Reunion2 決意
一度目にしてしまった信乃を、意識の中から締め出すのは至難の業だった。
それどころか、意識しないようにとすればするほど、秀一の中で、信乃の存在が膨れ上がっていく。
目は、宣誓の文言をしたためた紙を追っていたのだが、ともすると秀一の全神経は信乃の気配を探し出し、そこへ向かっていこうとする。
こんな事もあろうかと、文章をほとんど暗記していたことが、役に立った。秀一の焦りとは別に、言葉は意識せずともつらつらと出てくる。おかげで新入生代表という大役は、なんとか無事にこなすことができた。
秀一の心のうちの葛藤など、誰にも知られないままに、入学式自体は滞りなく進んでいった。
その後、一年壱組の教室に入ってからも、秀一は自分の意識をコントロールすることに、大変な力を使わなければならなかった。
秀一たち一年は三階に教室がある。信乃のいる二年生の教室は一階だ。秀一の神経は、この学園の中にある僅かな信乃の気配を求めて、研ぎ澄まされていく。その分、それ以外の感覚についてはついつい疎かになり……結果、教師の話など、まるで頭に入ってこない。
「一ノ瀬涼!」
大きな教師の声にはっとして、秀一の意識はクラスの中へと戻ってきた。
「はいいっ!?」
と、かなり大きな声で返事をして、椅子をガタつかせながら立ち上がったのは、今朝友達になったばかりの、白玉こと一ノ瀬涼だ。
「高校生活第一日からボケッとしているとは、ずいぶん余裕だな!」
涼をたしなめる教師の言葉に、秀一は自分自身の気を引き締めることができた。ボロを出さずに済んだのは、涼のおかげだ。
その後はスムーズに学活が進み、高校生活第一日目が終わっていく。
学活が終わると、ほとんどの生徒は、後ろに並んでいた父兄と一緒に教室を出て行った。
父兄の中には学園の寮や付近の宿泊施設に一泊していく者もいるらしいが、秀就と露は入学式が終わればすぐ、大神家へ帰る予定になっていた。
「寮に荷物も届いているでしょうから、いろいろと大変でしょう、お手伝いしていきたいのですけど……」
寂しそうに言う露に「大丈夫ですよ」と、にっこりと笑ってみせる。
ここで「ありがとうございます」などと言おうものなら、それじゃあ……と寮にまでやってきて、本当に荷解きの手伝いをし始めかねない。
「ゴールデンウィークというお休みが、すぐにあるんですって。帰ってきて下さいね」
「生活してみた上で必要なものなども出てくるかもしれんし、何かあったら連絡するといい、それまでに用意しておこう」
「そうですね、その時はお手数おかけします。ではゴールデンウィーク?……には、一度家に帰るようにしてみます」
そんな会話も、暫くすると尽きてくる。三人の中にそろそろ別れのときが近づいたのだという空気が流れる。
「行こうか……」
それでもまだ何か言いたげに秀一を見上げる露を、秀就は静かに促した。
露が秀一に背を向け、教室から出ていこうと歩きかけた時、一度教室を後にしたはずの白玉……もとい、一ノ瀬涼が、ひょっこりとクラスに戻ってきた。
キョロキョロと周囲を確認していた視線が、秀一の上で止まると、涼の表情がぱあっと輝いた。
「秀一! お客さんだよ!」
秀一は涼の言葉よりも先に「客」を見つけていた。
少し困ったような、少し緊張したような、少し拗ねたような……そんな面持ちで、立っている。
――信乃!
「信乃ちゃん!」
まっさきにそう呼びかけたのは露だった。露も飛び上がらんばかりに喜んで、信乃のそばへと駆け寄っていく。その後に、秀成も続いた。
信乃は二人の相手をしながら、時折ちらりと、秀一の方へ目を向けてくる。
秀一は、信乃を見た途端に肺が活動停止したのではないかと思った。慌ててこっそり深呼吸をして息を整える。
呼吸と心を整えてから、ゆっくりと信乃へ目を向ける。
ほんの少しだけ背が伸びただろうか。顔だちも、どこか大人びたような気がする。
信乃に駆け寄り、ぎゅうっと抱きしめてしまいたくなる気持ちを、必死に押し殺す。
不思議だった。
二年前までは、信乃に対してこんな衝動を覚えたことはなかった。
あまりにも久しぶりだからなのだろうか。
なんとか平静を取り戻し、秀一はようやく信乃へ向けて足を踏み出した。
自分の目の前に立った秀一を、信乃の黒目がちな瞳が見上げる。
こうして近づくと、以前よりも大きくなった身長差を、はっきりと感じることができた。信乃の身長の伸びよりも、秀一のそれのほうが遥かに大きかったのだ。
信乃の表情が変わる。
色白の透き通るような頬に赤みが差し、切れ長な目が涙に歪む。
その信乃の変化を、秀就が察したのだろう。
「じゃあ、失礼するよ。ああ、見送りはいらない」
と言うと、信乃の肩をポンポンと二度ほど叩いて、教室を出ていってしまった。露も信乃と秀一に笑いかけると、すぐに秀就の後を追って行ってしまう。
泣き出してしまいそうな顔をした信乃が、独りぽつんと秀一の前に取り残されていた。
秀一は、その場にまだ残っていた涼に向かって
「涼くん! ありがとう、また後で寮の方で!」
と声を掛けると、周りの目から信乃を隠すように肩に手を回し、そのまま足早に教室を後にした。
秀一が信乃の背中を押すように歩き始めたはずなのに、暫くすると信乃のほうが、秀一の手を引くようにして歩いていた。
九十九学園高等科の校舎には、東側と西側の二箇所に階段がある。無言でどんどん歩く信乃は、西階段も通り過ぎようとしていた。
「こっちは、生徒は立入禁止じゃないんですか?」
歩みを緩めて秀一は問いかけたが、信乃に立ち止まる様子はない。
指先だけで繋がれた手は、立ち止まればすぐに解けてしまいそうで、秀一は引かれるままに信乃の後に続いて西階段の先の学生立ち入り禁止のエリアに入っていった。
信乃の歩みに迷いは無く、校舎三階の一番西の隅までまっすぐにやってくると、ようやくそこで立ち止まる。
廊下の一番奥まったところにある小さな引き戸を開けて、部屋の中へと入っていく。
クラス名を表示するプレートには何も書かれていない。
それどころか、意識しないようにとすればするほど、秀一の中で、信乃の存在が膨れ上がっていく。
目は、宣誓の文言をしたためた紙を追っていたのだが、ともすると秀一の全神経は信乃の気配を探し出し、そこへ向かっていこうとする。
こんな事もあろうかと、文章をほとんど暗記していたことが、役に立った。秀一の焦りとは別に、言葉は意識せずともつらつらと出てくる。おかげで新入生代表という大役は、なんとか無事にこなすことができた。
秀一の心のうちの葛藤など、誰にも知られないままに、入学式自体は滞りなく進んでいった。
その後、一年壱組の教室に入ってからも、秀一は自分の意識をコントロールすることに、大変な力を使わなければならなかった。
秀一たち一年は三階に教室がある。信乃のいる二年生の教室は一階だ。秀一の神経は、この学園の中にある僅かな信乃の気配を求めて、研ぎ澄まされていく。その分、それ以外の感覚についてはついつい疎かになり……結果、教師の話など、まるで頭に入ってこない。
「一ノ瀬涼!」
大きな教師の声にはっとして、秀一の意識はクラスの中へと戻ってきた。
「はいいっ!?」
と、かなり大きな声で返事をして、椅子をガタつかせながら立ち上がったのは、今朝友達になったばかりの、白玉こと一ノ瀬涼だ。
「高校生活第一日からボケッとしているとは、ずいぶん余裕だな!」
涼をたしなめる教師の言葉に、秀一は自分自身の気を引き締めることができた。ボロを出さずに済んだのは、涼のおかげだ。
その後はスムーズに学活が進み、高校生活第一日目が終わっていく。
学活が終わると、ほとんどの生徒は、後ろに並んでいた父兄と一緒に教室を出て行った。
父兄の中には学園の寮や付近の宿泊施設に一泊していく者もいるらしいが、秀就と露は入学式が終わればすぐ、大神家へ帰る予定になっていた。
「寮に荷物も届いているでしょうから、いろいろと大変でしょう、お手伝いしていきたいのですけど……」
寂しそうに言う露に「大丈夫ですよ」と、にっこりと笑ってみせる。
ここで「ありがとうございます」などと言おうものなら、それじゃあ……と寮にまでやってきて、本当に荷解きの手伝いをし始めかねない。
「ゴールデンウィークというお休みが、すぐにあるんですって。帰ってきて下さいね」
「生活してみた上で必要なものなども出てくるかもしれんし、何かあったら連絡するといい、それまでに用意しておこう」
「そうですね、その時はお手数おかけします。ではゴールデンウィーク?……には、一度家に帰るようにしてみます」
そんな会話も、暫くすると尽きてくる。三人の中にそろそろ別れのときが近づいたのだという空気が流れる。
「行こうか……」
それでもまだ何か言いたげに秀一を見上げる露を、秀就は静かに促した。
露が秀一に背を向け、教室から出ていこうと歩きかけた時、一度教室を後にしたはずの白玉……もとい、一ノ瀬涼が、ひょっこりとクラスに戻ってきた。
キョロキョロと周囲を確認していた視線が、秀一の上で止まると、涼の表情がぱあっと輝いた。
「秀一! お客さんだよ!」
秀一は涼の言葉よりも先に「客」を見つけていた。
少し困ったような、少し緊張したような、少し拗ねたような……そんな面持ちで、立っている。
――信乃!
「信乃ちゃん!」
まっさきにそう呼びかけたのは露だった。露も飛び上がらんばかりに喜んで、信乃のそばへと駆け寄っていく。その後に、秀成も続いた。
信乃は二人の相手をしながら、時折ちらりと、秀一の方へ目を向けてくる。
秀一は、信乃を見た途端に肺が活動停止したのではないかと思った。慌ててこっそり深呼吸をして息を整える。
呼吸と心を整えてから、ゆっくりと信乃へ目を向ける。
ほんの少しだけ背が伸びただろうか。顔だちも、どこか大人びたような気がする。
信乃に駆け寄り、ぎゅうっと抱きしめてしまいたくなる気持ちを、必死に押し殺す。
不思議だった。
二年前までは、信乃に対してこんな衝動を覚えたことはなかった。
あまりにも久しぶりだからなのだろうか。
なんとか平静を取り戻し、秀一はようやく信乃へ向けて足を踏み出した。
自分の目の前に立った秀一を、信乃の黒目がちな瞳が見上げる。
こうして近づくと、以前よりも大きくなった身長差を、はっきりと感じることができた。信乃の身長の伸びよりも、秀一のそれのほうが遥かに大きかったのだ。
信乃の表情が変わる。
色白の透き通るような頬に赤みが差し、切れ長な目が涙に歪む。
その信乃の変化を、秀就が察したのだろう。
「じゃあ、失礼するよ。ああ、見送りはいらない」
と言うと、信乃の肩をポンポンと二度ほど叩いて、教室を出ていってしまった。露も信乃と秀一に笑いかけると、すぐに秀就の後を追って行ってしまう。
泣き出してしまいそうな顔をした信乃が、独りぽつんと秀一の前に取り残されていた。
秀一は、その場にまだ残っていた涼に向かって
「涼くん! ありがとう、また後で寮の方で!」
と声を掛けると、周りの目から信乃を隠すように肩に手を回し、そのまま足早に教室を後にした。
秀一が信乃の背中を押すように歩き始めたはずなのに、暫くすると信乃のほうが、秀一の手を引くようにして歩いていた。
九十九学園高等科の校舎には、東側と西側の二箇所に階段がある。無言でどんどん歩く信乃は、西階段も通り過ぎようとしていた。
「こっちは、生徒は立入禁止じゃないんですか?」
歩みを緩めて秀一は問いかけたが、信乃に立ち止まる様子はない。
指先だけで繋がれた手は、立ち止まればすぐに解けてしまいそうで、秀一は引かれるままに信乃の後に続いて西階段の先の学生立ち入り禁止のエリアに入っていった。
信乃の歩みに迷いは無く、校舎三階の一番西の隅までまっすぐにやってくると、ようやくそこで立ち止まる。
廊下の一番奥まったところにある小さな引き戸を開けて、部屋の中へと入っていく。
クラス名を表示するプレートには何も書かれていない。