妖異
化けものより、人のほうが恐ろしいなどと言っているが、別に人嫌いというわけではないのだ。
人に囲まれ……人に溺れるようにして生きている人々。
自分も、その内の一人になっての暮らし。
長屋のおかみさんたちや六助は、元気にしているだろうか。
『今夜が正念場だぜ』
羅刹の声が有吾を現実に引き戻した。
「今夜ですか」
『そうさ』
羅刹はそこで、もったいぶって少し間を開けた。
『今回の事件に関わる化け物は四匹』
「え? 四……?」
『まあ、全部が化け物ってわけじゃねえが、化け物に片足突っ込んでやがるのは確かだ。あ、もちろん四匹の中に俺は入ってないぞ』
有吾としては詳しく聞きたい話だったが、せっかく羅刹が話す気分になっているのに、水を差すことは避けたくて、口をつぐむ。
『お前はどいつとどいつを斬るんだろうなあ』
くくくっと、羅刹は笑い声を漏らした。
化け物であろうと人であろうと、有吾は斬ることを好まない。それを知っているくせに、いや、知っているからこそ羅刹は楽しんでいるのだろう。
「羅刹……さま?」
土間で忙しそうに立ち働いていたせんが姿を表した。
「炊いたご飯は梅干しのお握りにしたのですけど、今すぐ食べますか?」
『おう、握り飯か。いいじゃないか。持って来い、持って来い! 炊きたての御飯とやらを食べながら話を聞こうじゃねえか。せん、お前も飲めよ』
「はい、今お持ちしますから、ちょっと待っていてくださいね」
しばらくして、せんが握り飯をたくさん載せた盆を運んでくると、まだ日が高いというのに、宴会が始まった。
「こうして、誰かのためにご飯を炊くのは、ずいぶんと久しぶりのことでした。楽しいこと、ですね」
三人並んで、酒を飲みながら庭を眺める。そして、温かい握り飯を食う。うまそうに食べる羅刹につられて、有吾も握り飯に手を伸ばした。
じゅうぶんに腹が膨れた頃合いだった。
コトリ。
みやぎは手にした杯を膝の前に起き、背筋を伸ばした。
「私の話を、聞いていただけますか?」
有吾も手にしていた杯を床に置き、両の手を膝の上においた。羅刹は変わらずちびちびと酒を舐めている。
せんの表情から、笑みが消えていた。正面を見据え、静かに話し始める。
「先程も言いましたが、みやぎの話したことは、全て本当のことです。その昔、私はこの家で夫と二人、幸せに暮らしておりました。ある日夫が家を出て、そのまま帰らないまま月日が過ぎていきました。女ひとりで生きていくのは、大変なことでした。そこで私は、庄屋様に面倒を見ていただくようになりました……」
せんは、何かをこらえるように顔を上げ、瞼を閉じた。
有吾の胸のうちに影が差す。面倒を見てもらったということは、囲われ者になったということだ。
「暮らしは楽になりましたが、私にとってはつらい日々でした。
そして、その頃から、私の中で時折記憶が抜け落ちるようになったのです」
せんの青白い瞼の下で、眼球が忙しく動いていた。
「ある日私は庄屋様に、若い男と付き合ってるそうじゃないか、と|詰《なじ》られます。全く身に覚えのないことでした。でも、私があちこちの男にちょっかいを掛けていると、そう言って怒鳴り込んでくる村の人も出てきました。そんな事をした覚えはないのです。けれども皆、間違いなく私だというのです」
狐憑き、という言葉が有吾の中に浮かんだ。
狐憑きになると、その間は全く人が違ったようになるのだと言う。いつもは優しい人が、乱暴者になったり、正直者が、盗人になったりするのだ。そして、当の本人は、その間のことを覚えていない。
せんはその時の出来事をいくつか有吾と羅刹に語って聞かせた。
自分には身に覚えのないことで、周囲から孤立していくせんの様子が、有吾にはいたたまれなかった。
「何度も、庄屋様と言い合いになりました。最初のうちはわかったと言ってくれていましたが、庄屋様自身が私が若い男と逢い引きをしているのを見たというのです。私は庄屋様が怒るたびに泣いて侘びました。私には何もやましいところはありませんでしたが、謝らなければ殴られるのです。その間にも、亭主を寝取られたと怒鳴り込んでくる人もいました。何度もそんなことが続き、私はついに庄屋様に捨てられました」
「そんな……」
有吾は声を上げたが、なんと言葉を続けたら良いのか、何も思いつかない。言葉に詰まった有吾に、せんは小さく笑いかけた。
「いいんです、有吾さま。私は庄屋様に捨てられて、どこかでほっとしていたのです。不思議なことに、私が庄屋様に捨てられてしばらくは、記憶が抜け落ちることもなく、亭主を取られたと怒鳴り込んでくる人もなくなりました。けれども、穏やかな生活は長くは続きませんでした」
せんの握った拳が、小さく震えていた。
「私が庄屋様に捨てられてから一年ほど過ぎた頃だったと思います。この家に、盗賊が押し入りました。取られるようなものはありませんでしたが、盗賊は、ここを|塒《ねぐら》にすることに決めたようでした。私にいろいろと世話をさせて、それから……私は、奴らの慰みものにされたのです」
せんの震えは、拳から、腕へと広がっていく。
『せん!』
それまで黙って酒を舐めていた羅刹が声を発した。
『胸クソ悪いことを、いちいち思い出すんじゃねえ。みやぎが目を覚ますぞ』
ぐらりとせんの体が揺れる。
有吾は崩れてしまいそうになるせんの体を支えた。
「つつじが……あのとき……庭に真っ赤なつつじが咲いていました……」
せんが庭の植え込みに目を向けた。つられて有吾もそちらを振り返ったが、緑の葉が茂るばかりで、赤い花は咲いていない。
「私は、もう死んでしまいたいと、何も見たくないと、心から願って、そして、そのとおりに自分の心の中に閉じこもってしまった。目を閉じようとする瞬間、私は初めてみやぎを見ました」
――せん、お前本当に嫌な女だな。見たくないものは、全部おれに預けて、自分はなんにも知らない顔でさ。
薄れていく意識の中で、上も下もない闇夜のような場所で、私は私と瓜二つの顔をした女と向かい合って立っていました。
――あなた、だれ?
――みやぎだよ。
赤い、赤いつつじ。最後の瞬間、女の赤い唇が、三日月のように暗闇に浮かんで見えました。
「ここで、私の記憶は途切れます。賊がどうなったのかも、それから私自身がどうなったのかもわからないまま、何年も何年も、眠り続けていました」
語り終えると、せんは静かにまぶたを閉じた。
人に囲まれ……人に溺れるようにして生きている人々。
自分も、その内の一人になっての暮らし。
長屋のおかみさんたちや六助は、元気にしているだろうか。
『今夜が正念場だぜ』
羅刹の声が有吾を現実に引き戻した。
「今夜ですか」
『そうさ』
羅刹はそこで、もったいぶって少し間を開けた。
『今回の事件に関わる化け物は四匹』
「え? 四……?」
『まあ、全部が化け物ってわけじゃねえが、化け物に片足突っ込んでやがるのは確かだ。あ、もちろん四匹の中に俺は入ってないぞ』
有吾としては詳しく聞きたい話だったが、せっかく羅刹が話す気分になっているのに、水を差すことは避けたくて、口をつぐむ。
『お前はどいつとどいつを斬るんだろうなあ』
くくくっと、羅刹は笑い声を漏らした。
化け物であろうと人であろうと、有吾は斬ることを好まない。それを知っているくせに、いや、知っているからこそ羅刹は楽しんでいるのだろう。
「羅刹……さま?」
土間で忙しそうに立ち働いていたせんが姿を表した。
「炊いたご飯は梅干しのお握りにしたのですけど、今すぐ食べますか?」
『おう、握り飯か。いいじゃないか。持って来い、持って来い! 炊きたての御飯とやらを食べながら話を聞こうじゃねえか。せん、お前も飲めよ』
「はい、今お持ちしますから、ちょっと待っていてくださいね」
しばらくして、せんが握り飯をたくさん載せた盆を運んでくると、まだ日が高いというのに、宴会が始まった。
「こうして、誰かのためにご飯を炊くのは、ずいぶんと久しぶりのことでした。楽しいこと、ですね」
三人並んで、酒を飲みながら庭を眺める。そして、温かい握り飯を食う。うまそうに食べる羅刹につられて、有吾も握り飯に手を伸ばした。
じゅうぶんに腹が膨れた頃合いだった。
コトリ。
みやぎは手にした杯を膝の前に起き、背筋を伸ばした。
「私の話を、聞いていただけますか?」
有吾も手にしていた杯を床に置き、両の手を膝の上においた。羅刹は変わらずちびちびと酒を舐めている。
せんの表情から、笑みが消えていた。正面を見据え、静かに話し始める。
「先程も言いましたが、みやぎの話したことは、全て本当のことです。その昔、私はこの家で夫と二人、幸せに暮らしておりました。ある日夫が家を出て、そのまま帰らないまま月日が過ぎていきました。女ひとりで生きていくのは、大変なことでした。そこで私は、庄屋様に面倒を見ていただくようになりました……」
せんは、何かをこらえるように顔を上げ、瞼を閉じた。
有吾の胸のうちに影が差す。面倒を見てもらったということは、囲われ者になったということだ。
「暮らしは楽になりましたが、私にとってはつらい日々でした。
そして、その頃から、私の中で時折記憶が抜け落ちるようになったのです」
せんの青白い瞼の下で、眼球が忙しく動いていた。
「ある日私は庄屋様に、若い男と付き合ってるそうじゃないか、と|詰《なじ》られます。全く身に覚えのないことでした。でも、私があちこちの男にちょっかいを掛けていると、そう言って怒鳴り込んでくる村の人も出てきました。そんな事をした覚えはないのです。けれども皆、間違いなく私だというのです」
狐憑き、という言葉が有吾の中に浮かんだ。
狐憑きになると、その間は全く人が違ったようになるのだと言う。いつもは優しい人が、乱暴者になったり、正直者が、盗人になったりするのだ。そして、当の本人は、その間のことを覚えていない。
せんはその時の出来事をいくつか有吾と羅刹に語って聞かせた。
自分には身に覚えのないことで、周囲から孤立していくせんの様子が、有吾にはいたたまれなかった。
「何度も、庄屋様と言い合いになりました。最初のうちはわかったと言ってくれていましたが、庄屋様自身が私が若い男と逢い引きをしているのを見たというのです。私は庄屋様が怒るたびに泣いて侘びました。私には何もやましいところはありませんでしたが、謝らなければ殴られるのです。その間にも、亭主を寝取られたと怒鳴り込んでくる人もいました。何度もそんなことが続き、私はついに庄屋様に捨てられました」
「そんな……」
有吾は声を上げたが、なんと言葉を続けたら良いのか、何も思いつかない。言葉に詰まった有吾に、せんは小さく笑いかけた。
「いいんです、有吾さま。私は庄屋様に捨てられて、どこかでほっとしていたのです。不思議なことに、私が庄屋様に捨てられてしばらくは、記憶が抜け落ちることもなく、亭主を取られたと怒鳴り込んでくる人もなくなりました。けれども、穏やかな生活は長くは続きませんでした」
せんの握った拳が、小さく震えていた。
「私が庄屋様に捨てられてから一年ほど過ぎた頃だったと思います。この家に、盗賊が押し入りました。取られるようなものはありませんでしたが、盗賊は、ここを|塒《ねぐら》にすることに決めたようでした。私にいろいろと世話をさせて、それから……私は、奴らの慰みものにされたのです」
せんの震えは、拳から、腕へと広がっていく。
『せん!』
それまで黙って酒を舐めていた羅刹が声を発した。
『胸クソ悪いことを、いちいち思い出すんじゃねえ。みやぎが目を覚ますぞ』
ぐらりとせんの体が揺れる。
有吾は崩れてしまいそうになるせんの体を支えた。
「つつじが……あのとき……庭に真っ赤なつつじが咲いていました……」
せんが庭の植え込みに目を向けた。つられて有吾もそちらを振り返ったが、緑の葉が茂るばかりで、赤い花は咲いていない。
「私は、もう死んでしまいたいと、何も見たくないと、心から願って、そして、そのとおりに自分の心の中に閉じこもってしまった。目を閉じようとする瞬間、私は初めてみやぎを見ました」
――せん、お前本当に嫌な女だな。見たくないものは、全部おれに預けて、自分はなんにも知らない顔でさ。
薄れていく意識の中で、上も下もない闇夜のような場所で、私は私と瓜二つの顔をした女と向かい合って立っていました。
――あなた、だれ?
――みやぎだよ。
赤い、赤いつつじ。最後の瞬間、女の赤い唇が、三日月のように暗闇に浮かんで見えました。
「ここで、私の記憶は途切れます。賊がどうなったのかも、それから私自身がどうなったのかもわからないまま、何年も何年も、眠り続けていました」
語り終えると、せんは静かにまぶたを閉じた。