、そんなところであろう。背や足は、硬い』
羅刹の声が有吾の体を駆け抜けていく。
有吾の二倍ほどの大きさがあろうかという巨大な蜘蛛は、今の攻防でちぎれてしまった糸の修繕をはじめる。尻から放たれた糸が再び小屋の中を埋め尽くしていく。
「く……っ!」
有吾は起き上がりながら、目の前の蜘蛛の糸を払い除けた。
その途端に蜘蛛は有吾に迫り、鋼のような足で襲いかかってくる。
くうっっと、息を漏らし、何度も振り下ろされる足を羅刹と呼吸を合わせて凌いだ。
防戦一方で、いつ殺られるかと思っていたが、不思議なことに、打ち合わせるほどに蜘蛛の狙いが甘くなっていくように感じられる。ついには、もうあと一歩だというのに、蜘蛛は攻撃を止め、再び巣作りをはじめた。どういうわけだと混乱しつつも、小屋の隅で身を縮こまらせて呼吸を整える。
『糸に触れないように、蜘蛛に近づけ。一応物音は立てるな』
羅刹の声に、有吾はまだ乱れている呼吸を飲み込みながら、蜘蛛の放つ糸に触れないように近づいていった。
『やはりな』
蜘蛛はかなり近くまで来た有吾に気づきもせずに糸を放っている。
『蜘蛛の姿では、目がよく見えないらしい。放たれた糸がやつの目の代わりだ。そのまま近づいて、斬ればいい。簡単な仕事だ』
羅刹の声には笑いが含まれている。
有吾はそうっと息を吐き出した。
『さあ、宿主よ。早くせぬと、流石に気づかれるぞ』
もう、有吾のすぐ目の前に蜘蛛がいた。ただ刀を振り上げて、一直線に切り抜けばいい。
だが。
――この化けものを殺したら、おせんさんはどうなる? この化けものは、みやぎに操られていただけではないか? なのに殺してしまうのか?
「お斬りなさい。私は大丈夫です。さあ」
声が聞こえた。
有吾が驚いて顔をあげると、蜘蛛の向こうに立つせんの姿が見えた。実態ではないのだろう、薄っすらと透けたその姿は、まるで月の光が集まって出来た幻のように儚げだ。
「不思議なことです。かつて、私とみやぎが同時に現れることはありえませんでした。私とみやぎは裏と面。なのに今は、分離しているのです。どうぞ、有吾さま。あなたの目の前にいるのは、私ではありません」
しかし……。
蜘蛛が動き、有後の方へと一歩進み出てくる。
それに合わせて有吾が無意識に間合いをとった。
ふつ。
退がった有吾の体が、一本の蜘蛛の糸に触れた。
蜘蛛の顔が、はっきりと有吾に向けられる。
『さあ斬れ』
「斬って!」
迷っている間はなかった。刀の切っ先を女郎蜘蛛に向け、有吾は踏み込んでいく。
「羅刹、みやぎだけを斬れますか!」
『面倒なことを言う!』
羅刹の舌打ちと、刀が蜘蛛の顎に吸い込まれていくのは、ほぼ同時だった。
有吾は己の体重を刀にかけ、ずいっと一直線に、蜘蛛の腹を割った。