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Reunion2 旅立ち

 春の遅い年だった。

 杉の木立の向こうには、しんと冷えた夜空がある。
 静かな闇。
 その闇の中に、仄かな明かりがぽつんと灯っていた。

 ◆

 大神秀一は、畳の上で座していた。
 真夜中と早朝の狭間のような時間帯。道場にはまだ誰も姿を現していない。
 深く息を吸い、そして吐き出していく。繰り返すごとに気が静まり、自分を取り巻く気配がはっきりと感じ取れるようになっていく。
 静かだと思っていた道場の周辺から、小さなざわめきが、耳に届き始める。
 そよと吹く風。揺らめく梢。ささやかな虫の声。そして、蠢くなにかの気配。夜に生きるものの気配。
 それらにゆっくりと感じ取ってから、秀一は意識を外から内へと向かわせた。
 一つ礼をして立ち上がる。
 ストレッチで体をほぐし、充分にほぐれたところで、ゆっくりと蹴りの練習を始める。前蹴りの下段、中段、上段。後ろ蹴りの下段、中段、上段。横蹴り、回し蹴り……。あまりスピードはあげず、型に忠実に繰り返しているだけで、じんわりと汗ばんでくる。
 蹴り技が一通り終われば突き技だ。
    
 もうすっかり身についていて、考えることもなく体が動いていた。
 頭の芯が空洞になっていくようなこの時間が、秀一は好きだった。

 シュ……、シュ……

 足が畳の上を移動するたびに小気味良い音がした。

 ダン!

 踏み込んだ足の音が、誰もいない道場に響く。
 と、その時、背後に気配を感じて秀一は動きを止めた。

「……翔?」

 振り返ると、そこにはジャージ姿の友が、扉に背を軽く預け、腕組みをして立っていた。
 相変わらずの貫禄で、もし九十九学園に入学すれば、生徒ではなく教師と間違えられるに違いない。
 翔の家は、秀一の家から直線距離で200キロほども離れている。
 天羽ほどの高次な妖であれば、その程度の距離は大した問題ではなく、ひと飛びで超えられる距離ではある。だが通常、それをあえて行うことはない。今まで突然、なんの前触れもなく、翔が秀一の前に姿を現すことなど、一度もないことだった。

「一人で……来たのか?」

 訝しみながら声をかけると、返事の代わりに飛んできたのは、鋭い蹴りだった。
 手加減などない。
 とっさに両手で受けたが、その重たさに、弾き飛ばされそうになる。

「何を……!」

 振り上げた足の向こうで翔がにやりと哂った。
    
 片足を上げたままだというのに、ふらつきもしない。

「……餞別」
「!」

 どういう意味だと、問いただす間もなかった。
 振り上げていた翔の足が下り、身体が沈んだと思うと、くるりと反転しながら後ろ回し蹴りが繰り出されてくる。
 あまりの速さに動きは全く見えなかったが、とっさに体が動き、蹴りを躱した。
 一呼吸の間もなく、次の攻撃が繰り出される。

「く……っ!」

 完全に出遅れた秀一は防戦一方だ。
 幾度も重たい攻撃を受け止めるが、これでは埒が明かない。
 突然の攻撃への疑問や戸惑いが秀一の頭の中でぐるぐると回るが、そんな気持ちのままで勝てるような相手ではない。
 全力で戦ったとしても、おそらく互角かそれ以下なのだ。
 秀一の逡巡を見透かしたかのように、鋭い回し蹴りが飛んできた。
 その鋭さが、秀一から思考を奪った。
 秀一は本能のまま、片手で蹴りを捌き、相手の懐に入りながら胸ぐらをつかみ、そのまま投げ技へと持ち込む。翔は投げ飛ばされながら、くるりと後ろに回転し、膝を立てた状態で起き上がった。
    
 派手に飛んでいったわりに、ダメージを受けた様子はない。
 秀一が腰を落とし、構える。
 胆が据わった。

「いくぞ」
「応」

 短いやり取りの後、動いたのは二人同時だった。

 畳と素足の擦れる音。体がぶつかり合う鈍い音。そして二人の息遣い。それらの音だけが、静かな道場に鳴り続ける。
 激しく、そして静かな闘いだった。
 見る者もいない、勝ち負けもない。止まってしまったかのような時間の中で、二人は黙々と拳を交えていた。

 そして……。

「おはようございまーす。誰かいますかー? 鍵空いてたんだけどー!」

 という、間の抜けた明るい声が聞こえてきたときには、二人はハアハアと荒い息を吐き、起き上がることはおろか、腕一つ持ち上げられないような状態で、道場のど真ん中に仰向けに倒れていたのだった。

 ◇

 シャワーを浴び、さっぱりとした顔になった翔は、秀一の部屋にいた。
 汗まみれになったジャージはクリーニングに回されたため、大神家から貸し出されTシャツにスウェットパンツというスタイルになっている。大神家のストックの中から一番大きなサイズを選んだのだが、ほんのすこしズボンの丈が短いようで、足首からはすね毛がチラチラとはみ出している。

「お前、スネ毛も赤いんだな」

 翔の髪の毛は、滅多にお目にかかれないほどの赤毛だ。

「スネ毛だけ黒かったら変だろう。そういうお前だって、スネ毛も薄いじゃないか」

 秀一のベットの上で、ずいぶんとリラックスした翔の様子に、多少イラッとした思いがこみ上げてくる。

「お前……今日俺の入学式だってわかってやがるのか!」

 何が悲しくて早朝から、起き上がれなくなるほど組手をやらされなくてはいけないのだ。

「まだ乾いてない……」

 秀一は琥珀色の髪の間に指を滑らせ、湿った感覚に舌打ちをした。

「ほっときゃ、乾くだろ」

 のほほんとした声が指摘する。襟のホックを止めながら、秀一は今にもベットの上に寝転びそうなほど身体が斜めになっている翔を睨んだ。

「殺っとくんだった……」

 かなり本気の殺意を込めたつもりだったが、翔の方はブハッと吹き出し、大笑いしている。
 むかつく。
 だが、よく考えると、翔が声を立てて笑うなんて、滅多にお目にかかれるものではない。ずいぶん長く友達をやっているが、これほど大笑いする翔なんて、記憶にない。そう思ったら、なぜか怒りもしぼんでしまった。

「まあ、さ」

 翔は崩れかけていた体を起こして、幾分背筋を伸ばした。

「お前が学園に入ると、なかなか会えなくなるしな」
「やっぱりお前は九十九学園には入る気はないのか?」
「……入るつもりなら、信乃と一緒に入学してたさ……」

 ついさっきまで真っ暗だったというのに、窓の外はもう明るくなっていた。
 翔は秀一から視線を外し、窓の外を眺めながら話した。

「俺は……どうも人混みは好かないな……。親父や理事会の了承は得ている。あの学園の意味は理解しているつもりだし、協力も惜しまない。ただ、あの学園に入るということは、強制的なものではないはずだ。俺みたいなものが認められているということで吸収できる不満もあるかも知れないだろう。……というのは、後付の理屈だが。つまり、そういうことだ」

 わからなくはない。
 秀一はもともと集団行動が嫌いではない。
 しかし、友人である天羽翔という男は、違う。
 それなりに能力もあり、器も大きいくせに、徹底して傍観者に収まりたがる。
 確かにあの学園に通うということは、彼のような男には、面倒ばかりなのかもしれないと、秀一は思った。
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