晴夜
薄暗い行灯の光の中で、みやぎをその身に宿したせんと、有吾と、有吾に宿る羅刹が三人で、飯を食う。
握り飯は、冷たくてもうまかった。
うまいのだ。ここで食べた飯も、漬物も、味噌汁も。みんなうまかった。
しかし、今食べてるこの飯は、現実のものなのだろうか。
貉 だの狐だのに化かされて、うまいうまいと言いながら、とんでもないものを食わされていたなんていう昔話を聞いたことがある。せんがそんな事をするとは思わないが、今まで口にしてきたものは全部、食っていると思いこんでいるだけなのではないか。
そう思うと、一向に腹が満たされないような気もしてくる。
「どうかしましたか? 有吾様?」
せんは握り飯を手にしたまま動かなくなってしまった有吾を気にしているようだった。
「いえ、なんといいますか……この飯は実際腹の足しになっているのでしょうか」
素朴な疑問に、せんの目が大きくなる。そして考え込むように少し上を見上げた。
「そうですね……おそらく、現実のお腹の足しにはならないかもしれませんが」
『またお前は小難しいことを……食っとけ! ここまできて、考えたところでどうする。仙人とかいう輩 は、霞を食っても生きていけるそうじゃねえか』
そう答える羅刹は、すっかり六助のならず者風に戻っていた。確かに筋骨隆々とした鬼の本性を丸出しにされるよりは、かなり異様ではあるが、この姿のほうが威圧感はない。
「おそらくお二人の力になると思います。ご仏壇のお供えも、ご先祖様は食べ物の気をいただいているのだと言いますし」
「はあ」
私は仙人でもなければ、ご先祖様でもないんだがという言葉は飲み込む。
「さあ、有吾様も一献」
有吾は差し出された酒坏を手にすると、一息に飲み干した。腹の底が熱くなり、覚悟が決まる。
「それで、とよは今どこに?」
ずっと聞きたかった疑問だ。
疑問ではあったが、有吾の目は、自分でも自覚しないままに、庭の奥の鶏小屋の方向をむいた。
「ええ、おそらく有吾様のお考えのとおりです」
せんは苦しげに目を閉じた。
背の高い草に囲まれた、崩れかけた鶏小屋。木はあちこち腐り、苔むしている。
「あの小屋の中で、とよは有吾様を待っております……」
朽ちかけた小屋の中に、とよがいる。
生きているとせんは言ったが、普通の状態であるはずがない。
ただ、せんの様子を考えると一刻を争う事態でもないのだろう。
そうであって欲しい。
そうであるに違いない……。
有吾が家を出て鶏小屋へと向かうと、せんと羅刹も黙ってその後に付いてきた。
「そろそろ、子の刻……三つを、過ぎましたか……」
せんの言葉につられて振り仰げば、東の空に顔を出したばかりの月は、作り物めいた大きさで、夜を照らした。江戸を発つ頃にはまだ丸に近かった月だが、だいぶ痩せてしまっていた。
世界が銀色に輝く。
有吾は明るくなった庭を横切り鶏小屋へと近づいた。扉についている簡素な木製の閂を横に引く。ガタガタとなる戸を、多少持ち上げるようにして力を込めると、ようやく扉が開いた。小屋の中へ一歩踏み入れようとして思わず
「……うっ!」
と、声を上げた。
いきなり蜘蛛の巣が顔にへばりついたのだ。とっさに目をつむり、絡みつく細い糸を手で払い避ける。
『こりゃあ……』
背後から、羅刹の声が聞こえて、有吾は細く目を開けた。
朽ちかけ、あちこちに空いた開いた隙間から、昇ったばかりの月光の差し込む部屋は、思った以上に明かるい。足元には屑藁のようなものが散乱し、壁の一部を突き破って大きな栗の木の幹が小屋の中に侵入している。
蜘蛛の巣は小屋の入口付近より、奥に行くほど密になっている。
有吾は糸を払いながら、小屋の中へと踏み込んでいった。
後から入ってきた羅刹かせんが、扉を大きく開けたのだろうか。月明かりが更に奥へと差し込み、部屋の中に張り巡らされていた銀の糸がきらりと光った。
普通蜘蛛の巣というのは、放射線状の縦糸に、粘りのある横糸がまるで結晶のようにきれいな形を作っているものだが、部屋の中の糸は、あまりにも自由気ままに縦横無尽に張り巡らされているように見える。縦、横、斜めはもちろん、奥から手前。手前から奥。縦糸も横糸もあったものではない。
小屋の奥で壁を突き抜けて生える栗の木の幹には、大きな繭状の塊が張り付いていた。
そして、その白い繭の前に――とよがいた。
「とよ!」
駆け出した有吾は、まとわりつく糸を掻き分けて、とよに駆け寄り抱きしめようとした。しかしその手は、なんの抵抗もなくとよの身体を突き抜けて空を掻く。
驚愕に目を開きとよの名を呼びながら、震える手をそっととよの肩へとのばした。指先がとよに届こうとした時
『たすけて』
というとよの声が、小さく聞こえた。
「とよ、聞こえますか?」
後からやってきたせんが、有吾の隣に立つ。
「化けもの屋の有吾様が来てくださいましたよ。お姉さまも、きっと助かります。そしてあなた自身も……」
『お家に、帰りたい……』
「ええ、帰れますとも、有吾様があなたをお家に帰してくださいます」
「どういうことです?」
まだ混乱から立ち直れずに、幻のようなとよをみつめたまま有吾はせんに問いかけた。
が、そのとたんとよの姿が消えた。
「とよ!」
つかめないとわかっていても、有吾は手を伸ばさずにはいられなかった。
「とよの力も、弱まっています。今ではこんな幻のような姿しか取れないのでしょう」
「生きているといいましたよね?」
「ええ……まだ、生きてます。まだ死ぬわけはないのです。卵嚢の中の卵が孵化するまでは……とよは死にません」
「卵嚢?」
「はい、有吾様の目の前の……」
『その繭の中かよ』
あっけらかんとした羅刹の声が聞こえた。
せんは後からやってきた羅刹のために、脇に避けて繭へと続く道を開けた。
羅刹は繭のような塊になった蜘蛛の糸の前に立ち、腰に手を当てて、まじまじとその繭――卵嚢を眺めた。
『この中にとよがいるのか?』
「はい」
『卵と一緒にか?』
羅刹の問に、せんは苦しそうに眉根を寄せた。
「とよの身体に、卵が産み付けられているのです、そして、とよごと……この卵嚢の中に閉じ込められて……子蜘蛛が孵ったときの最初の餌食と……」
有吾はせんの言葉を皆まで聞くことができなかった。
「おおおおぉぉぉぉぉおおぉぉ!」
雄叫びを上げると、そのまま繭のような真白な卵嚢に飛びかかっていたのだ。
思ったよりも柔らかな感触の卵嚢は、有吾が引きちぎろうとすると、綿のようにあっけなく崩れていく。
「とよ!」
崩れた卵嚢の中から、青白い少女の顔が見え始めた。
有吾は更に力を込め、大きく卵嚢に穴を開ける。
とよの体はグラリと傾き始めた。
白い柔らかな綿の中から、全身が現れ、糸をまといつかせながら有吾の腕の中へと落ちてくる。
「とよ! とよ!」
有吾の腕がきつく抱きしめても、どれほど揺さぶっても、とよはピクリとも反応を返さない。
その身体を懐の中に掻き抱いても、ひやりとした身体からはまるで生気が感じられなかった。
「本当に、生きて……いるのか?」
「生きて……は……います……」
有吾は振り返り、思わずせんを睨みつけていた。
せんは静かに有吾の前に進み出て、そのまま膝をつく。
「どうぞ、私をお斬り下さい」
「あなたを、斬って、どうなります」
食いしばる歯の隙間から、唸るようにして絞り出した言葉は、ずいぶんと聞き取りづらい。
「今、この体を支配しているのは、私です。私がみやぎを抑えている間にこの体を斬れば、おそらくみやぎも消えます」
せんは優しく微笑みながら、有吾に詰め寄ってくる。
「それが何になります!」
有吾は肩口で、ぐいっと頬を拭って、それでようやく、自分の流した涙に気がついた。
こんなところまでやってきて、結局誰も救うことができない自分が、情けない。
化けもの屋などと言っておきながら、自分には、羅刹の力を借りて、斬ることしかできない。斬って捨てるだけだ。誰も救われなどしない。
「有吾さま」
せんの声が、ひどく遠く感じる。
「少なくとも、私たちが消えれば、次なる犠牲を防ぐことはできるでしょう」
せんのひどく落ち着いた声が、有吾には腹立たしかった。
「なぜ私があなたたちを斬らねばならない? 犠牲者を出したくなければ、襲わなければ済む話でしょう。あなたは……あなたは……」
みやぎでもあるわけでしょう?
不思議な事だが、このとき有吾はみやぎに憐れみをかんじていたのだ。
斬りたくないと思った。
男の言葉を信じ、弱さ故に、そして美しさ故に、男たちに食い尽くされた女。
心の底に渦巻くようなドロドロと黒い泥流を抱え、呪い、恨んで死んだ女。
――あなたはそんな思いを、すべてみやぎという女の中に押し付けていたのではないか?
思わずせんを詰りそうになる。
『おい』
羅刹が有吾を蹴り飛ばし、有吾とせんの間に割って入った。
『お前を斬るのなんか、簡単な話だがな、このとよとかいう娘はどうするつもりだよ』
そうだ、問題はとよなのだ。
己の感情に振り回されて、有吾自身も見失いそうになっていた。
「まだ、卵は孵っていませんから、とよの中から卵を取り出して下さい。そうすれば、少なくとも子蜘蛛に生きながら食われることはないでしょう」
「どうやって!」
「……」
有吾の問いかけに、初めてせんの顔がくしゃりと歪む。
「とよに傷をつけないで、卵だけを潰すことはできないでしょうね」
「だからどうしろと……」
『腹を割きゃあ、いいんだろ』
「そんな、そんな事をしたらとよは……」
『腹ぁ割くんだから、気絶するほどの痛みだろうぜ。しかも、助かりゃあいいが、その可能性も薄いとなれば、バッサリ卵ごとあの世へ送ってやったほうがコイツの為じゃあないのか?』
助からない。助けられない。
「羅刹っ!」
有吾はとよを藁屑とちぎれた卵嚢の散らばる地べたの上に寝かせると、腰の刀に手を伸ばした。
『ふん』
羅刹が笑う。
有吾が一歩足を踏み出しながらぎらりと刀を抜いた。
刀身に月明かりが反射する。
とたんに羅刹の姿が消えた。
握り飯は、冷たくてもうまかった。
うまいのだ。ここで食べた飯も、漬物も、味噌汁も。みんなうまかった。
しかし、今食べてるこの飯は、現実のものなのだろうか。
そう思うと、一向に腹が満たされないような気もしてくる。
「どうかしましたか? 有吾様?」
せんは握り飯を手にしたまま動かなくなってしまった有吾を気にしているようだった。
「いえ、なんといいますか……この飯は実際腹の足しになっているのでしょうか」
素朴な疑問に、せんの目が大きくなる。そして考え込むように少し上を見上げた。
「そうですね……おそらく、現実のお腹の足しにはならないかもしれませんが」
『またお前は小難しいことを……食っとけ! ここまできて、考えたところでどうする。仙人とかいう
そう答える羅刹は、すっかり六助のならず者風に戻っていた。確かに筋骨隆々とした鬼の本性を丸出しにされるよりは、かなり異様ではあるが、この姿のほうが威圧感はない。
「おそらくお二人の力になると思います。ご仏壇のお供えも、ご先祖様は食べ物の気をいただいているのだと言いますし」
「はあ」
私は仙人でもなければ、ご先祖様でもないんだがという言葉は飲み込む。
「さあ、有吾様も一献」
有吾は差し出された酒坏を手にすると、一息に飲み干した。腹の底が熱くなり、覚悟が決まる。
「それで、とよは今どこに?」
ずっと聞きたかった疑問だ。
疑問ではあったが、有吾の目は、自分でも自覚しないままに、庭の奥の鶏小屋の方向をむいた。
「ええ、おそらく有吾様のお考えのとおりです」
せんは苦しげに目を閉じた。
背の高い草に囲まれた、崩れかけた鶏小屋。木はあちこち腐り、苔むしている。
「あの小屋の中で、とよは有吾様を待っております……」
朽ちかけた小屋の中に、とよがいる。
生きているとせんは言ったが、普通の状態であるはずがない。
ただ、せんの様子を考えると一刻を争う事態でもないのだろう。
そうであって欲しい。
そうであるに違いない……。
有吾が家を出て鶏小屋へと向かうと、せんと羅刹も黙ってその後に付いてきた。
「そろそろ、子の刻……三つを、過ぎましたか……」
せんの言葉につられて振り仰げば、東の空に顔を出したばかりの月は、作り物めいた大きさで、夜を照らした。江戸を発つ頃にはまだ丸に近かった月だが、だいぶ痩せてしまっていた。
世界が銀色に輝く。
有吾は明るくなった庭を横切り鶏小屋へと近づいた。扉についている簡素な木製の閂を横に引く。ガタガタとなる戸を、多少持ち上げるようにして力を込めると、ようやく扉が開いた。小屋の中へ一歩踏み入れようとして思わず
「……うっ!」
と、声を上げた。
いきなり蜘蛛の巣が顔にへばりついたのだ。とっさに目をつむり、絡みつく細い糸を手で払い避ける。
『こりゃあ……』
背後から、羅刹の声が聞こえて、有吾は細く目を開けた。
朽ちかけ、あちこちに空いた開いた隙間から、昇ったばかりの月光の差し込む部屋は、思った以上に明かるい。足元には屑藁のようなものが散乱し、壁の一部を突き破って大きな栗の木の幹が小屋の中に侵入している。
蜘蛛の巣は小屋の入口付近より、奥に行くほど密になっている。
有吾は糸を払いながら、小屋の中へと踏み込んでいった。
後から入ってきた羅刹かせんが、扉を大きく開けたのだろうか。月明かりが更に奥へと差し込み、部屋の中に張り巡らされていた銀の糸がきらりと光った。
普通蜘蛛の巣というのは、放射線状の縦糸に、粘りのある横糸がまるで結晶のようにきれいな形を作っているものだが、部屋の中の糸は、あまりにも自由気ままに縦横無尽に張り巡らされているように見える。縦、横、斜めはもちろん、奥から手前。手前から奥。縦糸も横糸もあったものではない。
小屋の奥で壁を突き抜けて生える栗の木の幹には、大きな繭状の塊が張り付いていた。
そして、その白い繭の前に――とよがいた。
「とよ!」
駆け出した有吾は、まとわりつく糸を掻き分けて、とよに駆け寄り抱きしめようとした。しかしその手は、なんの抵抗もなくとよの身体を突き抜けて空を掻く。
驚愕に目を開きとよの名を呼びながら、震える手をそっととよの肩へとのばした。指先がとよに届こうとした時
『たすけて』
というとよの声が、小さく聞こえた。
「とよ、聞こえますか?」
後からやってきたせんが、有吾の隣に立つ。
「化けもの屋の有吾様が来てくださいましたよ。お姉さまも、きっと助かります。そしてあなた自身も……」
『お家に、帰りたい……』
「ええ、帰れますとも、有吾様があなたをお家に帰してくださいます」
「どういうことです?」
まだ混乱から立ち直れずに、幻のようなとよをみつめたまま有吾はせんに問いかけた。
が、そのとたんとよの姿が消えた。
「とよ!」
つかめないとわかっていても、有吾は手を伸ばさずにはいられなかった。
「とよの力も、弱まっています。今ではこんな幻のような姿しか取れないのでしょう」
「生きているといいましたよね?」
「ええ……まだ、生きてます。まだ死ぬわけはないのです。卵嚢の中の卵が孵化するまでは……とよは死にません」
「卵嚢?」
「はい、有吾様の目の前の……」
『その繭の中かよ』
あっけらかんとした羅刹の声が聞こえた。
せんは後からやってきた羅刹のために、脇に避けて繭へと続く道を開けた。
羅刹は繭のような塊になった蜘蛛の糸の前に立ち、腰に手を当てて、まじまじとその繭――卵嚢を眺めた。
『この中にとよがいるのか?』
「はい」
『卵と一緒にか?』
羅刹の問に、せんは苦しそうに眉根を寄せた。
「とよの身体に、卵が産み付けられているのです、そして、とよごと……この卵嚢の中に閉じ込められて……子蜘蛛が孵ったときの最初の餌食と……」
有吾はせんの言葉を皆まで聞くことができなかった。
「おおおおぉぉぉぉぉおおぉぉ!」
雄叫びを上げると、そのまま繭のような真白な卵嚢に飛びかかっていたのだ。
思ったよりも柔らかな感触の卵嚢は、有吾が引きちぎろうとすると、綿のようにあっけなく崩れていく。
「とよ!」
崩れた卵嚢の中から、青白い少女の顔が見え始めた。
有吾は更に力を込め、大きく卵嚢に穴を開ける。
とよの体はグラリと傾き始めた。
白い柔らかな綿の中から、全身が現れ、糸をまといつかせながら有吾の腕の中へと落ちてくる。
「とよ! とよ!」
有吾の腕がきつく抱きしめても、どれほど揺さぶっても、とよはピクリとも反応を返さない。
その身体を懐の中に掻き抱いても、ひやりとした身体からはまるで生気が感じられなかった。
「本当に、生きて……いるのか?」
「生きて……は……います……」
有吾は振り返り、思わずせんを睨みつけていた。
せんは静かに有吾の前に進み出て、そのまま膝をつく。
「どうぞ、私をお斬り下さい」
「あなたを、斬って、どうなります」
食いしばる歯の隙間から、唸るようにして絞り出した言葉は、ずいぶんと聞き取りづらい。
「今、この体を支配しているのは、私です。私がみやぎを抑えている間にこの体を斬れば、おそらくみやぎも消えます」
せんは優しく微笑みながら、有吾に詰め寄ってくる。
「それが何になります!」
有吾は肩口で、ぐいっと頬を拭って、それでようやく、自分の流した涙に気がついた。
こんなところまでやってきて、結局誰も救うことができない自分が、情けない。
化けもの屋などと言っておきながら、自分には、羅刹の力を借りて、斬ることしかできない。斬って捨てるだけだ。誰も救われなどしない。
「有吾さま」
せんの声が、ひどく遠く感じる。
「少なくとも、私たちが消えれば、次なる犠牲を防ぐことはできるでしょう」
せんのひどく落ち着いた声が、有吾には腹立たしかった。
「なぜ私があなたたちを斬らねばならない? 犠牲者を出したくなければ、襲わなければ済む話でしょう。あなたは……あなたは……」
みやぎでもあるわけでしょう?
不思議な事だが、このとき有吾はみやぎに憐れみをかんじていたのだ。
斬りたくないと思った。
男の言葉を信じ、弱さ故に、そして美しさ故に、男たちに食い尽くされた女。
心の底に渦巻くようなドロドロと黒い泥流を抱え、呪い、恨んで死んだ女。
――あなたはそんな思いを、すべてみやぎという女の中に押し付けていたのではないか?
思わずせんを詰りそうになる。
『おい』
羅刹が有吾を蹴り飛ばし、有吾とせんの間に割って入った。
『お前を斬るのなんか、簡単な話だがな、このとよとかいう娘はどうするつもりだよ』
そうだ、問題はとよなのだ。
己の感情に振り回されて、有吾自身も見失いそうになっていた。
「まだ、卵は孵っていませんから、とよの中から卵を取り出して下さい。そうすれば、少なくとも子蜘蛛に生きながら食われることはないでしょう」
「どうやって!」
「……」
有吾の問いかけに、初めてせんの顔がくしゃりと歪む。
「とよに傷をつけないで、卵だけを潰すことはできないでしょうね」
「だからどうしろと……」
『腹を割きゃあ、いいんだろ』
「そんな、そんな事をしたらとよは……」
『腹ぁ割くんだから、気絶するほどの痛みだろうぜ。しかも、助かりゃあいいが、その可能性も薄いとなれば、バッサリ卵ごとあの世へ送ってやったほうがコイツの為じゃあないのか?』
助からない。助けられない。
「羅刹っ!」
有吾はとよを藁屑とちぎれた卵嚢の散らばる地べたの上に寝かせると、腰の刀に手を伸ばした。
『ふん』
羅刹が笑う。
有吾が一歩足を踏み出しながらぎらりと刀を抜いた。
刀身に月明かりが反射する。
とたんに羅刹の姿が消えた。