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妖異

 今朝も、質素ではあるが心のこもった朝飯が用意されている。
 食事を始めた二人の間には、しばらくの間会話はなかった。咀嚼の音、飲み込む音、食器の触れ合う音だけが聞こえる。
「あの、みやぎさん」
 声をかけられたみやぎは箸を動かしたまま、小首をかしげて有吾を上目遣いで見つめた。
「鶏小屋を、見せていただきたいのですが……」
 そう言葉にした途端、小さく空気が揺らいだ。ほんの瞬きほどの間だったろうか、みやぎの手が、止まったように見えた。けれどもみやぎは素知らぬ様子で食事を続け、口の中にあった漬物を噛み締め、飲み込み、ゆっくりと箸を置き、そしてようやく顔を上げた。
「わかりました」
 思いがけない答えに知らず、有吾の喉が鳴る。
 聞いてみたものの、断られるのではないかと考えていたのだ。
 おそらく、あそこになにかがあるはずだ。とよは、それを教えようとしたのではないか? そう有吾は考えている。
 あれがとよの生霊なのか、それともとよの身になにか起きたのか。それを知るためにも、きっとあの鶏小屋を調べなくてはいけない。そんな気がしている。
「けれど有吾様、その前に確認させてください」
 まさか自分がみやぎに質問されるとは思っていなかった。
 有吾は背筋を伸ばし、なんでも答える心づもりで「はい」と返事をした。
「化けもの屋、とは、あなた様の事で、間違いなかったでしょうか?」
「え?」
 みやぎは有吾をひたと見つめている。その視線は有吾の中にあるものまでをも見透かすかのように、じっと動かない。
 予期していなかった問に、有吾はたじろいだ。
「え? はぁ、私が化けもの屋などという商売をしているのは確かです。しかしみやぎさん、あなたはどうしてそれを?」
 自分の仕事について、有吾はみやぎに話していない。みやぎに警戒されるのを避けるために、敢えて口にしていなかったのだから、うっかり話したということもありえない。
 有吾は、刀を身に着けていないにもかかわらず、思わず腰に手をやりそうになった。

『間違いない。こいつが化けもの屋だよ』

 たじろぐ有吾の代わりに、はっきりと羅刹の声がした。
 みやぎにも聞こえたのだろう。
 声の主を探すように、きょろきょろと視線をさまよわせている。
「みやぎさんにも、聞こえましたか」
「今の声は?」
「私に宿る、鬼の声です」
「鬼!」
 みやぎは目を大きくした。
 だが、次の瞬間には「……は……」笑うような呼気がみやぎの口から漏れて、伸ばしていた背筋から力が抜けていく。みやぎは崩れるように畳の上に両の手をついた。
「どうされましたか?」
 みやぎに手をかそうとした有吾をとどめたのは、みやぎ本人の声だ。
「ならば」
 いままで聞いていたどの声音とも違う、腹の底から出すような低い声だ。有後に話しかけているわけではないらしい。おそらくみやぎは、有吾の中の鬼に向かって話しかけているのだろう。
「私は探し出しました。化けもの屋……。私の願いを、叶えてくれるのでしょうね? 鬼?」
『そうだな……だが』
 声だけでなく、有吾の左隣に人影が立つ。
 まず、白い裸足の足が視界の端に映った。はだけた裾。胸元が見えるほど気崩れた襟。どこか六助と似た面差しに、赤いざんばら髪。
 どうにもだらしのない姿だが、当の本人はこの外見が気に入ったのか、今日も昨夜と同じ姿だ。
『吾は嘘をつかれるのは好まぬと、以前伝えたはずだ。お前、まだ隠していることがあるだろう。それを洗いざらい吾の宿主に伝えるんだな。それができりゃあ、力を貸してやる、かもしれぬ』
「かもしれぬ、ですって?」
 目尻を釣り上げるみやぎと、羅刹の間に有吾は割って入った。
「ちょっと待ってください、二人とも! 私には、何が何やらさっぱりなんですが……」
 有吾は二人の顔を見比べた。
 面倒臭そうに舌打ちをして横を向く羅刹。
 恐ろしいほど真剣な顔で、みやぎは羅刹を睨んでいる。
「みやぎさん。羅刹と約束をしたというのなら、私が責任を持って約束を果たさせます。ですから、秘密というのを教えてくれませんか?」
 みやぎの表情から険しさが薄らいでいく。
「有吾様……」
 みやぎの眼に、薄っすらと涙が溜まっていた。
「どうぞ、お願いします。私をお助けくださいませ」
「私にできることなら、もちろんですが……」
 みやぎは膳を脇に避けると、有吾の前ににじり寄り、畳に額をこすりつけるようにして土下座をした。
「昨夜は……みやぎが失礼をいたしました」
「え?」
「今、あなた様の前におります私の名は、せん・・と申します」
「おせんさん?」
「そうです」
 混乱した有吾は羅刹を振り返った。羅刹はどっかりと有吾の隣にあぐらをかくと、膳の上の沢庵を鷲掴みにして口の中に放り込みはじめた。
『ふん。やっぱりそうだろ? あのみやぎって女の様子はどうもおかしいと思ってたのよ。お前さんなわけねえとさ……』
「羅刹」
 有吾の問いかけを無視して、羅刹はボリボリと音を立てながら沢庵を食っている。
『いいか、せん! 俺は今契約によって、こいつの身体に宿ってるんだ』
 羅刹は指先を有吾に突きつけるようにした。
『こいつが切ろうと思ったものしか、今の俺には切れん。だから、手を貸して欲しければ、こいつを動かすんだな』
「……なるほど。それであの時あなたさまは、化けもの屋を探せと私におっしゃったのですね」
 羅刹は返事をすることもせずに、ボリボリくちゃくちゃと音を立てながら、沢庵を食らっている。
「有吾様。では聞いて下さい。みやぎと私の関係を……」
 羅刹の分も、自分がせんに誠実であらねばならないような気がして、手をついたせんに有吾は「もちろんです」と答えた。
「みやぎが昨夜お二人に語って聞かせて身の上話は、本当のことです。ただし、あの経験をしたのは、みやぎの方ではなくて私なのです……」
 せんの顔が、苦しそうに歪んでいた。
 それは一体どういうことなのかと、有吾が身を乗り出そうとした時だった。
『酒がほしい。飯はもうないのかよ? お前たちばかり食ってるじゃないか』
 沢庵ばかりでは満足できなかったらしい羅刹がわがままを言いはじめる。
 酒を飲みながら飯を食っている場合ですか? 
 と、有吾が食って掛かるよりも前に
「すぐにお持ちしますね」とせんが立ち上がった。
 そして「有吾様もお酒にしますか? それともお茶を入れましょうか?」と聞いてくる。
 いりませんと断ろうかとも思ったが、少し考えた末に「酒をください」と言った。
 素面しらふではやっていられない。そう思ったからだ。
 一度部屋を出て行ったせんは、酒だけでなく、つまみに漬物を盛り付けた皿を用意して、戻ってきた。
『飯はまだか』
 とごねる羅刹に
「すいません、残っていた冷や飯は先程食べてしまいました。これから炊きますので、とりあえずこちらを食べていてくださいね」
 と、羅刹と有吾の手にした椀に、なみなみと酒を注いでくれた。
『おう、気が利くじゃないか』
 羅刹は上機嫌で皿の上の沢庵を手づかみで口に放り込む。有吾はというと、漬物を箸でつまみ、手のひらの上に一度載せてから、口の中へと入れた。
 羅刹とこうして並んで飲み食いするなど、はじめてのことかもしれない。不思議な心持ちになって羅刹に目を向けると、有吾の視線に気づいた羅刹が『なんだ』と不機嫌そうな声を出した。
「いえ、たいしたことではありません。鬼も、酒を飲んだり、飯を食ったりするのだな、と思っただけです」
『まあ、食わなくても、人のように死んだりはしないな。だいたい、死ぬというのがよくわからぬからな』
 そう言いながら、またもや沢庵を口に運んでいる。どうやら気に入ったらしい。他の漬物には目もくれず、沢庵ばかりを食べている。ほぼ一人で食べてしまう勢いだ。
 だいたいせんは、これからご飯を炊くと言った。
 この調子では、話が始まるまでに、ゆうに半時程は覚悟しなければならないだろう。
『ここまで来たら、急いだところで、状況は変わらねえよ』
 聞こえた羅刹の言葉は、まるで自分自身の心の声のようだった。
「状況は変わらないと言いますが、私にはその状況というのが、さっぱりわからないんです」
 羅刹は舌打ちをすると、手にした盃を有吾の前に差し出した。注げ、ということらしい。
 せんが置いていった片口から、羅刹と自分自身に酒を注ぐ。ぐいっと飲み干すと、喉から腹の奥にかけて、かあっと熱を帯びた。そのせいだろうか、庭からゆるりと吹いた風が、涼しくすら感じられた。
 静かな時間が過ぎていく。
 荒屋で、鬼と怪異に囲まれながら酒を飲む。この緊迫した事情がなければ、こういう酒宴もそう悪いものではない。
 日常からずいぶん遠いところへ着てしまったような気がして、有吾は江戸の喧騒をどこか懐かしいような気持ちで思い出していた。
 
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