Reunion1 憧れの君
例年より気温が低く、いつまで経っても春らしい陽気にならない。
そんな年だった。
今日の天気予報は最高気温十三度。
ただそれは下界での話で、山の上に建つ九十九学園周辺だと、そこから大抵マイナス二、三度と思っていて間違いはない。
講堂の、開け放たれたドアからそよぐ風は冷たかったが、それでもどこか、春めいた匂いがした。
「もう少し、桜の花が頑張ってくれればなあ」
誰かの声が聞こえた。
一ノ瀬涼は、その声につられて、ドアから見える桜の木に目を向ける。
今年はいつまでも冬が居座っていたから、まだ花は咲いていなかった。
朝のニュース番組によれば、下界では桜が咲き始めたらしいが、ここは標高が高いせいで、周辺の開花時期よりも必ず数日は遅れる。赤く膨らむつぼみは今にも咲き出しそうにみえるが、明日の入学式には間に合わないだろう。
「信乃! ちょっと配置を見てくれない?」
大きな声が聞こえて、涼ははっと我に返った。
今は明日の入学式へ向けての準備作業中なのだ。窓の外を眺めてぼやっとしている暇はない。
ステージの上には『平成二十四年度 私立九十九学園高等科入学式』の看板がワイヤーで吊るされている。その下には演台やら来賓用の椅子が並べられていた。
ステージの上に立って下を見下ろしているのは、生徒会長の六角凜 だ。
凜は白い面に落ちかかるサラサラとした黒髪を耳にかけながら
「看板の位置、曲がってない?」
と、ステージ下にいる生徒会書記の安倍信乃に向かって問いかけている。
会場に緑色のシートを敷くという作業をしていた安倍信乃は、凜の声に手を止めて、ステージ上を見やった。
「問題ないと思いますが」
信乃の声に凜はにっこりとうなずく。
凜が微笑んだ途端、涼には彼女の背後に大輪の牡丹の花が咲き乱れるのを見たような気がした。凜は純和風な顔立ちで、西洋的な派手さはないが、どこか見たものを魅了する魅力を持っている。
一方、返事をした安倍信乃はというと、凜の笑顔に対して、まったくもって無表情であった。
「誰か! カラーテープ持ってる? 一応バミっとこうか?」
凜の声に、ステージ袖から一名の生徒が何本かのカラーテープを持って走り寄っていった。
作業を中断していた信乃は、また緑のシートを床の上に広げる作業へと戻っていく。
涼もまた、そんな信乃を横目で眺めながら、くるくると巻かれた緑のシートを広げる作業を開始した。
明日。四月九日月曜日は、私立九十九学園の入学式で、初等科、中等科、高等科と、順番に一日のうちにすべての式が行われることになっている。
教師陣は、初等科や中等科の会場設営を担当し、高等科入学式の会場設営は、生徒会役員を中心に生徒の手によって行われる事に決まっていた。
今日はまだ春休みということもあり、生徒たちは私服で作業にあたっている。
床を保護するためのシートを敷き終えると、今度は椅子を並べる作業へと移っていく。
パイプ椅子はステージ下に格納されていて、それが引き出されると、今まであちこちに分かれて作業をしていた生徒たちが、一斉に群がった。
涼が椅子を受け取るための列に並んでいると、ぽん、と背を叩かれた。振り返ると、安倍信乃がちょこんと首を傾げてこちらを見上げている。
涼は身長158センチである。高一男子のなかではおそらく一番背が低いのだが、安倍信乃は涼よりももっと背が低い。
背は低いが、短髪でボーイッシュな彼女は、今日のようにパーカーにジーンズという格好をしていると、少年と間違われることもしばしばだ。
「涼くん。生徒会役員でもないのに、手伝いに来てくれてたんだな。ありがとう」
「いえ、いいんです」
涼はピシッと背筋を伸ばした。
実はこの小柄な先輩に、涼は憧れている。尊敬6に憧れ3。そしてほんの少し交じるのは、春先のピンク色にも似たふわふわと甘い感情だ。
岩手の山奥に住んでいた涼がこの学園に入学し、ホームシックになっていたときに、優しく声をかけてくれたのが安倍信乃だった。
いじめなんていうほどの陰湿なものはなかったけれど、田舎から出てきた彼は「お前、しゃべり方変だよね」なんて言われるだけで傷ついていたのだ。言葉を投げかけたものは、涼が傷ついているということにすら気づいていなかっただろうけれど、必死で訛りが出ないように気をつけていた彼にとってはショックな言葉だった。
『しゃべり方に、変だなんてことはないと思うぞ。私は涼くんの話し方は、温かみがあって素敵だと思うのだが?』
と信乃が言ってくれたのは、涼が傷ついていることに気がついたからだと思う。なんてことのない一言だけれど、声をかけてくれた事自体が、涼にとってはありがたかった。
その後、涼は訛りを気にするのをやめた。
ただ、涼が方言全開で話し始めたところ、周囲の者が彼の言葉を理解できなくなってしまった。
例えば、皆で裏山に散歩に行った時のこと。『あ!げぁらごだ!』と、おたまじゃくしを見つけて沼の中を指さしたが、誰もわかってくれない。『げ……?』と言ったきり、友達は困ったような表情を浮かべていた。『げぁらごだよ。めげなぁ。びっきのわらすだぁ』と説明したのだが、誰一人として涼の言葉を理解したものがいなかったのである。
意味が通じないのではしょうがないので、以後言葉には気をつけている。ただ、イントネーションばかりはどうにもならなかったし、信乃に暖かみがあると言ってもらえたので、あまり気にしないことにしたのだった。
安倍信乃という先輩は、小柄だし、饒舌なわけでもないし、自ら人の前に出ていくタイプでもない。それなのに、なぜだろうか。自然と周囲から一目置かれる、そんな人だった。
そのあこがれの先輩が涼の前でくすりと笑った。
その途端、涼の心臓はドキドキを通り越して、バクバクと音を立て始める。
何しろ信乃の笑顔は、レア中のレアなのである。
――今日、手伝いをしてよかった!!!
神様など信じていないにもかかわらず、思わず手を組んで『神様ありがとう!』と叫びたくなってしまうほど、涼のテンションは上がりまくった。
「けど君、そういえばまだ高校生じゃないんじゃないか……自分自身の入学式の準備なのに来てくれてたんだな」
そうなのだ。明日は涼自身の入学式でもある。ただ、涼は内部からエスカレーター式での進学であり、高等科の寮にも引っ越しも済みである。
今日入学式の準備があることも、知っていた。憧れの先輩である凜や信乃と会いたくて、手伝う義務などこれっぽっちもないのに、自ら進んで入学式の準備に参加していたのだった。
そんな年だった。
今日の天気予報は最高気温十三度。
ただそれは下界での話で、山の上に建つ九十九学園周辺だと、そこから大抵マイナス二、三度と思っていて間違いはない。
講堂の、開け放たれたドアからそよぐ風は冷たかったが、それでもどこか、春めいた匂いがした。
「もう少し、桜の花が頑張ってくれればなあ」
誰かの声が聞こえた。
一ノ瀬涼は、その声につられて、ドアから見える桜の木に目を向ける。
今年はいつまでも冬が居座っていたから、まだ花は咲いていなかった。
朝のニュース番組によれば、下界では桜が咲き始めたらしいが、ここは標高が高いせいで、周辺の開花時期よりも必ず数日は遅れる。赤く膨らむつぼみは今にも咲き出しそうにみえるが、明日の入学式には間に合わないだろう。
「信乃! ちょっと配置を見てくれない?」
大きな声が聞こえて、涼ははっと我に返った。
今は明日の入学式へ向けての準備作業中なのだ。窓の外を眺めてぼやっとしている暇はない。
ステージの上には『平成二十四年度 私立九十九学園高等科入学式』の看板がワイヤーで吊るされている。その下には演台やら来賓用の椅子が並べられていた。
ステージの上に立って下を見下ろしているのは、生徒会長の
凜は白い面に落ちかかるサラサラとした黒髪を耳にかけながら
「看板の位置、曲がってない?」
と、ステージ下にいる生徒会書記の安倍信乃に向かって問いかけている。
会場に緑色のシートを敷くという作業をしていた安倍信乃は、凜の声に手を止めて、ステージ上を見やった。
「問題ないと思いますが」
信乃の声に凜はにっこりとうなずく。
凜が微笑んだ途端、涼には彼女の背後に大輪の牡丹の花が咲き乱れるのを見たような気がした。凜は純和風な顔立ちで、西洋的な派手さはないが、どこか見たものを魅了する魅力を持っている。
一方、返事をした安倍信乃はというと、凜の笑顔に対して、まったくもって無表情であった。
「誰か! カラーテープ持ってる? 一応バミっとこうか?」
凜の声に、ステージ袖から一名の生徒が何本かのカラーテープを持って走り寄っていった。
作業を中断していた信乃は、また緑のシートを床の上に広げる作業へと戻っていく。
涼もまた、そんな信乃を横目で眺めながら、くるくると巻かれた緑のシートを広げる作業を開始した。
明日。四月九日月曜日は、私立九十九学園の入学式で、初等科、中等科、高等科と、順番に一日のうちにすべての式が行われることになっている。
教師陣は、初等科や中等科の会場設営を担当し、高等科入学式の会場設営は、生徒会役員を中心に生徒の手によって行われる事に決まっていた。
今日はまだ春休みということもあり、生徒たちは私服で作業にあたっている。
床を保護するためのシートを敷き終えると、今度は椅子を並べる作業へと移っていく。
パイプ椅子はステージ下に格納されていて、それが引き出されると、今まであちこちに分かれて作業をしていた生徒たちが、一斉に群がった。
涼が椅子を受け取るための列に並んでいると、ぽん、と背を叩かれた。振り返ると、安倍信乃がちょこんと首を傾げてこちらを見上げている。
涼は身長158センチである。高一男子のなかではおそらく一番背が低いのだが、安倍信乃は涼よりももっと背が低い。
背は低いが、短髪でボーイッシュな彼女は、今日のようにパーカーにジーンズという格好をしていると、少年と間違われることもしばしばだ。
「涼くん。生徒会役員でもないのに、手伝いに来てくれてたんだな。ありがとう」
「いえ、いいんです」
涼はピシッと背筋を伸ばした。
実はこの小柄な先輩に、涼は憧れている。尊敬6に憧れ3。そしてほんの少し交じるのは、春先のピンク色にも似たふわふわと甘い感情だ。
岩手の山奥に住んでいた涼がこの学園に入学し、ホームシックになっていたときに、優しく声をかけてくれたのが安倍信乃だった。
いじめなんていうほどの陰湿なものはなかったけれど、田舎から出てきた彼は「お前、しゃべり方変だよね」なんて言われるだけで傷ついていたのだ。言葉を投げかけたものは、涼が傷ついているということにすら気づいていなかっただろうけれど、必死で訛りが出ないように気をつけていた彼にとってはショックな言葉だった。
『しゃべり方に、変だなんてことはないと思うぞ。私は涼くんの話し方は、温かみがあって素敵だと思うのだが?』
と信乃が言ってくれたのは、涼が傷ついていることに気がついたからだと思う。なんてことのない一言だけれど、声をかけてくれた事自体が、涼にとってはありがたかった。
その後、涼は訛りを気にするのをやめた。
ただ、涼が方言全開で話し始めたところ、周囲の者が彼の言葉を理解できなくなってしまった。
例えば、皆で裏山に散歩に行った時のこと。『あ!げぁらごだ!』と、おたまじゃくしを見つけて沼の中を指さしたが、誰もわかってくれない。『げ……?』と言ったきり、友達は困ったような表情を浮かべていた。『げぁらごだよ。めげなぁ。びっきのわらすだぁ』と説明したのだが、誰一人として涼の言葉を理解したものがいなかったのである。
意味が通じないのではしょうがないので、以後言葉には気をつけている。ただ、イントネーションばかりはどうにもならなかったし、信乃に暖かみがあると言ってもらえたので、あまり気にしないことにしたのだった。
安倍信乃という先輩は、小柄だし、饒舌なわけでもないし、自ら人の前に出ていくタイプでもない。それなのに、なぜだろうか。自然と周囲から一目置かれる、そんな人だった。
そのあこがれの先輩が涼の前でくすりと笑った。
その途端、涼の心臓はドキドキを通り越して、バクバクと音を立て始める。
何しろ信乃の笑顔は、レア中のレアなのである。
――今日、手伝いをしてよかった!!!
神様など信じていないにもかかわらず、思わず手を組んで『神様ありがとう!』と叫びたくなってしまうほど、涼のテンションは上がりまくった。
「けど君、そういえばまだ高校生じゃないんじゃないか……自分自身の入学式の準備なのに来てくれてたんだな」
そうなのだ。明日は涼自身の入学式でもある。ただ、涼は内部からエスカレーター式での進学であり、高等科の寮にも引っ越しも済みである。
今日入学式の準備があることも、知っていた。憧れの先輩である凜や信乃と会いたくて、手伝う義務などこれっぽっちもないのに、自ら進んで入学式の準備に参加していたのだった。